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最終話 忘れられた誰か


5月7日。


 都会の喧騒も、田舎の静寂もない。良く言えば丁度良い、悪く言えば中途半端な日本のある場所で、今日もバスは静かに走っていた。


『〇〇駅前・・・〇〇駅前・・・終点です』


 今日も事故らず、終点まで無事着いた。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 車内に漂う空気は、いつもと同じはずなのに、今日はどこか違った。

 終点が近づくにつれて、心の奥に妙なざわつきが広がる。

 

 まるで、この静けさの中に、自分だけが浮かんでいるかのような錯覚を覚える。


 座席を順に確認する。

 だが、今日は誰も忘れ物を残していない。財布も、傘も、ノートも、写真も──何もない。

 いつもは必ず何かが置かれているのに、この静けさは不気味だった。


「もう、終わりか……」


 自分に言い聞かせるように呟く。手の中には何もなく、視線は座席の隙間を行ったり来たりしている。

 

 だが、頭の片隅で妙な違和感がくすぶる。


 ふと、窓に映る自分の姿に目が止まった。運転席越しに、ぼんやりと揺らめくその輪郭──制服姿の自分が、通学カバンを抱えている。


「……あれ?」


 身体が硬直する。振り返ろうとするが、周囲には誰もいない。

 車内は静まり返り、時間が止まったようだ。風のざわめきも、外の音も届かない。


『──あなた、何者ですか?』


 耳元に落ちる声。確かに聞こえた。しかし振り返っても誰もいない。

 座席も通路も空っぽだ。ただ、窓に映る自分だけが、微かに揺らめいている。


「……逆に聞きたい。俺は、誰なんだ?」



 体の奥がぞわりとした。記憶の断片が、ひとつひとつ頭の中で光を帯びて浮かぶ。小学校の帰り道、初めて乗ったバス。

 笑い声、友達の顔、雨の日に濡れた制服。けれど、次第にその記憶は途切れ、孤独だけが残る。


 ──俺は、忘れられた誰かだったのか。


 幼い頃、事故に巻き込まれた自分。あの日、このバスで何かを失い、誰にも思い出されず、時間だけが流れていった。思い出されることなく、存在を消され、ただの「忘れ物」として取り残されていた自分。



 座席に置かれていた忘れ物の数々が脳裏を駆け巡る。


 前本正の財布、今野智美の封筒、沙希のノートや写真立て。あの人生の断片たちは、俺にとって他人の秘密を垣間見る小さな窓だった。だが、今日ここにあるのは俺自身。


『見つけました。あなたも、この世界の忘れ物です』


 声は運転席から聞こえる。冷たく澄んだ声。背筋が凍るような感覚が走った。

 呼びかけられた瞬間、視界の輪郭がぼやけ、世界がゆっくり沈んでいく。


 振り返ると、運転席には誰も座っていない。だが、確かにそこに存在する「何か」を感じる。

 自分を見つめる視線、全てを知っている目。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、手足が重くなる。


「……君は……誰だ?」


 声を出しても、車内には反響しない。ただ、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。


 座席を確認するも、物理的な忘れ物は何もない。いつもなら散乱するプリントやノート、財布や傘。今日は空っぽだ。


「……全部、俺のために?」


 ふと、気付く。


 これまで見てきた落とし物は、ただの偶然ではなかった。

 人生の断片、秘密、罪――忘れ物を通じて、俺は他人の人生の一端を垣間見てきた。

 そして今日、世界は俺自身を示している。


 視界の端、窓の映り込みに、制服姿の自分が再び浮かぶ。

 通学カバンを抱え、無表情のままこちらを見つめる。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


 ──俺は、忘れられたまま生きてきた。



 小学校の時の友達、家族、先生――誰も俺を覚えていない。事故で失った記憶も、自分の存在も、すべて取り残され、時間だけが過ぎ去った。

 人々の生活の中で、自分だけが「忘れ物」として存在し続けていたのだ。


『お降りの際は──お忘れ物のないよう、ご注意ください』


 アナウンスがいつものように流れる。しかし今は、単なる注意喚起ではない。俺に向けられた言葉だった。


 忘れ物のまま、世界に取り残された自分。 

 誰にも拾われず、誰にも思い出されず、ただ静かに消えていく運命。それを知らせる声だった。


 手を伸ばすと、窓の映像が揺らめき、制服姿の自分がゆっくりこちらに歩み寄る。息が詰まり、胸が張り裂けそうだ。


 忘れられた存在、忘れ物としての自分。だが、声が告げる。


『やっと、見つけましたよ』


 存在が確認される瞬間、世界が一瞬で透明になる。

 冷たい闇の中に、全てが吸い込まれていく。音も光も、時間も感情も、すべて消え失せる。


「……俺は、忘れられた誰かだったんだ」


 言葉を紡ぐと同時に、全身から力が抜け、視界が黒に溶けていく。冷たい闇の中、意識の断片だけが残る。

 終点のバス、座席、アナウンスの声──それらはもう、夢のように遠く、触れられない。


 だが、不思議と恐怖はない。静かな終わり、忘れ物としての存在。

 それは、これまでの人生の総まとめのようで、何か安らぎすら覚える。


 最後に残ったのは、冷たいアナウンスだけだった。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 文字通り、世界の終点で拾われたのは、他人の秘密でも、罪でも、人生でもない。



 ──俺自身だった。



 

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