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だん! だん! だん! だん!
野菜を切る手にいつもより力が入る。下手すればまな板まで切ってしまいそうな勢いだ。
ああ、イライラする。クッキーくらいで何よ。あんなの分量を計ってきちんと混ぜて時間通りに焼けば誰でも作れるわよ。そりゃ、ご令嬢がそんな事するのは珍しいけど。とにかく、料理に関してクロヴィス・ナイトレイにバカにされた事が悔しくてたまらない。友人二人に救われたから良いけどね!
ふと、アリス様から貰ったクッキーを嬉しそうに受け取っていたクロヴィスの顔が浮かんでくる。私は思わず切りかけのキャベツに包丁をブスリと突き刺した。ああ、イライラする!
戸棚をがらりと開けて調味料を探していると、目に入った〝小麦粉〟の文字。私の手は勝手にその袋に伸びていった。
……小麦粉、バター、砂糖、卵。材料は揃ってるはずだ。確かチョコもあったしりんごもあったし、ジェシーから貰った紅茶のパウダーもあったし。あと何かあったかしら。クッキーは作る気がしないから、別の物にしよう。私は黙々と準備を進める。バターと砂糖を混ぜ、溶いた卵を数回に分けながら入れ、粉物をふるいにかけ……ただひたすら、無心で混ぜる、混ぜる、混ぜる。
「なんか甘い匂いがする! 何!? 何作ってんの!?」
オーブンから取り出すと、匂いに誘われるようにしてノエルがキッチンに顔を出した。
「今ね、パウンドケーキ焼いてたの」
「パウンドケーキ!? あ、ほんとだ! 普通のやつにチョコにマーブルに、あとはりんごか! ……ん? この黒い粒々のやつは何? 良い香りがする」
「それはアールグレイの紅茶を使ってるのよ」
「アールグレイ! なんかオシャレっぽい! でも、急にこんなに作るなんて何かあった? 明日学院で配るとか?」
「……別に何もないわ」
「そうなんだ。じゃあ食べてもいい?」
「ええ。いっぱい食べていいわよ」
「やった!」
五種類の切り分けられたケーキを前に、ノエルはどれを食べようか迷っているようだった。
「あ、そうだ! これもし良かったら師匠にも持って行っていい?」
「いいわよ。作りすぎちゃったから消費してくれると逆に助かるし」
「よっしゃ! じゃあ俺、持って行ってあっちで師匠と一緒に食べるね!」
ノエルは切り分けたケーキを紙で包むと、バスケットに詰め込み始めた。
「ねぇ。その師匠って人、剣術すごく上手いんでしょ?」
「うん!」
「騎士団とかに入ってないの?」
「……うん」
ノエルは顔を曇らせて俯いた。
「師匠は騎士を目指してたらしいんだけど、怪我しちゃったんだって。街で襲われていた人を助けた時に肩を斬られて、それが結構深い傷だったみたいで……」
ノエルの声がだんだん小さくなっていく。
「…………そう」
私も力ない声で返事をするのが精一杯だった。騎士になる夢を諦めるなんて、どれほど辛かっただろう。
「でも! 怪我はもうほとんど治ってるんだって! リハビリしてだいぶ動くようになったって! ……だから多分、師匠は夢を諦めたわけじゃないと思うんだ」
ノエルはぎゅっと拳を握った。
「だけど時々傷が痛んだり、前みたいには動けないみたいで。それを克服しようと、更なるリハビリのためにあの公園でひっそり練習してたんだって」
騎士の世界……私には想像出来ない世界だった。戦争が起きたら国を守るため率先して戦いに行かなければならない。平時は治安を守るため盗賊や破落戸なんかと戦わなければならない。いつ命を落とすかわからない、危険な世界だ。
斬りかかってくる相手と対峙するだけでも怖いのに、彼は怪我を負って、動くのも難しくなって。それでも騎士になろうとして努力を続けていて。きっと敵は相手だけじゃない。自分とも戦っているし、目に見えないプレッシャーや、周囲からの圧力なんかとも戦っているのだ。騎士になるには、強い精神力と強靭な肉体が必要なのだろう。もちろん、それを支える仲間の存在も大きい。
「現実は厳しくて、身体に不安を抱える人間が騎士になるのは難しい。だけど俺は……俺は、師匠に夢を諦めてほしくないんだ」
師匠を思うノエルの気持ちが伝わってくる。
「……うん。そうだね」
弟は、私の知らない間にだいぶ成長していたらしい。それが寂しいような嬉しいような、複雑な気分だ。
私はちょっとだけ頼もしくなったノエルの背中をバシッと叩いた。
「痛って! 何すんだよ!?」
「大丈夫よ。その師匠って人、今でもちゃんと努力続けてるんだから。そういう人は最後まで諦めないわ」
「……姉さん」
「それに、例え騎士になれなかったとしても。新しい夢を見つけて、今度はそれに向かって全力で努力するはずよ。ノエルの師匠は強いんでしょう?」
「……当たり前じゃん」
そう答えると、ノエルは背中をさすりながら言った。
「……てか姉さん力入れすぎじゃない?」
「もう一発くらっとく?」
「いや、遠慮しておきます」
私とノエルは顔を見合わせると一斉に笑い出した。
「あ、そうだ。今日の帰りディオン兄に会ったよ!」
「ディオン様に?」
「そう! そしたらなんとさぁ!! …………あ」
ノエルは何かに気付いたのか、不自然な所で言葉を切った。慌てたように両手で口を塞ぐ。
「なに? どうしたの?」
「……やばい。これは絶対に言うなって口止めされてたんだった」
「は? 誰に? 何を?」
「な、なんでもない! 今の忘れて! じゃあ俺行くね!!」
ノエルはテーブルに置いてあった一切れのパウンドケーキを手で掴んでぽんっと口に入れた。味見のつもりなのかしら。いくらなんでも行儀が悪いわ。
「あれ? このパウンドケーキいっつもより甘くないよね?」
「……そう?」
「いつもの甘いやつも好きだけど、俺これぐらいの甘さでもいいよ! それじゃ、行って来まーす!」
おかしいわね。ちゃんと分量通りに作ったはずなのに。試しにプレーンのパウンドケーキを一口かじる。
「…………なんだ、普通に甘いじゃない」
ケーキの味はいつもと変わらない甘さだった。何故かちょっと安心する。ノエルは紅茶のパウンドケーキを選んでたから甘さが足りなかったのだろう。そうよ、絶対そう。だって、砂糖を減らす理由なんて別にないもの。
はぁ、と溜息をつくと、玄関の方からガタガタと音がする。ノエルが帰って来るには早すぎるんだけど……忘れ物かしら?
ドタドタという足音が近付き、バーン! とドアが開かれた。