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……どうしよう。
私は途方に暮れていた。
入学式を終えたばかりでまだ騒がしい校内を、制服が汚れるのも気にせず這いつくばるようにして探し回る。周りの生徒は関わりたくないのか、みんな見て見ぬふりを決め込んでいた。中にはヒソヒソと私の行動を非難する姿もある。確かにこれは淑女がする行動ではない。それは十分わかっているけれど、今は緊急事態だ。なりふり構っていられない。世間の冷たさを背に感じながら、私は小さく溜息をついた。
それにしても……どこに落としちゃったのかしら。お母様から貰った、命よりも大切な淡いピンク色のハンカチ。我が家の家紋でもあるスミレの花の刺繍が施された、とても大切な物。
いつもはしっかりと鞄に入れて持ち歩いてるのに、今日は高等部の入学式だから特別に、と思ってポケットに入れておいたのが災いしたらしい。ああもう……落とした自分が本当に信じられない! 私は泣きそうになりながら探し続ける。
そしてついに。
廊下の曲がり角、階段へ続く踊場の片隅に、ぽつんと落ちている小さな布を見つけた。私の顔がパァッと輝く。間違いない、あれは私のハンカチだわ!! 急いで駆け寄ろうとした私の目に映ったのは、紺色のズボンと黒い革靴。
ちょっと待って、なんて声を出す暇もなく、その革靴は無残にもハンカチの上へと襲いかかった。ぎゅむ、という音がやけに大きく耳の奥で響く。……う、嘘でしょう……? 私は大慌てで走り出した。
「ち、ちょっとそこの貴方!!!!」
「は?」
「足! その足今すぐ退けて下さいませ!! 早く!!」
彼の足下にあるのはやっぱり私の探していたハンカチだった。しかし、今は無惨にも踏み付けられている。
「き、急に何なんだよお前!」
「とにかく早く退いて下さい!!」
「うおっ!?」
片足を掴んで無理やり退かせる。男子生徒はバランスを崩して転びそうになっていたが、気にしている余裕は私にはなかった。
「何すんだよ! 危ねーだろうが!」
上から降ってくる彼の言葉を無視して、私はハンカチの状態を確認する。淡いピンク色のハンカチは、中央からスミレの花の刺繍部分にかけてくっきりと靴跡が残り、埃や砂ですっかり汚れてしまっていた。シワひとつなかった綺麗なハンカチは跡形もない。ただ、破れやほつれがない事は不幸中の幸いだろう。……うん。これぐらいなら洗濯すればなんとかなるだろうし、とりあえず見つかって一安心だわ。
少し落ち着いた所で顔を上げると、眉間にシワを深く刻んだ男子生徒が私の手の中のハンカチを睨むように見つめていた。怒っているような悲しんでいるような何とも言えない複雑な表情をしている。
……そういえば。パニックだったとはいえ彼には悪い事をしてしまった。知らない女に突然足退けてなんて言われたら、そりゃ怒るに決まってるわよね。不快な思いをさせてしまって申し訳ないわ……。ハンカチだってわざと踏んだわけじゃないし、第一落とした私が悪いんだし。素直に謝ろうと口を開けた瞬間──彼は突然バカにしたようにハッと鼻で笑った。そして、ハンカチに視線を向けたまま「ダッセ」と暴言を吐いたのだ。
……………は?
私は耳を疑った。
今、この人笑ったわよね? 鼻で。バカにしたように。しかも何? 人の大切なもの踏み潰しておいて〝ダサい〟ですって? はぁ? このデザインのどこがダサいっていうのよ!? 洗練された美しいデザインでしょーが! まぁ確かに悪いのは落とした私だよ? でも、何も知らない赤の他人にダサいなんて言われる筋合いはまったくないわ! 私はふつふつと怒りがわいてきた。
「ちょっと! 人の大事なものバカにしないでくれる!?」
「は?」
「今このハンカチ見て笑ったでしょ! しかもダサいって言ったわ!」
彼は驚いたように目を見開く。
「あ、いや……別に俺は、」
「言っておくけど、そういう風に人の事バカにしてる貴方の方が超絶ダサいから!!」
「っ、ごちゃごちゃうっせーな! ダサいもんにダサいっつって何が悪いんだよ!!」
「ダサくないわ!! これは特別なハンカチなんだから! ていうか人の物踏んでおいて謝りもしないなんてどういうつもり!?」
「はぁ? どこが特別だよ。そんなもんどこにでも売ってるだろ!? 汚れてちょうど良かったじゃねーか。新しいのを買うチャンス、」
──パシン!!
