第10話 封筒と履歴書
5月5日。
都会の喧騒も田舎の静寂もない。良く言えば丁度良い、悪く言えば中途半端な町で、今日もバスは走っていた。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
そしていつも通りのアナウンスが響く。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
車内を見渡す。
昨日までの静けさとは違い、薄曇りの光が差し込み、座席の隙間に微かな影を作っていた。その影の中に、茶色い封筒が一つぽつんと置かれている。
「……忘れ物か」
手に取ると封筒は少し厚みがあり、ただの書類ではない気配を放っていた。中を開けると、見覚えのある名前が目に入る。
「……前本正」
毎日のように乗車しては、げっそりした顔で黙って座るあの男。普段は無口で会話も少ない。だが、これがただの履歴書とは思えなかった。
封筒の中には職務経歴書と履歴書、数枚の添え状が入っていた。
職歴欄には『无壙会 本部事務局』とあり、添え状には『今野智美の指導のもと、熱心に活動』と書かれている。
「……やっぱり、繋がっていたのか」
これまでバスで出会った乗客たちは偶然だと思っていた。しかし履歴書の情報を見る限り、彼らはすべて同じ組織に関わっていたのだ。偶然ではなく、必然的に交わる糸があった。
ページをめくると最後に人材リストのような表が現れた。信者の階級、役割、献金額まで詳細に記されている。その中には智美と沙希の名前もあった。
「……彼女たちは、この網の中にいる……」
封筒を手に持ちながら視線を車内に巡らせる。昨日の見えない乗客の存在が今になってリンクしてくる。
忘れ物の裏には常に誰かの意図が隠れている。そして今日の封筒は、その最たるものだった。
手が震え、胸がざわつく。これは単なる忘れ物ではない。情報の塊、人生の一部、運命の断片──手にした瞬間、無重力のように心が浮き上がる感覚を覚えた。
「……忘れ物、じゃ済まされない」
ふと封筒の中から小さな紙片が落ちる。コピー用紙に印刷された文書で、タイトルは『個人献金履歴』。
十万、二十万、時には百万円単位の金額が並び、すべて同じ口座に振り込まれている。振込者欄には何度も「今野智美」と記されていた。
「……智美さんは……」
ただの専業主婦と思っていた女性が、ここまでの金額を扱っていたとは。
しかも娘の沙希の名前が信者リストに載っている。母娘そろって組織の一部として動いているのだ。胸の奥が疼く。
手のひらに汗が滲み、息が浅くなる。
ここに書かれた情報は、もはやプライベートではなく、社会的にも危険を孕んでいる。
「……関わるべきじゃない……でも、知ってしまった」
視線を車内の隅々に巡らせる。
座席の下や窓際、どこにも人影はない。しかし昨日の見えない乗客の気配が頭の中に蘇る。あの存在は、情報を知っているかのように、自分を試す目で見ている。
ふと封筒の中からさらに小さな紙が出てくる。手書きのメモで鉛筆で乱雑に文字が書かれていた。
『覚えておけ。あなたも、見ている』
紙を握りしめ、目を閉じる。心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。誰が書いたのか、いつ置かれたのか──すべて不明。だが確かに、自分が観察されている。
「……これは、ただの忘れ物じゃない……」
吐き出すように呟く。封筒をポケットにしまい、座席に戻す。手元が震え、指先に力が入らない。車内には、かすかな風と光だけが残っている。
終点のブザーが鳴る。
バスは静かに停車する。
外の世界は普段通り、平穏そのものだ。しかし車内に残る気配は容易には消えない。
忘れ物は、物だけではなく、人の人生、秘密、そして罪を運ぶ。今日の忘れ物は、その象徴だった。
「……明日も、何かが……あるのか」
座席を最後まで確認しながら、胸の奥に冷たい感触を覚える。
情報の重さと、見えない視線の存在感。終点に着くたび、世界が少しずつ変わっていく感覚を覚えた。
今日の終点は、ただの忘れ物以上のものを拾った。誰かの人生と秘密、そして自分が知らぬうちに関わってしまった現実そのものだった。