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第4話 母のポーチ



 4月29日。


 都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。


『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』


 今日も事故らず、終点まで無事着いた。

 今日も義務的に響くアナウンス。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください。はぁ……今日は大変だったな』


 連休前の朝は、普段よりも乗客が多かった。人のざわめきが車内に充満し、耳の奥にじわじわ残る。昨日の夏のような暑さとは違い、今日は肌寒い。寒暖差で体調を崩す人もいそうな気配だった。


 最後の乗客が降り、ようやく静寂が戻った車内で、俺はいつものように座席を見て回る。


「今日は……ポーチか」


 前扉から二つ目の座席に、小さな化粧ポーチが無造作に置かれていた。色あせたピンク色で、角は擦り切れている。若い子が持つものというより、主婦が長年使ってきた雰囲気だ。


 中を覗くと、口紅やファンデーションが雑に突っ込まれ、蓋もきちんと閉まっていない。化粧品の粉がポーチの内側に散らばり、長い間整理されていないことが一目で分かる。


 だが、俺の目を引いたのは底に張り付いた一枚の小さな紙切れだった。


 取り出してみると、それはメモではなく、印刷された書類の一部らしい。表題にははっきりとこう書かれていた。


 『无壙会・入信記録』


 瞬間、背筋に冷たいものが走った。昨日見た分厚い教典と同じ名前。そこには、会員番号や献金額が細かい文字でびっしりと並んでいる。単なる控えなのか、あるいは本物の記録なのかは分からない。


 けれど、最後の行に記されていた名前に、思わず息を呑んだ。


 ──今野智美


「……智美?」


 そう、これは今野沙希の母親の名前だ。母子家庭を支えるために、パートを掛け持ちして働く女性だと聞いていた。その姿は、地域の人々の間で「しっかり者の母親」として知られている。だが、その彼女が、ポーチの中にこんな入信記録を持ち歩いているとは想像もしなかった。


 しかも献金額の欄には、月ごとに金額が積み上がっている。数千円から数万円へと、徐々に増えていくその数字は、生活の余裕のなさを逆手に取るようにして伸びていた。


 これがもし本物だとしたら──


 智美は家庭を支えるために働いているはずなのに、その一部をこの宗教に注ぎ込んでいるのか。沙希がパパ活をしているという噂も、母の献金のせいで家計が圧迫されているから……と考えれば、不自然ではない。


「入信……いや、控えなのか?」


 俺は自分に言い聞かせるように呟いた。これはただの紙切れ、ただの忘れ物にすぎない。だが、目の前の現実は、母と娘を結ぶ見えない糸を浮かび上がらせているように思えてならなかった。


 ポーチの中身を整えながら、ふと想像する。


 ──智美は信者として、娘の沙希を宗教に引き込もうとしているのか。

 あるいは沙希自身が先に関わり、その影響を受けて母も入信したのか。


 どちらにしても、家庭の外で見える「しっかりした母と明るい娘」という姿とは、まるで別の顔がここにある。


 俺の心に、答えの出ない問いが積み重なっていく。

 ポーチを元の席に戻す。けれど胸のざわつきは消えない。


 化粧ポーチは、ただの忘れ物だ。だがその中には、確かに母娘の生活の断片が潜んでいた。俺がそこに足を踏み入れる資格などないのに、指先はまだ余韻を覚えている。


 車内のざわめきはすでに消え、静けさが戻っている。エンジンの低い唸りだけが響き、窓の外の曇天がぼんやりとガラスに映る。


「明日も、落とし物があると良いなぁ……」


 小さく呟いた声が、誰もいない座席に吸い込まれていく。


 バスの窓に映った自分の影は、少し疲れた顔をしていた。けれどその瞳には、また明日、他人の人生の断片に触れられるかもしれないという、微かな興奮が宿っていた。


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