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第1話 最初の忘れ物



4月26日。


 都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。

 毎日同じ時間に、同じルートを、同じ終点まで。まるで誰かに定められた運命をなぞるかのように。


『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』


 車内アナウンスが響く。

 

 今日も事故らず、終点まで無事着いた。

 義務のように口にする。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 だが、この言葉に意味はない。終点に着いたとき、このバスには俺以外の人間は残っていないのだから。

 毎日の繰り返し。俺だけが残り、静まり返った車内で最後にすることは決まっている。


「今日は……財布か」


 座席を一つひとつ確認する。

 落とし物や忘れ物を拾い集めるのが、俺の日課であり楽しみだった。

 最近は物騒な世の中になったとよく聞く。終点まで残って、運転手が確認する前に落とし物を盗んでいく輩もいるらしい。日本もいつの間にか、治安が悪くなってしまったものだ。


 今日見つけたのは、前扉のすぐ右手──タイヤハウスの上にある席。そこにぽつんと置かれていた財布だった。

 この席は、毎日げっそりとした顔で乗ってくる男が好んで座る場所だ。名前は『前本正(まえもと ただし)』。

 今年で34歳になるという彼は、数年前に大きな仕事でミスをし、離婚。出世の道も断たれ、若い社員たちに追い抜かれるばかりで、会社では肩身の狭い思いをしているらしい。

 だからなのか、彼はいつも同じように繰り返し、誰に聞かせるでもない独り言を零す。

『私は愛していたのに』『悪かったのは私じゃない』

 ──呪文のような言葉を、バスに揺られながら口にしている。


 財布の中を開く。はみ出すほどのレシート、擦り切れた名刺。そして、一枚の写真。

 小さく折り畳まれたそれには、前本と娘らしき少女が一緒に写っていた。写真にはプリクラのように文字が加工され、『大好き。一生一緒』と書かれている。


 彼の表情はやや引きつっていたが、娘は屈託なく笑っていた。おそらく、娘にせがまれて撮ったのだろう。前本の性格を考えれば、断れなかったに違いない。


「……今日の忘れ物は、これだけか」


 財布を手に取りながら、誰もいない車内に呟く。

 普通なら厄介ごとでしかない落とし物。だが俺にとっては違う。

 落とし物は、人が生きた証であり、その人の断片だ。財布一つ、傘一本、ハンカチの一枚。そうしたものを通して、乗客の暮らしや心の影を覗き見ることができる。


 だいぶ歪んでいるのかもしれないが──俺にとってこれが唯一の楽しみでもある。


「明日も……忘れ物があると良いなぁ」


 小さな願いを口にして、車内の灯りを一つ落とした。

 静寂の中、窓ガラスに映った自分の姿が薄暗く揺れていた。


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