第50話 魔界へ
庭園の片隅。本来ならば植物達がひっそりと咲き誇っている場所がやけに生気を失っているのは、季節だけのせいではない。赤黒い空気に晒されじっとしている草花の影が、ぐらぐらと揺れる。小さな何かが忍び寄るように動き、けれど飛び出すまでには至らない。庭園の隅に設置された石を、それらは警戒していた。
土を踏む音がゆっくりと響く。侵入者達を導くようにして人影が歩み出でて、複雑な模様の刻まれた石を拾い上げた。
「ただの興味本位なら、そのまま地面に戻す機会をやるよ。つっても、危害を加える気満々みたいだけどさ」
最終通告ともとれる声に、人影は驚いたように振り向く。先程まで誰もいなかった数歩先で、ヒノが抜き身の短刀を手にしていた。
「あんた確か、エミリオだよな。前に食堂で見かけた時、クロリンデの家で働いてるやつだってエディト先輩が言ってたよ。若手で一番優秀だとか何とか」
「……お嬢様の元婚約者にまで記憶していただけていたなんて、光栄です」
陰のある笑みを浮かべ、エミリオは一礼した。石を掴んだ手を後ろにやろうとするのを許さず、小刀が一閃する。容赦なく振るわれたそれは、盗人の指から石を滑り落とさせるのに成功した。
「おれの行動は、要注意人物のチート賢者にでも見通されていたようですね」
「いいや、シエル先輩だ。こういう時には第三者からの奇襲も警戒しないとってさ。あの人しっかりしてるからなー。あんたがどうして行動できてるかは知らないけどさ。もしかして、悪魔に身体を売ったのか?」
小刀を軽く振るって血を払い、ヒノは口調だけ緩ませ侵入者を見つめる。負傷した片手を押さえて後ずさるエミリオは、右目を包帯で覆うようにしていた。
「ルーリィを、リリアを助けられるなら安いものです」
ぽたりと地面に落ちる血に反応したのか、草陰から少しずつ魔物が現れてゆく。どの身体も失われた瞳と同じ、灰色をどこかに宿していた。武器を構えるたった一人を、何体もが取り囲む。
「罠にかかったのはそちらです。いくら強くとも、一人では覆せないでしょう」
「いいや、二人だ」
硬質な声が、魔物の群れを薙ぎ払う。逃げようとする魔物を、地面から盛り上がった土が掴み取る。全ての敵を、ここへ食い止めようとするように。
「そちらの事情は知らないが、あのリリアはこの状況を喜ばないだろう」
「だな。そこは若手有能使用人も薄々承知しつつ、考えないようにしてるっぽいし」
見透かされた言動に、片側だけの灰瞳が苦々しげに伏せられる。躊躇いは一瞬の内に消え、エミリオは二人をきつく睨みつけた。
「何とでも言えばいい。おれは、おれの方法で彼女を救う」
「説得失敗か。なあトラヴィス先輩、勝負しないか。先に首謀者を無力化できた方の勝ちってことで」
「いいだろう」
束の間空いた個所を、新たな魔物が埋めてゆく。物量差を物ともせず、二人は襲い掛かってくる魔物へ武器を振り上げた。
※※※
瞬きをする間に、見慣れた学園の景色は赤黒い空気に塗り替わっていた。赤い空に太陽や月は存在せず、地面は赤錆や藍、紫に銀と、様々な粉が混ざり合ったような色をしている。あまりにも違い過ぎて、視覚が狂いそうだ。
「クロリンデ、悪魔になりたくないなら腕輪は絶対に外すな」
私の手首を掴み直し、ユークは虚空を睨みつける。周囲の景色はぐにゃぐにゃと歪んでいて、まるで水の上に落とした絵の具のようだ。
「異世界の境界付近まで俺の魔力で繋ぐ。暫くじっとしていろ」
「ゴールまでスキップしようだなんて、興覚めな選択だよ」
嘲るような声と共に、リデルが現れる。人間界のあの空間は、ヴールとリデルによるもの。つまり、リデル一人を止めても解決になる。これなら想定より早く解決できるかしら、と油断しかけていると、猫に似た瞳がすうっと細められた。
「ボクのクロリンデをお土産に連れてきてくれるなんて、親切なオマケだね」
「悪いな、今回はお前のクロリンデじゃない」
そう言うと、ユークは私を自分の方へ引き寄せた。片手で抱きかかえて見せつけるようにし、片頬を釣り上げて勝ち誇った声を上げる。
「俺の女だ」
「き、急に何を……貴方のものになった覚えはないわ」
「つれないなお嬢さん、俺を選ぶと決めたんだろう?」
「それは、そうだけれど」
だからって、悪魔にまで協力関係を知らしめる必要はあるのかしら。引きはがすべきか迷いつつ、蚊帳の外へと追い出された悪魔をちらりと確認する。
「ふーん。もう勝ったつもりになっているんだ。彼女の運命の相手はどの世界だろうとボクだって事実を、都合よく忘れちゃった?」
