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「…………何してるの」
朝起きたら弟が変な格好で転がっていた。なんて言えばいいのかしら。腕立て伏せの途中の、一番キツい体勢のまま止まっている感じ。
「師匠が教えてくれた体幹を鍛えるトレーニングだよ。筋力だけじゃなくバランス感覚も鍛えられるんだって」
「…………へぇ」
ノエルは下を向いたまま答えた。筋肉痛とかにならないのかしら、と思いながら朝食を作り始める。……あれ? そういえばいつもなら張り切って訓練に行く準備をしてる時間なのに、今日はいいのかしら?
「ノエル、今日訓練は?」
「休みになった。師匠が用事あるんだって」
そう言ってパタン、と力尽きたように床に倒れた。まるで潰れたカエルのようだ。
「あ〜。暇だなぁ」
「学院の課題でもすればいいじゃない」
「……それとこれとは話が別だよ」
何言ってるのかしらこの弟は。課題からはどうやったって逃げられないのに。私、絶対手伝わないからね。白い目で見下ろしていると、ノエルは急にがばりと起き上がった。
「あ、そうだ姉さん。今度さ、師匠のこと家に呼んでもいい?」
「師匠って……剣術教えてくれてるあの師匠?」
「そうそう。俺に剣術教えてくれてるあの師匠!」
ノエルが得意気に言い切った。
「日頃の感謝を込めてさ、家に招待したいんだよね。こないだハンカチを探してくれたお礼も兼ねて」
この灼熱の太陽の下、ベランダでじりじりと干されている水色のハンカチを指差す。あれから何度も洗って干してを繰り返し、なんとか汚れが目立たない程度には戻せたけれど、今度は色褪せや劣化が心配だ。
「呼ぶのは別にいいわよ」
「よっしゃ! 姉さんならそう言ってくれると思った!」
ノエルはニコニコと上機嫌だ。でもまぁ、師匠さんにはいつかちゃんとお礼をしなくちゃいけないと思ってたから丁度いいわ。お世話になってるのにきちんと挨拶もしてないし。そうね、何かちょっとしたお礼の品でも買っておいて、来た時に渡そう。
「それでさ、その時師匠に夕飯ご馳走したいんだよね。姉さんの手料理を!」
「えっ、私の?」
「うん! ミートパイとかシチューとかハンバーグとかチーズケーキとか!!」
「……それは全部ノエルの好物でしょ」
「あ、バレたか。でも姉さんどれも得意だろ?」
「まぁ……一応ね」
「お願いだよ! 実は師匠に姉さんの手料理めちゃくちゃ美味しいんですって自慢しまくっててさぁ! 師匠もそんなに美味いなら食べてみたいって言ってるんだ! だからお願いします! この通り!」
両手を顔の前でパチンと合わせて必死にお願いのポーズを取る。そんなことしたって可愛くないわ。それより……何をとんでもない事言いふらしてるのかしら。めちゃくちゃ美味しいとか、勝手にハードル上げないでよね!
「夕飯作るのはいいけど……私の手料理なんかで良いの? カフェとかレストランとか、どこかに食べに行った方がいいんじゃない? それくらいならお金の心配はいらないわよ?」
「いやいや、姉さんの手料理がいいんだ!! その方がお礼の気持ちが伝わるし! それに師匠、こないだのパウンドケーキも気に入ってたから大丈夫だって! ね?」
「……ノエルがいいなら良いけど」
「良いに決まってるよ! ちなみに師匠、確かミートパイが好きって言ってた!」
「まぁとにかく、日にちが決まったらちゃんと教えてね」
「うん、わかった! 明日の訓練の時、師匠に話してみるから!」
元気よく返事をすると、再び体幹トレーニングをやり始めた。ミートパイか。あれ作るの時間かかるのよねぇ。シチューにハンバーグ……う〜ん……何を作ろうかしら。一応他のメニューも考えた方がいいわよね。
私の頭の中にはたくさんの料理が思い浮かんでいた。
*
体幹トレーニングに飽きたノエルは一応学院の課題に取りかかっていたのだが、行き詰まったのか「ちょっと走ってくる!」と言って外に出てしまった。……逃げ足だけは早いんだから。私ははぁ、と溜息をついた。
カランカラン! カランカランカランカラン!
