第2話 二本の傘
4月27日。
都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。義務的に響くアナウンス。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
外は一日中、土砂降りだった。地元では洪水警報も出ており、雨音が車体を叩くリズムは、まるで不協和音のように聞こえた。水しぶきが窓を叩き、通り過ぎる車のヘッドライトが濡れた路面に反射して、車内の景色を揺らしている。
「今日は……傘か」
雨の日の忘れ物といえば、傘。誰もが一度は経験したことがあるだろう。俺自身、手から離した瞬間から、最初からなかったかのように忘れてしまう。
今日、見つけた傘は二本。一本は、中ドアから入って左手の前シート三席の最前列に立てかけられていた。ここは毎日、優しい口調で乗車するが降りる頃には不満ばかり溢している『河本菊』さんの定位置だ。
若者に対して文句を言いながらも、変な宗教に入信しており、毎回支払い前に勧誘をしては他の乗客に迷惑をかけている。俺にとっては正直、ただの老害だ。今日は珍しく、傘の先端に小さな水滴がついており、まるで彼女の怒りや不満が形になったかのように見えた。
傘を手に取り、持ち手の感触を確かめる。古いビニールの匂いと、微かに湿った革の手触りが混ざり合い、日常の忘れ物としては少し不自然な存在感を放っていた。手首に巻かれたゴムの感触が、雨の日の重苦しい空気と妙に馴染む。
そしてもう一本──前シートより一つ手前の席に、赤と白のチェック柄の傘が倒れていた。
普段なら誰の物かすぐ分かるはずの席なのに、今日は見覚えがない。俺が知っているのは毎日同じ席に座る人だけ。だからこの傘に違和感を感じざるを得なかった。
「……これ、血か?」
赤黒い濃淡が、まるで乾きかけた血のように見える。だが臭いはなく、泥で汚れているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせるも、視線は自然と後ろに向かう。誰もいない。車内はがらんとしているのに、なぜか背筋が冷える。
雨音の合間に、僅かに心臓の鼓動が大きく聞こえる。無意識に手を伸ばして傘を立て直す。細かい泥の粒が指先に冷たく感じられ、妙に生々しい。視界の端で振動する雨粒の光が、異様に怪しく映る。
視線を傘に戻すと、赤と白の柄の間に小さな折り目があり、まるで誰かが急いで畳んだ後のようだった。想像の中で、急いでバスを降りた人物の姿が浮かぶ。濡れた髪、泥の靴、緊張した呼吸──そのすべてが傘に刻まれた印象だ。
床に落ちた水滴を踏む感触。湿った革とビニールの匂い。誰もいないはずの車内に漂う緊張感が、心の奥底に微かなざわめきを呼び起こす。
「明日も落とし物があると良いなぁ……」
誰の物か分からない傘を前に、思わず呟く。もし、この席に座る人物がまた現れるなら……その人の秘密や思惑を、少しだけ覗けるかもしれない。
静まり返った車内に、雨音と俺の息だけが響いた。それでも、落とし物は確かに今日も『誰かの物語』を語っていた。