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*
王都のタウンハウス。
「ただいま帰りましたー」
迎えてくれる使用人は誰もいないが一応声をかける。……もちろん返事はない。代わりに屋敷の奥から部屋のドアの開閉音と、トタトタと近付く足音が聞こえてきた。入口で立ったままでいると、白いシャツにスラックスという動きやすい格好をした弟が姿を現す。手には愛用の模擬刀を抱えていた。
「ノエル! 帰ってたのね」
「うん」
ノエルは私の顔も見ずに通り過ぎる。
「どこかに出掛けるの?」
「自主練」
「……そう。いつもの公園?」
「うん」
「あんまり遅くならないでよ? 夕飯作って待ってるから」
「わかってる」
そう言ってすぐに出て行ったノエルから〝いってきます〟の言葉はない。無情にも背後でドアが音を立てて閉まる。私の口からははぁ、と深い溜め息がこぼれた。
最近ずっとこんな調子で、ノエルは私に対して非常に塩対応だ。やっぱりディオン様の言う通り反抗期なのかしら……?
学院に入学するため、ノエルが領地から王都にやって来て半年。学院にも王都の暮らしにも慣れて、お節介な姉の存在が嫌になったのかもしれない。別にブラコンっていうわけではないけど、姉としてはちょっと悲しいわ。
気を取り直して、私は制服からワンピースへと急いで着替える。これからすぐに夕食の準備に取りかからなきゃならない。それから明日の朝食とお弁当の仕込みと、洗濯も。やることは沢山あるんだから、気にしている暇はないのだ。
──現状からお察しの通り、我がヴァイオレット子爵家は貧乏である。
お母様が亡くなってしばらくした頃。すっかり気落ちした私たちに追い討ちをかけるように、大雨が子爵領を襲った。我が領地は小さいながらも農作物が盛んで、王都にもフルーツや果実酒などを出荷していたのだが、この大雨で土地がすっかりダメになってしまったのだ。
カークライト侯爵家とローウェン侯爵家からの支援のおかげで、領民の生活は何とか保障出来たが、領地の復興や事後処理で大忙しの日々が続いた。
いつまでも支援に頼る事は出来ないと、お父様は家にあるものをほとんど売り払い、領民のために使った。節約のため家令や使用人を最小限にし、泣く泣く辞めてもらった使用人たちには紹介状を書いて新しい勤め先を斡旋した。
私も領地にいる時は家事を手伝い、王都で学院に通いながら内職をして僅かばかりのお金を送って生活していた。最初の一、二年は領地から着いて来てくれた使用人が身の回りのお世話をしてくれていたけど、こっちの生活に慣れてきた頃には領地に戻ってもらった。今では馬車の送り迎えをしてくれる従者と、通いのメイドが月に一度様子を見に来てくれる。
一人での着替えも洗濯も、料理も掃除も市井への買い出しももうとっくに慣れた。令嬢としてはありえないのかもしれないが、私はこの生活が嫌いではない。
よし! と気合を入れて腕まくりをすると、私は食材をテーブルに並べ始めた。
*
…………遅い。
ノエルの帰りが遅すぎる。いつもならとっくに帰ってきている時間なのに。時計の秒針が進むカチコチという音だけが静かな部屋に響き渡る。
ノエルは将来的に子爵家を継ぐ嫡男だ。だけど騎士に憧れがあるらしく、小さい頃から独学で剣の訓練をしていた。それは王都に来た今でも変わらない。ノエルは学院から帰ると模擬刀を持って近くの公園に出掛け、剣の訓練をしている。
野菜をたっぷり入れて煮込んだポトフはもうすっかり冷めてしまった。外はもう暗い。まさか何か事件にでも巻き込まれたんじゃ……。貧乏でも貴族だもの。誘拐される危険は十分にあり得る。血の気の引いた顔で公園まで様子を見に行こうと立ち上がると、玄関の方でガタガタと音がした。私は急いで玄関に向かう。そこには、少し土で汚れた白いシャツを着たノエルが平然と立っていた。
「ノエル!! こんなに遅くまで何してたの! 心配したでしょ!?」
「あー……ごめん。訓練に夢中で」
「……まったく。事件に巻き込まれたかと思って気が気じゃなかったのよ。遅くなるなら伝言くらい頼んでよ」
「はいはい」
悪びれもなく答えるノエルに溜め息をついた。だけどまぁ、何もなくて良かったわ。
「夕ご飯出来てるから。早く手を洗って着替えて来て」
「それより聞いてよ姉さん!!」
「えっ!? な、何?」
ノエルは私を真っ直ぐ見つめると、珍しく声を張り上げた。
「俺、今日すごい人に会ったんだ!!」
「すごい人?」
「そう! すっげーの! そしてやっべーの!」
キラキラした目で興奮気味に話す。ええと……自主練中に公園で会った人がすごくてやばい? ……どう言う事? ていうか、弟の語彙力はどこに行ったのかしら。
「剣速が早くて! 太刀筋が綺麗で! 突きも正確で!」
