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第3話 少女と教典



4月28日。


 都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。


『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』


 今日も事故らず、終点まで無事着いた。義務的に、けれど途切れることなく響くアナウンス。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 昨日の土砂降りが嘘のように、今日は朝から強い日差しが照りつけていた。窓から射し込む光が、車内の床を白く照らし出している。まだ4月だというのに、ニュースでは最高気温30度と伝えられていた。車内に残った熱気がじっとりとまとわりつき、額に汗がにじむ。


「なんだこれ……本?」


 座席を見回していると、国語辞典ほどもある分厚い本が二冊、ぽつんと置かれていた。場所は中ドアから右に進み、一段上がった右手の席──段差の先にあるその座席は、乗客の中でも限られた人しか選ばない。


 表紙には、見覚えのある文字が刻まれていた。『无壙会教典』──あの河本菊が熱心に入信しているという宗教のものだ。


 手に取った瞬間、ずしりと重みが腕にかかる。開いてみれば、紙は薄いのにぎっしりと細かい文字が並んでいる。日本語で書かれているはずなのに、読み進めるほど意味が頭に入ってこない。文章が砂のように指の隙間から零れ落ちていく感覚。目は文字を追っているのに、内容が脳に届かない。


「でも、河本さんの本じゃないよな……?」


 河本さんの物なら、もしいつもの定位置が埋まっていたとしても、彼女は決してこの席には座らない。

 それに、ここに座る人を──俺は知っている。


 17歳の女子高生、『今野沙希(こんの さき)』。


 笑顔で誰にでも挨拶をする、礼儀正しい少女。制服姿の彼女が座っている光景は、バスの風景の中でちょっとした彩りになっていた。だが最近、耳に入ってきた黒い噂が、彼女の印象を少しずつ変えていった。


 ──母子家庭で育ち、母の負担を減らすためにパパ活をしているらしい。


 噂はあくまで噂だ。誰かが面白がって流した与太話かもしれない。だが、一度耳に入った言葉は頭の隅に残り、こうして教典を前にすると、どうしても繋げて考えてしまう。


 なぜ彼女がこんなものを? 母の影響か、それとも彼女自身が?


 ページをめくると、整然とした文章が並んでいる。だがその整いすぎた文字の群れは、読めば読むほど重たく圧し掛かってきて、頭の奥に鈍い痛みを生む。息が詰まりそうになり、無意識に口で浅い呼吸を繰り返す。


 紙面の端には、小さな折り目がいくつもついていた。人の手で読み込まれた跡。誰かが必死に、あるいは義務のようにこの文字を目で追った痕跡。


「……これ、本当に彼女のものか?」


 疑問が喉に引っかかる。もしこれが今野沙希の持ち物なら、彼女は一体どんな気持ちで読み、どんな理由で持ち歩いていたのだろう。


 ふと、彼女の笑顔を思い出す。いつも軽く頭を下げる仕草。あの柔らかな声。もしそれが全て、母や宗教に強いられた「演技」だったとしたら──?


 背筋を伝う汗が、急に冷たく感じられた。


「……俺には関係のない話か」


 呟いて、教典をそっと閉じる。


 この二冊の本は、ただの忘れ物だ。だが、手放した誰かにとっては、信仰の証か、あるいは重荷そのものかもしれない。どちらにせよ、俺が踏み込む領域ではない。


 重たい本を元の席に戻し、指先で軽く表紙をなぞった。


「明日も、落とし物があると良いなぁ……」


 窓から射し込む光が車内の木目を照らし、誰もいない座席を浮かび上がらせる。静かなバスの中で、忘れ物は今日もまた──誰かの物語の入口を、黙って示していた。


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