第11話 沙希と智美の署名
5月6日。
都会の喧騒も田舎の静寂もない。良く言えば丁度良い、悪く言えば中途半端な町で、今日もバスは走っていた。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
アナウンスが車内に淡々と響く。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
バスを降りる前に、いつものように座席の隙間を確認する。すると、白い封筒が座席の端に落ちていた。
無造作に置かれているように見えるが、どこか異様な存在感を放っている。
「……また忘れ物か」
手に取り、封筒を開く。
中には診断書と誓約書が入っていた。診断書には今野沙希の名前が記され、病名は抑うつ症状。
原因の欄には『家庭環境』『宗教的影響』とあり、追記として『母親による強制的関与』と書かれていた。
「……母親による強制的関与?」
小さな文字に目を凝らす。
診断書の内容は客観的に書かれているが、そこから伝わる重みはただの文章ではない。
母親の存在、宗教的な影響、少女自身の意思──それらが複雑に絡み合い、沙希の心を締め付けている。
次に誓約書を見る。
署名欄には母親である今野智美の文字、その下に小さな字で沙希の署名がある。文字の震え方から、少女がどれほど強制されていたかが伝わってくる。
「……逃げられなかったんだな」
沙希は母の意思に巻き込まれ、無理やり宗教活動に従事させられていた。
それは昨日見た履歴書や人材リストの情報とも重なる。母親が娘を信仰の網に組み込み、組織の一部として動かしていたことは、封筒を通じて明確になった。
胸の奥で、言いようのないざわめきが広がる。
手に持った封筒は単なる紙の束ではなく、少女の人生そのものだった。これをただの忘れ物として扱うことなどできない。
座席に戻しながら、車内の静けさに耳を澄ませる。
外からは子どもたちの声や通り過ぎる車の音が届くが、バスの中は異様に静かだ。忘れ物として置かれた紙片が、まるで空気を震わせるように存在している。
「……俺には、どうすることもできないんだな」
そう呟く。封筒を戻す手は震えている。
しかし現実は変わらない。沙希の人生も、智美の意思も、この封筒の外に広がっている。自分の力では何もできないことを痛感する瞬間だ。
ふと封筒の端に小さな文字で追記があることに気づく。『担当者確認済み』──誰かが介入している。
医療機関と宗教組織、そして家族。そのすべてが沙希の生活を制御していたことを示している。
「……これも忘れ物か……いや、違う。これは……」
言葉に詰まる。
封筒の存在は、物理的な忘れ物ではなく、人生の証拠そのものだ。手にした瞬間、少女の抑圧された感情、母親の意思、そして組織の影が一度に押し寄せる。
座席を最後まで確認し、ふと窓に目をやる。
薄曇りの空の下、光が車内を揺らし、封筒の白さがさらに際立つ。忘れ物は、人の人生や秘密を象徴するものになり得る。
今日の封筒は、その最たる例だった。
「……でも、俺にはもう、どうすることもできない」
息を吐くと、手の中の封筒がずっしりと重く感じる。
これはただの紙ではない。
少女の未来、母親の意思、そして宗教組織の影響──すべてが詰まった重さだ。
バスのブザーが鳴る。終点に到着する。
外の世界は平穏そのものだが、車内には確かに何かが残っている。
それは、忘れられた人生、知られざる秘密、そして無力さの感覚。今日の忘れ物は、物理的な物以上のものを示していた。
手にした封筒を座席に戻し、深く息をつく。
忘れ物は、ただの落とし物ではない。人の人生、秘密、罪。それらを運ぶ。今日の忘れ物は、まさにその象徴だった。
視線を車内に巡らせる。
座席の影、窓際の光、何もないはずの空間が、まるで何かを潜ませているように見える。昨日までの静寂とは違い、今日のバスには、見えない圧力と重みが漂っていた。
「……明日は、一体……」
そう呟き、胸の奥で冷たい感触を覚える。
見えない存在、情報の重み、そして知られざる人生──すべてが、この封筒に凝縮されていた。
自分はただそれを拾っただけなのに、心に刻まれるのは逃れられない現実の感触だった。
今日の終点で手にした封筒は、単なる忘れ物ではなく、人の心と秘密、そして社会的圧力が絡み合う象徴だった。
それを抱えながら、バスを降りる足は重く、そして確かに、次に何が起こるのかを予感させていた。