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それはあまりに突然だった。
「あ、今日訓練が終わったら師匠連れて来るから」
ノエルが、まるで「おはよう」の挨拶のような軽い雰囲気でとんでもない事を言った。
「……は?」
私は動揺のあまり持っていた刺繍糸をぼとりと床に落とす。
「ち、ちょっと待って。今日? 今日来るの?」
「うん」
「師匠が? 今日? 今日!?」
「うん! たぶん夕飯の頃に着くから、腕によりをかけてご馳走作っててね!」
それだけ言うと、ノエルは上機嫌で公園へと向かって行った。
……今日!? 夕方!? ちょっと待ってよ!? だって何の準備もしてないんですけど!? 嘘でしょ!? 部屋に残された私は突然の事に慌て出す。ええっと、とりあえず今すぐ買い出しに出掛けて料理の準備をすれば何とか間に合うかしら!? いや、間に合わせなきゃならない!!
ああもうノエルのバカ!! そういう事はもっと早く言えっていつも言ってるでしょうがアホバカ間抜けぇぇぇ!! と淑女とは到底思えない暴言を心の中で吐きながら、私は市場へと走り出した。
*
大慌てで買い物を済ませ、汗だくになって帰宅する。冷やした水をごくごくと飲み干すと、息をつく暇もなく料理作りに取りかかった。
まずは冷やすのに時間がかかるデザートのフルーツゼリーからだ。ボウルにゼラチンを入れてお湯で溶かし、砂糖とレモン汁を加えてよく混ぜる。
一口サイズに切った桃、チェリー、オレンジ、ブルーベリーなどのフルーツをバランス良く容器に入れ、先ほど溶かしたゼラチンを流し込む。粗熱をとったら、冬に出来た氷を大量に保存している氷室に置いて冷え固まるのを待つ。よし、デザートはとりあえずこれでいいわね。
次に、メインとなるミートパイ。パイ生地はボウルに強力粉と薄力粉を合わせてふるい、バターを入れてザックリ切るように混ぜる。そこに水を加えてさらに混ぜ、粉気がなくなったら生地をまとめて氷室で二時間ほど寝かせておく。本当は前の日から生地を作っておけばもっと効率よく出来たんだけど……仕方ない。責任は全てノエルにあるのだ。あとで文句の一つでも言ってやらなきゃ気が済まないわ!
……いやいや。愚痴を言っている場合じゃない。生地を寝かせている間に、野菜スープとミートパイのフィリングを作ってしまおう。
大きめの鍋にバターを溶かし、切ったベーコン、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、イモ、コーンなどを入れて軽く炒める。水とコンソメを入れ火にかけ、一煮立ちしたら塩コショウなどで味を整え完成だ。
生地もそろそろ良い頃合いなので、ミートパイの中身のフィリング作りにとりかかる。玉ねぎとにんじんをみじん切りにし、油を引いたフライパンで炒める。火が通ったらたっぷりの牛ひき肉を入れ、しっかりと炒める。トマトケチャップや、ソース、塩コショウで味付けをする。
氷室から寝かせていた生地を取り出したら、めん棒で伸ばして折りたたんでを数回繰り返し、ようやく完成だ。完成したパイ生地を薄く伸ばして二つに分け、一枚は型に入れ、フォークで数ヶ所穴を開けておく。先ほど作ったフィリングをぎゅぎゅっと詰め込み、ナイフで帯状に切っておいたもう一枚の生地をフィリングの上に編み込むように乗せていく。溶き卵を塗って、あたためていたオーブンに入れ、火加減を見ながら焼きあがるのを待つ。
額から流れる汗を拭って時間を確認すると、夕飯の時間までもうすぐだ。半日以上を料理にかけた事になるが、何とか間に合って良かったわ。ていうか私すごくない? あの短時間でここまで用意出来たんだから、今日ばかりは自分で自分を褒めてあげても良いと思う。これも全部連絡を怠ったノエルのせいだ。うん、あとで説教だわ。
さすがに汗だくの状態で初対面の人に会うのは申し訳ないので、シンプルなワンピースに着替え、ついでに髪も結び直した。新品のタオルセットが入った手提げ袋を自室の机に用意し、いつでも渡せるように準備しておく。はぁ……一昨日、いつ来てもいいようにと思ってお礼の品を買っておいて本当によかった。何事も早めの準備が大切ね。店員さんにもしっかり相談して選んだ肌触りの良い白いタオル。何枚あっても邪魔にならないし、剣術訓練後の汗拭きとして使ってもらってもいいし、と思って選んだものだ。
オーブンに入っているミートパイの様子を見ていると、外から誰かの話し声が聞こえてきた。
「ち、ちょっと待て!! ここ!? 夕飯奢るってここでかよ!?」
「そうですけど?」
「はぁ!? おまっ、だ、騙したなっ!?」
「人聞きの悪い事言わないで下さいよ。夕飯ご馳走するんで一緒に食べましょうって言っただけのどこが騙してるんですか?」
「場所だ場所!! 家でだなんて一言も聞いてねーぞ!?」
内容はよく聞き取れないが、割と大きな声なのでわやわやと騒がしい。時間的に、おそらくノエルと師匠なんだろうけど……この声、どこかで聞いた事があるような……?