玄関のドアベルがやけに激しく来客を知らせる。人が来る予定はなかったはずだけど……と思いながら開けると、そこには別荘に行っているはずのジェシーが立っていた。白いフリルの日傘と涼しげなワンピースドレスがよく似合っている。
「ジ、ジェシー!? 別荘に行ってたんじゃなかったの!?」
私は驚いて声を出す。
「さっき帰って来たの。ていうか先触れもなく突然ごめんね。でも、どうしても今すぐに話したくて!」
ジェシーにしては珍しくテンションが高い。とりあえず中に入ってもらい、冷たい果実水を用意した。
「あ、これお土産。特産チェリーの詰め合わせ。後でノエル君と食べて」
「わぁ、ありがとう」
ジェシーから渡されたお土産をありがたく受け取る。綺麗にラッピングされた大きな箱をキッチンに置いてすぐに戻ると、私はジェシーと向かい合った。
「それで? 何があったの?」
私はさっそく質問する。ジェシーは果実水を一口飲んで喉を潤すと、大きな目をニヤリと細めた。
「実はね、見たのよ」
「見た? 何を?」
「クロヴィス様とアリス様のデート現場」
クロヴィス様とアリス様のデート現場? クロヴィス様とアリス様の…………
「デッ!? は、はぁぁぁぁああ!?」
私は思わず叫んだ。反応を面白がっているのか、ジェシーの目は更に細まる。
「別荘から帰って来る途中、馬車の中からカフェでお茶してる二人を見かけたの。気になったからちょっと跡をつけてみたんだけど、あれは完全にデートだったわね」
「跡をつけたの!? ストーカーじゃない!」
「だって気になったんだもの。ほら見てこれ」
そう言ってジェシーが見せたのは、クロヴィス・ナイトレイとアリス・シュリアー伯爵令嬢が並んで歩いている一枚の写真だった。
当たり前だが、二人とも私服である。クロヴィス・ナイトレイはジャボの付いたブラウスに腰がキュッと引き締まった黒のスラックスを穿いており、無駄にスタイルの良さが引き立っていた。
一方、アリス様は涼やかな水色の半袖ワンピース。刺繍の入った大きめの白い襟にはフリルがついていて、清楚で可憐な彼女にぴったりだ。ふんわりと巻かれた金髪にリボンの飾りを着け、短いレースの手袋が陶器のような美しい手を守っている。
えっ、なにこれどういう事!? 二人はいつの間にこんな関係になってたわけ!? しかも相手は妖精姫として有名な超絶美少女アリス様よ!? あの目付きも性格も悪いクロヴィス・ナイトレイのデート相手が! 信じられないんですけど! 私は何故か動揺していた。
「カフェの後は貴族街のお店を二人で見て回ってたわよ。ちなみにこの写真はその時に撮ったやつ」
……というか、ジェシーはこの写真をどうやって撮ったのかしら。だってほぼ真正面から写ってるんだけど。これ、撮ったのバレてるんじゃないの?
