第13話 賢者ユークレース・ノーレステッド
「気分が悪いのなら、医務室へ案内しましょうか」
「いいえ、結構ですわ。少し立ち眩みがしただけですから、お気になさらず」
差し出された手を拒み、自分で起き上がる。危うく悪魔の芝居にうっかり騙されかける所だったわ。よく考えなくとも、途中で他の女と純愛に耽る男(ルーリィ談)なんか、信用できる要素が微塵もない。雰囲気に飲まれかけたのかしら。それとも悪魔は精神を操る魔法が使えるのかも。危険極まりないわ。
「クロリンデ・ハドリーさん? 先ほどから心ここにあらずといった感じですが……辛い事があるなら、先生に相談してくださいね」
先生の若い容姿のせいで、数歳年下の相手に心配されているような妙な心地がする。本当に大丈夫だと言い返そうとして、私はひらめいた。ノーレス先生。そう、先生よ。いくら王子とはいえ、教師には逆らえないわよね。
「実は、少々困っておりますの」
先生も耳に入れているかもしれませんけれど、とシエル様に決闘を申し込まれた話をする。新入生ゆえ、急にそんなことを言われても困るばかり、どうか先生から彼に決闘を中止できないか呼びかけてもらえないか。と頼んでみた。あの王子に迷惑しているのは事実なのだし。
扉を閉め直し、ノーレス先生は顎に人差し指を当てて考えるそぶりを見せた。
「そうですねえ……まあどうにかなるんじゃないですか?」
「えっ?」
聞き間違いかと思い、つい驚きの声が漏れた。残念ながら、私の聴覚が不調だったわけではなかった。
「教師としては、学生同士の交流を止めるのは気が進みませんし。喧嘩に大人が介入するのは、大人げないですしね」
交流。喧嘩。大人げない。言葉の羅列に唖然としていると、先生はモスグリーン色の眼を笑みで歪ませる。この男、間違いなくこの状況を楽しんでいる。
「じゃあ頑張ってくださいね。先生は応援していますよ」
上っ面だけの応援に、ぶちりと忍耐が切れる音がした。王子に蔑まれ、悪魔に弄ばれ、いい加減我慢の限界だった。
「待ってください、先生──待ちなさい!」
扉に手をかけた後ろ姿へ吠える。ルーリィから告げられた切り札が、脳裏をよぎった。これに頼るのは、あの冗談みたいな予言書を──リリアが様々な男と結ばれ、私がほぼ死ぬと記された『境界のシルフィールド』を信じるも同義だ。
迷ったのは、一瞬だった。正直、信じきれない。認めたくない、けれど。あの悪魔の妄言よりは、ルーリィの話を信じる方がまだマシだ。
「私と取引なさい、賢者ユークレース・ノーレステッド!」
室内だというのに、カーテンが不自然にはためいた。口を手で塞がれ、そのまま机に押し付けられる。身動きのできない顔を、薄緑色の髪が掠めた。
「真名を気軽に呼ぶな」
あどけなさからは程遠い、低い声だった。机に散らばる、長く滑らかな薄い緑色の髪。怪しく光る、モスグリーン色の瞳。私にのしかかるようにして睨んでいるローブ姿の男。幼い容姿の教師は、本当の名を呼ばれた瞬間正体を現していた。
「誰からその名を聞いた。リリアか?」
吐息が触れそうな近さで、詰問される。大人の男から突然力ずくで押さえつけられ、震えそうになるのを叱咤する。弱みを見せたら、負けだから。
「女生徒に教師が乱暴な真似をするなど、褒められた行為ではありませんわよ」
口の拘束が緩んだ隙に、強気で言い返す。冷えた眼差しが、ほんの僅か細められた気がした。これは失敬、とからかうように言い返される。
「力ある魔法使いの名をみだりに口にしてはならない、という最低限のマナーを破られてしまったので、つい」
「あらごめんなさい。何分、魔法には疎い普通の貴族の娘ですから」
「そうですね。俺も、貴方が魔法使いの常識を知らない素人だと失念していました」
嫌味を言い合い、しばし視線で火花を散らせる。数秒後、男は堪えきれなかったように吹き出した。
「まったく、随分と気が強いお嬢さんだ」
「そういう先生は、随分と猫かぶりをしていらしたのね」
親切で優しそうなノーレス先生、というのは演技だったのね。無害ですよと言わんばかりのあどけない雰囲気はどこへ行ったのよ。まあ、さっきのやり取りは化けの皮が若干剥がれていたから、案外よく接していれば簡単に察せられるのかも。
「それで、取引したいというのは?」
「簡単な話だわ。貴方の素性を黙っていてもいい。その代わり私に協力しなさい」
私が言うと、彼は露骨なほどに大きくため息をついた。
「この程度で俺の尻尾を掴んだと息巻いているなんて、甘いお嬢さんだ。もっと穏便でスマートな解決法がある。例えばお前の記憶を消すとかな。俺が何を言いたいか分かるか?」
それのどこが穏便でスマートなのよ。むしろ脅しじゃないの。言い返しそうになるのを我慢しつつ、彼の意図を探ろうとした。
どうして強硬手段を使わないのか。それができない理由があるのか……いえ、恐らく彼は、力関係を訂正したいのだろう。つまり、私は協力を要請できる立場ではない。それにもかかわらず会話を続けていると言う事は。
「私次第で、協力『してやってもいい』、と?」
「そういう事だ。代わりに何を差し出してくれるのか、教えてもらおうか」
「ハドリー家の不利益となる事以外なら、何でもしますわ」
迂闊な判断で自分の全てを相手に委ねるなんて、悪魔の取引と同じ。ここで取引したばかりに利用されてハドリー家没落、なんて展開は避けたいもの。
「ハドリー家の、ねえ……。まあ無条件で全部受け入れる馬鹿よりは上出来か」
私の返答を、お気に召したのかどうか。彼はいいだろうと頷き、決闘の件は自分に任せろと言ってのけた。ようやく峠を越え、ほっと小さく息をつく。
「それで、対価として何を要求されるおつもりかしら」
身構えつつ睨みつけると、男は小さく笑みをこぼした。室内だと言うのに風が吹き、反射的に目を閉じる。瞬きをする間に、目の前の男は幼い容姿の魔術師の姿へと戻っていた。
「それは、決闘後までのお楽しみ、ということで」
全然楽しみじゃないわよと言い返すのは、心の中だけで留めておいた。