第6話 ノーレス先生
アーチの裏側から、草木の繁る庭園ではなく、真っ黒な空間がぽっかりと口を開けている。まるで別の場所に繋がっているようだ。黒い空間の奥で禍々しく明滅する、幾つもの赤い光。それが全て何かの眼であると気付いてしまった。ずるりと長い鉤爪が這い出てきて、今度こそ私は本当に怯えた。
「ま、まさか魔物……!?」
悪魔が人間に近い姿や知性であるのに対し、魔物は動物のそれに近い。けれど普通の人間にとっては十分危険で脅威だ。それがアーチのあちこちから現れ、花壇で咲く小さな花々を踏みにじった。
逃げなくては。魔物から距離を取ろうとしたのに、足は震えていた。この程度で足がすくむなんて、らしくないわ。私はハドリー家の跡取り娘よ。冷静に判断しないといけない。学園には優れた魔術師が何人もいる。きっと異変をすぐ察知して、ここに駆けつけてくれるわ。
『いつでも助けにきてあげる』
口付けられた手首が、熱をもつ。その部分に爪を立て、気のせいだと自分に言い聞かせた。悪魔に助けを求めるなんて、絶対ろくなことにならないわ。見返りとして、悪魔にしようという魂胆に決まっている。
そう、自分一人でなんとかしなくては。ようやく走り出したけれど、時すでに遅し。足首を何かに掴まれ、私は無様にも転んだ。振り返るのが怖くて、目を瞑る。こんなところで人知れず殺されるのかしら。でも、悪魔になってハドリー家の名を汚す位なら、ずっとマシな死に方じゃないかしら。
「──閉じろ」
低い男の声が、庭園に響いた。ごう、と強風が私の後ろへ向けて流れる。勢いのまま振り向くと、有象無象の魔物達がアーチの奥まで押し込められていくのが見えた。
空が晴れ、太陽の光が差し込む。アーチの裏にあるのは、ただの庭園の向こう側の景色。ものの数秒にして、庭園は落ち着いた空気を取り戻していた。掴まれた足首の鈍い痛みと、踏みにじられた花弁だけが、襲撃の名残だった。
さっきの声は。半身を起こしたまま顔を動かすと、庭園の入り口付近に立つ姿を見つけた。受付係をしていた、幼い見た目の魔法師だ。長い杖を構えたまま彼は草木の合間を掻き分けるように視線を巡らし、それからようやくこちらと視線をかち合わせる。どこか無機質で、冷たい視線のように感じたそれは、すぐに優しそうなそれへと変わった。高い少年の声で、大丈夫ですかと心配の言葉をかけてくる。
「間一髪でしたね。立てますか」
「結構よ」
近寄られるのを拒んで、自分で立ち上がる。一瞬垣間見せた冷たい眼差しに、信用できないものを感じたからだ。スカートについた汚れを無言で払うのを、彼は興味深そうに眺めていた。身だしなみを整えてから、改めて頭を下げる。相手の素性は分からないけれど、助けてもらった事には感謝をしなくてはならないわ。
「助けていただき、ありがとうございました。魔法に秀でていらっしゃるのね」
「ノーレス先生、と呼んでください。クロリンデ・ハドリーさん」
無害そうな笑みを浮かべ、先生は私の名前をフルネームで呼んだ。今日入学したばかりの新入生の名前を、わざわざ憶えているなんて妙だわ。つまり彼は、私の事を知っている。なんだか最近、そういうのばかりね。
「さて、先生と少々お話しましょうか」
胸元の真っ黒な花に視線をやり、幼い容姿の教師は有無を言わせず提案した。
※※※
話をしよう、と提案されたものの、私を生徒指導室に招いたノーレス先生は、とっとと部屋を出て行った。ご丁寧に、扉には魔法で鍵がかけられている。閉じ込められたんじゃないかしら、これ。
「危険人物を見張るため、かしら」
ドアノブに触れ、ひとりごちる。仕方なく近くの椅子に座り、胸元のコサージュに触れた。悪魔と同じ色に染まった花。これってやっぱり、私が悪魔や魔界と何らかの繋がりがあると示唆しているのかしら。だから、ノーレス先生は私を警戒している。オトメゲームの件を抜きにしても、悪魔にならないか勧誘されている人間なんて厄介案件。客観的に考えて、私もそう判断する。もしかしたら今頃、別室で私の処遇について相談されているのかも。そうだとしても、閉じ込められていては探ることもできない。まあ、仮に隣の部屋で会議をされていても、貴族たる私は盗み聞きなんてしないのだけれど。
『教えてあげようか』
手首に、つきりと痛みが走る。途端、耳元でノイズが走り出した。幻聴まで聞こえるなんて末期だわと感想を抱いているうちに、雑音は聞き取れる話し声へ調節された。
『──数か所で発生した魔物発生事件については、以上となります』
ノーレス先生の声が脳裏で響いた。待って、これ盗み聞きじゃないの。あの悪魔は私の行動を何処かで観察しているだけでは飽き足らず、はしたない行為を強制的に味わわせるだなんて、卑劣だわ。申し訳なさや罪悪感が襲ってくるけれど、脳裏に直接響く声は、耳を塞ごうと防ぎようがなかった。
『皆さんのお陰で、無事負傷者を出すことなく終えられました』
どうやら魔物が現れたのは、庭園だけではなかったらしい。そして事件を無事収束させた人物を集めて、話し合いをしているのだろう。どうあがいても聞こえてくるので、諦めて会話内容で状況を推測することにした。
『ノーレス先生、あの魔物達は一体?』
真面目そうな声には、聞き覚えがあった。入学式でスピーチをしていた第二王子だ。少し間が空いてから、ノーレス先生が返答する。
『皆さんに、内密でお伝えしたい事があります。実は、地上と魔界を遮る結界が解けかけているのです』
なんということなの、という驚きはなかった。ルーリィから告げられていた予言の通りだ。本当に、不本意ながら、とても認めたくないのだけれど、『境界のシルフィールド』が真の予言書である可能性に、少しだけ信憑性が増してしまった。