「待ってノエル。ちょっと話についていけないわ」
「剣術だよ! 公園で剣術の訓練をしてる人に会ったんだ! それで俺、思わず声掛けたの!」
「はぁ!? 知らない人に何してるの!?」
私は驚いて叫んだ。ていうか公園で剣術の訓練してる人ってノエル以外にいるの!? 練習場とか訓練所とかでやるのが普通じゃないのかしら。ていうか剣振り回してる人がいるなんてその公園色々と大丈夫なの!? 焦る私を気にせず、ノエルは続けた。
「俺さぁ……ずっと独学で剣術やってきただろ?」
「うん」
「そこそこ体力もあるし、領地の子供たちと勝負した時は負けた事なんてなかったし、もしかしたら王都でも通用するんじゃないかって思ってたんだ。でも……」
言葉を途中で切ると、ノエルは下を向いた。
「……学院に入って騎士科の人たちの稽古とか見てたらさ、俺なんて足元にも及ばないんだって思い知らされた。やっぱり基本がなってないとダメなんだなってわかって、ちょっと落ち込んでたんだよね」
……なるほど、最近の塩対応の原因はこれだったのか。
ていうか、ノエルがそんな風に悩んでるなんて全然知らなかったわ。相談もしてくれないし。……やっぱり姉じゃ頼りないのかしら。お父様は領地の仕事が忙しくてあまりこっちに来れないし。
「でもさ! 今日あの人に出会って道が開いた気がしたんだ! 希望の光が見えたんだよ!!」
急に顔を上げると、私に向かって大きな声で言った。さっきまでの落ち込みようが嘘のようなテンションの高さだ。
「俺、いつもランダムで十本くらいの木に紙で印をつけて、その紙目掛けて模擬刀を素早く当てていくっていう反射と素早さと正確さを鍛える練習してるんだけどさ。今日、帰ってる途中に目印の紙を貼りっぱなしで来ちゃった事に気付いて慌てて戻ったんだ。そしたらそこに男の人が居てさ。持ってた模擬刀をその紙に向かって当て始めたんだ! 右、左、前、後ろ、斜めにステップを踏みながら、すっごいスピードで! しかもその正確さと言ったら…! 機械みたいな正確さなんだ!」
ノエルはいつになく饒舌だ。
「それで俺、ビックリして思わず聞いたの。どうやったらそんなに早く正確に動けるんですかって! そしたら何て言ったと思う? 〝知らねぇよ〟ってめっちゃ睨まれた!!」
ノエルは笑いながら言った。いやいや、嬉しそうに言う事じゃないでしょう。それ、相手の男の人にめちゃくちゃ迷惑がられてるじゃない。呆れたような私の視線にも気付かず、ノエルはニコニコと笑って続けた。
「まぁそっから俺の本領発揮だよね。教えてくれるまで帰りませんってしつこく粘って最終的には口説き落としてきた」
ノエルは腹立たしいほどのドヤ顔を披露する。ええ……嘘でしょ。そんな所で無駄な社交性と愛想の良さを発揮しないでほしい。……まったく。この強引さは誰に似たんだか。
ていうか、本人は口説き落としてきたって言ってるけど、それってノエルがあまりにもしつこくてウザかったから適当にあしらわれただけなんじゃ……? なんだかその可能性の方が高い気がする。
「それでさ、俺、明日からその人に剣術教えてもらうから!」
「ええええ……。だって迷惑がられてたんでしょ?」
「ちゃんと約束したから大丈夫だって! 口説いたって言ったろ?」
…………余計心配だ。
「その人知らない人でしょ。不審者とかじゃないの?」
「違うって! 師匠に失礼だぞ姉さん!」
「師匠?」
「ああ。名前聞いても教えてくれなかったからさ、勝手に師匠って呼ぶことにしたんだ!」
「……ふーん。ところで、その人って何歳くらいなの?」
「若いよ! 俺よりは年上だけど、たぶん学生だと思う。十七、八ってとこかな? あと、立ち振る舞い的に平民ではなかった。どっかの貴族の息子がお忍びで来てたのかも。俺みたいに」
……なるほど。それならまだ安心出来るかな? 考え込んでいると、ノエルがポツリと言った。
「俺。将来は子爵家を継ぐ立場だし、騎士になれないって事はわかってる。でも、いざという時に大切な家族や領民を守るためにも、強くなっておきたいんだ」
「ノエル……」
私の胸がキュッと締め付けられた。ノエルはただの「騎士に憧れがる剣術大好き少年」だと思っていたけど、こんな風に将来の事も考えていたのね。弟の成長に思わず感動してしまった。
「その人……ほんとに怪しい人じゃないんでしょうね?」
「断言しよう。剣術好きに悪い人はいない」
「はいはい。……あんまり迷惑かけないようにね」
「うん!!」
私の言葉にパッと顔を明るくしたノエルは勢いよく頷いた。
「今日の夕飯なに? 俺お腹空いちゃった!」
そう言いながら屋敷の中に入っていく背中を見て、思わず溜息が出た。……でも、こんなに笑ったノエルの顔は久し振りに見たなぁ。私の頬も自然と緩んでいた。