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「…………ただいま」


 日射しもだいぶ弱くなり、夕食の準備もすっかり終えた頃、玄関から弱々しいノエルの声が聞こえてきた。向かってくる足取りがいつもより重い。……何かあったのかしら? リビングに来たノエルの顔は想像以上に暗いものだった。


「…………姉さん」

「な、何? どうしたの?」


 ノエルは練習着の後ろポケットから何かを取り出し、今にも死にそうな顔で手を差し出してくる。


「…………これ。どうにかなる?」


 手のひらに乗っていたのは見覚えのある淡い水色のハンカチ。お母様が一針一針気持ちを込めて刺繍してくれた形見のハンカチだ。ノエルもお守り代わりにいつも持ち歩いていたはずだけど……。


 濃い紫色の糸でスミレの花が刺繍されたそのハンカチは砂や土で茶色く汚れていて、黒いタイヤの跡がクッキリと残っていた。私は驚いてすぐに問いただす。


「ど、どうしたのこれ?」

「…………訓練の帰りに落とした」

「落としたぁ!?」

「……うん。師匠が探すの手伝ってくれたんだけど、見付けた時にはこうなってたんだ。たぶん馬車か何かに轢かれたんだと思う」


 ノエルは見るからに落ち込んでいた。……そうよね。だって、ノエルもこのハンカチを大切にしていたもの。私も高等部入学式の時に落としちゃったから、絶望的なその気持ちはよく分かる。そして、見つかった時の泣きたくなるような安心感も、汚してしまったという後悔と罪悪感も知っている。


「とりあえず見付かって良かったじゃない」


 ノエルにとってこのハンカチはお母様との数少ない思い出の品だ。小さかったノエルは、私よりもお母様と過ごした時間も記憶も少ない。だからこそ、このハンカチに対する思い入れが強いのだ。


「うん。でも……」


 ノエルが泣きそうな顔でハンカチを見る。私は元気付けるように笑顔で言った。


「大丈夫よノエル! 私がなんとかしてみせるから!」

「…………本当?」

「お姉様を信じなさい! それにこれ、汚れただけでしょ? 破れてなくて良かったじゃない」

「…………うん」


 ずずっと鼻を啜るノエルの手からハンカチを取る。……さて、と。どうしようかしら。汚れは目立つしタイヤの跡は落ちにくい。まずは洗面器にお湯を張って、ブラシと洗濯石鹸を用意して汚れを浮かせて……それでもダメなら浸け置きかしら? とりあえずやれる事は全てやってみよう。


 そのまま洗濯場に向かうと、心配なのかノエルも静かについてくる。せっせと準備を始める私の様子を後ろからじっと見ていた。


「…………姉さん。家事つらくない?」

「は?」


 ノエルの言葉にくるりと振り返る。


「あ、えっと、その……」

「何? どうしたの?」

「だって……姉さんは貴族令嬢なのに家事も内職も俺の世話もしてさ。友達と遊びに行くのも茶会に出るのも着飾るのも我慢して色んな事やってくれてるのに、俺ばっかり好き勝手してるから……。それに、今日みたいに迷惑かけてばっかりで悪いなって」


 俯き加減でぼそぼそ呟くノエルに、こないだのお父様の姿が重なった。……なんだろう。うちの家系の男はみんなネガティブ思考なのかしら。小さく溜め息をこぼした。


「ノエルまでお父様みたいなこと言わないでよ」

「父上? え、言われたの?」

「ええ。こないだ来た時に似たような事をちょっとね」

「そっか」


 ノエルは複雑そうな顔をする。


「……師匠に言われたんだ」


 ぼそりと呟くと、小さく息を吸った。


「俺、家のこと……母上がいない事とか姉さんの事とか師匠にちょっとだけ話してて。ハンカチを落とした時に、これが母上の形見だって言ったら一緒に探してくれたんだ」

「うん」

「見付けた時に〝大切な物なんだからもう落とすなよ。それと、お前が今こうして好きな事やれてんのは姉さんのおかげなんだからな。その事は忘れるな。お前の姉さんは泣き言なんて言わないかもしんねーけど、ちゃんとわかってやれよ〟って言われて。確かに師匠の言う通り、俺今まで姉さんに頼りっぱなしだったなって思って反省したんだ」


 叱られた犬のようにしゅんとしたノエルに向かって私は口を開いた。


「お父様にも言ったけど私は大丈夫よ。家事もそこまで苦じゃないし料理は好きだしもう慣れたわ。そりゃあ少しは遊びたいとかオシャレしたいとか思うけど。でも、社交界デビューして夜会に行くようになれば嫌でも着飾らなきゃならないし、それまでは別にいいの。てか何そんなこと気にしてんのよ。弟のくせに」

「……だって」

「……でも、ありがとう。お父様もノエルも私の事ちゃんと気遣ってくれてて嬉しいわ」

「……姉さん」


 私の言葉に、ノエルはぐっと息を飲んだ。


「大体ね、迷惑なんていくらでもかけていいのよ。私たちは家族なんだから。それぐらい何ともないの。ノエルだって、私が出掛けてて突然雨が降ってきた時、外に干してた洗濯物取り込んでくれた事あるでしょ?」

「そりゃあるけど、それとこれとは……」

「同じよ。あれがなければもう一度洗濯し直さなきゃならなかったんだから。助かった事に変わりはないわ。迷惑かけてもこうやって助け合ってるんだからお互い様。だからね、ノエルは今まで通り剣術の訓練を続けていけばいいの。出来る時間は限られてるんだから」

「……うん」

「それに、私は楽しそうに剣を振るうノエルを見てるのが好きなの! 分かった?」

「うん」


 そう言うと、ノエルの顔にようやく笑顔が戻った。


「さてと。じゃあお姉様は今から洗濯に励むわ! 花嫁修行にちょうどいいしね!」

「いや……花嫁修行って普通マナーとか学ぶんじゃないの? ていうか貴族に嫁ぐなら家事とか必要なくない?」

「何でも身に付けておいた方がいいのよ。貴族に嫁ぐって決まってるわけじゃないしょう? お金持ちの平民とかお金持ちの商家とか、貴族だとしても年の離れた方の後妻とかの可能性もあるし。もちろんお金持ちの」

「……金持ち限定かよ」

「あら、領地のためにはお金があった方がいいでしょ?」

「夢がないなぁ……」

「貴族の結婚なんてそんなものよ」

「ふーん……でもま。その前に貰い手があるか心配だけどね」


 軽口を叩いているうちに調子が戻ったのか、ノエルはニヤリと口角を上げる。


「……休暇中の課題が終わらないって泣き付いてきても絶対に手伝わないからね」

「ごめんなさい嘘です調子に乗りましたすみませんでした!!」


 ノエルの必死な様子にクスクスと笑いながら、お湯を溜めた洗面器を用意する。どうか汚れが落ちますように。せめて目立たないくらいには落ちて下さい、お願いします。


 神様に祈りながら、私はハンカチの洗濯を始めた。


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