私はもう一度写真を見る。クロヴィスの目付きは相変わらず悪いが、私と居る時と違ってくっきりとした眉間のシワはない。アリス様は頬をほんのりと赤く染めて隣のクロヴィスを見上げていた。
確かに。誰がどう見てもこれはデート現場だ。
「どちらかと言うとアリス様の方がグイグイ押してる感じだったけど、クロヴィス様も嫌がる素振りは見せてなかったわね」
「へぇ」
「紳士的にエスコートしてたし、やっぱり付き合ってるのかしら。覚えてる? アリス様、長期休暇前にもクロヴィス様にアピールしてたわよね?」
「へぇ」
「ねぇ、わたしの話聞いてる?」
「へぇ」
先ほど目撃したデート現場の様子を一部始終語るジェシーの言葉を適当に聞き流す。コップに注がれた果実水は柑橘系のせいか酸っぱい味がした。
「あらあらまぁまぁ。本当は気になってるくせに興味ないフリしちゃって。相変わらず素直じゃないわねぇ」
「は? 別にどうでもいいじゃない。あんな奴」
「あらら? もしかして機嫌悪い?」
ジェシーの楽しげな声がなんとなく気に障る。
「機嫌は悪くないわ。ただ久しぶりにクロヴィス・ナイトレイの話をしたから気分が悪いだけ」
「本当にそれだけ? あの二人が一緒に居たから気分が悪いんじゃないの?」
ぐぐぐっと眉間にシワが寄った。
「なんで私がそんな事思わなきゃならないのよ」
「ん? なんとなく」
ジェシーはあっけらかんとして言った。なんとなくで言われたのでは心外だ。クロヴィスが誰と一緒に居ようが、私には一切関係ないんだから。
「そういえばディオンは元気?」
「……さぁ。全然会ってないからわかんないわ。手紙のやり取りはたまにしてるけど。たぶん元気なんじゃないかしら?」
「ふーん」
自分から聞いてきた割にはまったく興味が無さそうな返事である。
「質問を変えるわ。ディオンと何かあった?」
「…………………………いや。何もない」
「何よ今の不自然な間は」
ああ、そうか。最初の質問は本題を聞き出すための前置きだったのか。今更ながら気付いた。態度には出さないよう気を付けていたつもりだったけど、ジェシーの目は誤魔化せなかったようだ。
「ディオン様とは本当に何もないの。ただ私が勝手に気にしてるだけっていうかなんていうか……」
「ふーん。ま、いいけど」
ジェシーに言った通り、私が一人で勝手にディオン様の事を意識しちゃっているだけだ。だから考えるだけ無駄なのは分かっているんだけど……どうしても考えてしまうのが乙女心というやつなのだろう。
「ノエル君は今日も剣術の稽古?」
「いや、今日は休み。勉強に飽きて走りに行った」
「あら元気ねぇ。確か師匠って人に剣術指南お願いしてるんだっけ?」
ジェシーには以前、ノエルが公園で〝師匠〟と剣術の訓練をしている事は話していた。
「うん。……そういえばその剣術を教えてる師匠、今度家に来る事になったの」
「え? なんで?」
「日頃の感謝をしたいから、姉さんの手料理をご馳走したいんだってノエルが言ってきたのよ」
ジェシーが眉を顰める。
「……ねぇ。その師匠ってどんな人なの?」
「実は……よくわかんないのよね。騎士を目指してたけど怪我で断念した同じくらいの年齢の男性っていう断片的な事しか知らないし」
「は? だって家に来るんでしょ? そんなんでいいわけ?」
「だって……ノエルが全然教えてくれないから」
ノエルは師匠と話したことやその日教えてもらったことは逐一話すくせに、肝心の師匠本人については詳しく話さない。身分も、名前も、年齢も。ここ数ヶ月、間接的とはいえある程度関わっているのにここまで相手の事を知らないなんて、よく考えなくても変な話だ。
「そんな人家に呼ぶなんて大丈夫なの? 身分は? 危険人物じゃないの?」
「……わからないわ」
「ちょっと!」
「でもノエルがお世話になってるのは本当だし、何かお礼はしなくちゃいけないと思ってるのよね」
「それはそうだけど……護衛とか付けた方がいいんじゃない?」
ジェシーは少し心配そうに言った。
「大丈夫。何かあったらグーで殴るから!!」
「いや……まぁいいわ。とにかく気を付けなさいよ」
呆れたような言葉だったが、私はしっかりと頷いた。