気付けば私は彼の左頬をおもいっきり叩いていた。……駄目だった。それ以上はとてもじゃないけど聞いていられなかった。悔しいことに目頭が熱い。私は相手を精一杯睨み付ける。
「…………最低」
私はくるりと踵を返すと、その場から静かに離れた。彼が追ってくる気配はない。誰もいない廊下をズンズンと一人歩く。
ああもう、ムカつく。私はじんじんと熱い手のひらを気にしながら、ぐいっと力強く目元を拭った。
*
……うん。やっぱり思い出しただけでも腹が立つ。あの態度は人としてありえないでしょ。クズ。人でなし。私は心の中で罵倒する。
「……否定はしないわ。でも、クロヴィス様だってそのハンカチがお母様の形見だって事は知らなかったわけだし」
「それは……ええ」
私はスミレの刺繍が入ったハンカチを思い浮かべた。今も鞄の内ポケットに入っている、大切なハンカチ。
それは、私がお母様から貰った最初で最期のものだ。
お母様は、私が学院の初等部に入学する一年前に、病気でこの世を去った。
昔から体の弱かったお母様は、私と弟を産んだあと病状が悪くなり、ほとんど寝たきりの状態だった。だから、記憶の中のお母様はベッドで寝ている姿がほとんどだ。だけど、私と会う時はいつも優しくて、いつも笑顔だったのをよく覚えてる。たまにお医者様に付き添ってもらいながら庭の散歩をした事は良い思い出だ。
そんなお母様に貰ったのが、このスミレの花の刺繍が入ったハンカチだった。私は淡いピンク色の生地に薄い紫色の花、弟は淡い水色の生地に濃い紫色の花の刺繍が施してある。調子が良い時に、ベッドでコツコツと作ってくれていたらしい。繊細で可憐なその刺繍のハンカチは、お店で売られてる物と変わらない素晴らしい出来栄えだった。
私は嬉しくて嬉しくてたまらなくて。一生の宝物にするんだって、お母様から貰ったあの時に心に誓ったんだ。でも……それがまさか形見になってしまうなんて。あの時はこれっぽっちも思っていなかったのだけれど。
「だって態度が! 嘲笑ってからの暴言だったのよ!? 謝罪の一言もないし! 性格捻くれすぎじゃない?」
「まぁねぇ」
「しかも開き直って逆ギレしてくるし!」
「手を出したのはリシェルだけどね」
「あ、あれは! 頭に血が昇って、つい……」
ばつが悪くなった私は口ごもる。私だって……あんな事さえ言われなければ平手打ちなんてしなかったわよ。そりゃ、ジェシーの言う通りアイツは私の事情を知らなかったんだから仕方ないのは分かってるんだけど……でも。感情がついていけなかったのだ。私は小さく溜め息をつく。
あの一件で、私とクロヴィス・ナイトレイの仲は拗れに拗れた。
目が合えば睨み合い、直接会えば些細な事で言い争いを繰り返すその姿は、不本意ながら我が学院の名物になっている……らしい。
去年はクラスが別だったからまだ良かった。我が学院は成績順でクラスが振り分けられる。自慢じゃないが私とジェシー、そしてディオン様は入学以来成績優秀者が集うSクラスをキープしている。そのSクラスに、今年はクロヴィスが入ってきたのだ。確か去年はAクラスだったはずなので、成績が上がった結果なのだろう。腹立たしいが仕方ない。仕方ないけど、嫌でも毎日顔を合わせなきゃいけない状況にストレスを感じているのは確かだ。
「でも、ナイトレイ家と揉めなくて良かったじゃない」
「ええ」
「下手すればヴァイオレット子爵家は潰されててもおかしくなかったんだから」
「…………」
……本当にそれは助かった。ナイトレイ家は優秀な騎士を輩出している歴史ある名家だ。彼の家が動けば貧乏子爵家の我が家なんてあっという間に潰されるのは確実である。引っ叩いた相手が名のある伯爵家のご子息だと知った時は顔面蒼白でぶっ倒れるところだった。貴族の子息を叩いたというだけでも大問題なのに、よりによって貧乏子爵家の我が家より身分が上の伯爵家。
……終わった。
貴族人生終わったわ、とこの時の私は本気で考えていた。お父様、天国のお母様ごめんなさい。ヴァイオレット子爵家は今代で終焉を迎えるかもしれません。などと思いながらビクビクと数日間過ごしていたのだが、何故か奴は家に抗議文を送ってくる事も脅しをかけてくる事もなかった。理由はわからないけど、騎士道に反するとでも思ったのかしら? おかげで我が子爵家は今日も健在だ。貧乏だけど。
……あれ? そういえばアイツ、ナイトレイ家なのに騎士科には行かなかったって事よね? 我が学院には騎士を目指す生徒のために騎士科が設置してあるのに。ん? でもそういえば、騎士団直属の騎士養成学校からリオルド王立学院に編入してきたって聞いた事があるような……何かワケありなのかしら? まぁどうでもいいけど。
「ま、もし子爵家が潰されるような事になってたら我が侯爵家がすぐに助けたでしょうね。うちはみんなヴァイオレット子爵家が好きだから」
「…………ジェシー!!」
私は感動のあまりジェシーに抱き着いた。ああ、やはり持つべきものは友達ね!
「鬱陶しいわ。離れて」
「……はい」
心底迷惑そうな声で言われて、私は大人しくジェシーから離れる。くっ、このツンデレめ。
ちなみに、私とジェシーの間には子爵家と侯爵家という大きな身分差はあるけれど、彼女の母と私の母が親友だったため子供の頃から仲が良い。ディオン様とは領地が隣同士だった関係で交流があり、小さい頃はよく三人で遊んでいた。
「でも、あんまり感情的にならないよう気を付けなさいよ。庇うにも限界があるんだから」
「……肝に銘じておきます」
はぁ、と溜息をついて、私たちは空いていたテラス席に座った。