言葉こそ平静であるものの、こちらの予想以上に絶大な効果だった。全身から苛立ちを醸し出し、表情を削ぎ落しておきながら、唇だけが笑みの形を保っている。辛うじて感情を押し殺し、悪魔は腕の中に掴まっている私へと手を伸ばした。
「夢から醒める時間だ。戻っておいでよ、クロリンデ」
その言葉を合図に、景色が塗り替わった。私を繋ぎ止めていた腕が消え、棒立ちとなる。目の前に広がるのは、見慣れた屋敷の一室だった。
お父様、と声にならない声を上げる。死んでしまったお父様が、生きている。その光景に胸を揺さぶられる一方で、何故彼が自室で怯えたように腰を抜かしているのだろう、と疑問を抱いた。
「ごめんなさい。私、ほんの少しだけお父様を疑ってしまいましたわ」
ずるり、ずるりと音が響く。足を引きずるようにして現れたのは、私だった。教会で処刑される間際に逃げ出したのだろうか、あちこちが煤け、破れた服がみすぼらしい。異形の角が生え、肌から血を零れさせ、乱れた髪を物ともせず歩くさまは、ハドリー家の淑女たらんとしていた姿とは、あまりにかけ離れていた。
「お父様が望まれるなら、私もっと頑張りますわ。自慢の娘になるべく努力しますし、邪魔な人間がいると仰るなら、何人だって殺してみせます」
化け物と成り下がった私が、幽鬼の如く生みの親へにじり寄る。壁際まで追い詰められた父がどれだけ青ざめているか気付かないまま、私は笑みを作って頭を垂れた。
「どうかもう一度、もう一度だけでいいから、信じさせてください、お父様」
「だ、黙れ黙れ、この化け物が!」
枕元からナイフを手探りで掴み、父は腕を振り上げる。ほんの一瞬目の前の光景が途切れ、気付いた時には血の海に沈む父の姿があった。
──私が殺した。
お父様への思いだけを胸に、今まで頑張ってきたのに。生きる意味を自ら壊したのだと、遅れて気付く。震えた指が、血溜まりから凶器を拾い上げる。もう、ハドリー家にだって戻れない。人殺しの悪魔と成り果てた私が、生きている意味なんて、もう。
「キミのせいじゃないよ」
傷ついた動物を、そっと毛布でくるむように。優しい言葉が、喉元に当てたナイフを止める。自分と同じように角の生えた、赤髪の悪魔がそこにいた。
「悪いのは、キミを認めてくれなかった父親と、この世界だ」
死体を踵で踏みつけ、悪魔は嗤う。そんな人間捨て置けと、囁きかける。
「ボクはキミを誰よりも褒めて、認めて、可愛がって、愛してあげる。世界中の人間が敵に回っても、ボクだけは絶対に味方になってあげるよ」
「……味方、に?」
突然現れた男の甘言に、やけに心が惹きつけられた。この人なら信じても大丈夫だと、無条件に警戒心が和らいでゆく。
「さあ、おいで」
差し出された掌を、じっと見つめる。甘い救済の言葉に誘われるように、唇が弧を描いた。
「どの世界だろうと誘い文句が似たり寄ったりじゃないの。芸がない男ね」
鼻で笑った途端、血溜まりの風景は真っ暗な空間へと移り変わる。きっとあれは、大半の私が辿っていた過去なのだろう。絶望の淵から都合のいい言葉を浴びせて丸め込むだなんて、やり方が汚いわ。
──あのひとの手を取れば、楽になれるのに。
脳裏をかすめる言葉に、ため息をつく。悪魔の呪いだとか誘惑が、都合よく囁きかけてきているのだと思うようにしていたけれど。
「時折語りかけていたのは、私自身ね」
正確には、悪魔に堕ちた別の世界の私。闇の中から浮かび上がるようにして、硝子の中でかつて垣間見た悪魔が姿を現した。ブレスレットを握るようにして腕を組んでいる私を見て、嘲りの声を上げる。
「他の男から貰った首輪をいつまでも咥えているなんて。そんなゴミはすぐに捨てなさい」
「あら、悪魔しかいない貴方とは違って、私には使える味方がそれなりにいるのよ」
ユークは私と協力すると、傷つけはしないと約束してくれた。特専クラスの殿方も、ダンスを踊る位の仲にはなった。それに、ルーリィがいる。私を推していると、出会った時から熱心に主張している子が。だから、私には悪魔しかいないと縋る必要なんてない。
「私は絶対に、貴方と同じ道は歩まない」
どろりと濁った瞳に宿ったのは怒りか、或いは嫉妬か。澱んだ眼差しを真っ向から受け止め、私は、有り得たかもしれない姿を──派手で露出の多すぎる服をうんざりとした気分で睨んだ。
「大体、そんな下品な衣装を着るなんて死んでも御免だわ!!」
一喝したのを最後に、視界が大きくぶれた。