「無理だ! 俺には絶対に無理だ!! 帰る!!」
「ええっ!? ここまで来てそれはないですよ師匠! 姉さんだってご飯作って待ってるんですから!!」
「それは相手が俺だって知らねーからだ!!」
「え? 知ってたら何か問題でもあるんですか?」
「問題どころか大問題だよ!! 下手すりゃこの世の終わりだ!!」
あまりに騒がしいので、私はガチャリとドアを開けて外に出た。やはりそこにはノエルともう一人、背の高い男性の後ろ姿があった。
「ノエル? そんな大声出して何してるの? 近所迷惑だから早く中に入りな……」
不自然なところで言葉が切れた。私は鳩が豆鉄砲を食うどころか、真正面から特大バズーカでも浴びたような顔で立ち尽くす。出てくる言葉が見当たらない。
…………あ。私ってば、知らないうちにこの暑さにやられてたのかもしれない。さっき買い物に行った時かしら。それとも料理に集中しすぎたせい? そうだ、きっとそうに違いない。だって、目の前に幻覚が見えるんだもの。
「あっ! 姉さん!」
私に気付いたノエルが元気良く手を振る。もう一人の男性の背中がびくりと跳ねた。
……う、嘘だよね? ありえないよね? アイツがここにいるわけないよね? 何かの間違いだよね? 幻覚だよね? そうだよね?
「聞いてよ! 師匠ってば屋敷の前に来たら急に帰るとか言い出してさぁ!」
いや、まさか。そんなことあるわけないって。私の喉はカラカラに渇いていく。
「せっかく姉さんが料理作って待っててくれてるのに、このまま帰るなんていくら師匠でも許せない愚行ですよ? だからほら、早く行きましょう!」
「お、おおお俺は帰るって言ってんだろ! いいから放せ!」
師匠と呼ばれた男は必死になってノエルに掴まれた腕を振りほどこうともがいている。この声、口調、ピンと張った後ろ姿、高身長の黒髪……嫌というほど見覚えがある。
「………………クロヴィス・ナイトレイ?」
ピタリ。
私が小さな声でその忌々しい名前を呼ぶと、もがいていた動きが止まる。ノエルが不思議そうな顔で私と師匠を見比べた。
「えっ? 姉さん、なんで師匠の名前知ってんの?」
げ、げ、幻覚じゃなかったあああああ……! 全然やっぱり本人だった。見間違いじゃなかった。嘘でしょ……誰か冗談だって言って!!
この状況で逃げるのは無理だと悟ったのか、クロヴィス・ナイトレイはゆっくりゆっくり振り向いた。ギギギ、と錆び付いて動かなくなったおもちゃのような鈍い動きだ。奴のつり上がった鋭い目が、まだ現状についていけず呆然としている私を捉えた。
「………………」
「………………」
お互い、ただひたすら無言で向かい合っている。均衡を破ったのは、もちろんノエルだった。
「姉さん紹介するよ! この方が師匠ことクロヴィス・ナイトレイ伯爵令息! 俺の憧れの人なんだ!!」
ノエルの場違いなほど明るい声にトドメを刺された。
これじゃ、ノエルの慕っている師匠が私の大嫌いなクロヴィス・ナイトレイだったってこと、認めざるを得ないじゃないの!!
そのとんでもない衝撃に、くらりと目眩がした。




