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夏の長期休暇前。最大の敵である定期試験が無事に終わった。生徒たちの気分はもうすっかり休暇モードで、こころなしかみんな浮き足立っている。もちろん私もその一人だ。
「げっ」
そんな私の浮かれた気分は、大嫌いな男に会ったせいで一気に地に落ちた。
次の授業は選択授業なので、指定の教室に移動しようとジェシーと一緒に廊下を歩いていると、前からディオン様と二人で歩いてくるクロヴィス・ナイトレイと遭遇してしまったのだ。うわー、最悪。今はディオン様と会うのもなんとなく気まずくて、教室でもそれとなく避けてたのに。ていうか、なんだか最近クロヴィス・ナイトレイと関わる確率が高い気がするんだけど。同じクラスだから顔を合わせるのは仕方ないにしても、呪われてるのかしら。向こうも私に気付いたらしく、眉間にシワを寄せる。
「お前、なんでここに居るんだよ」
「移動教室だから歩いてただけですけど?」
「チッ……もっと遅く来ればよかった。そうすれば無駄に顔合わせなくて済んだのに」
「はぁ!?」
「まぁまぁ。あ、そういえばもうすぐ夏の長期休暇だな。休みは嬉しいけど、皆に会えないと思うと少し寂しい気がするよ」
険悪な雰囲気を変えるように、ディオン様が笑顔で言った。こういう事を恥ずかしげもなく言えるなんて、さすが天性の人たらしである。
「ハンッ! 俺はしばらくこの腹立たしいしかめっ面を見なくて済むと思うと清々するけどな!」
「はぁ? その言葉そっくりそのままプラスオマケ付きで返してやるわ!」
「いらねーよ!」
「返品は受付けてませんから!」
本当にこの男と居るとストレスが溜まるわ! 顔を合わせなくて済む夏の長期休暇が待ち遠しい!
「ディオン! 俺は先に行くからな!」
クロヴィス・ナイトレイはイライラしたように言い放つと、ディオン様を置いてどこかに行ってしまった。私は大きな溜息をつくと、ディオン様に向き合う。
「ずっと不思議だったんだけど、ディオン様はなんであんな男と仲がいいの?」
「ん? ああ。俺は昔、ナイトレイ伯爵家に剣術を習いに行ってたからね」
「えっ!?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 確か初等部の頃だったかな。クロヴィスとはそこで知り合ったんだ」
二人にそんな繋がりがあったなんて……全然知らなかったわ。
「心身を鍛えるためにって、親がナイトレイ伯爵にお願いしたんだ。俺は当主教育もあるから、二年間っていう期間限定だったけどね。ナイトレイ伯爵が直々に指導してくださったんだけど、かなり厳しかったなぁ。おかげで剣の腕は上達したけど」
ディオン様は苦笑い混じりに言った。
「ナイトレイ家はお父様は騎士団長、お兄様も近衛騎士よね? クロヴィス様は騎士にならないの? 騎士養成学校に通ってたって聞いたけど……」
今まで黙っていたジェシーが口を開いた。ディオン様は悲しげに目を伏せる。
「クロヴィスは……色々あって騎士養成学校からこっちに編入してきたから、将来どうするのか俺には分からない。けど、ナイトレイ家なだけあってアイツの剣の腕はズバ抜けてるよ。昔からすごく強かった。本人の努力の賜物だよ」
……あの男にも何か事情があるのだろう。なんとなくこれ以上踏み込んではいけない気がして、私は咄嗟に話題を変えた。
「休暇中ディオン様は領地に戻るの?」
「俺はたぶん戻ると思う。父の視察に付き添う予定があるんだ。二人は?」
「わたしは前半は別荘で過ごして後半は王都ってところかしら」
「私はノエルがこっちに残りたいって言うから領地には戻らないと思う」
どうやら長期休暇中も師匠とやらに剣術を教えてもらえることになったらしく、こないだノエルから「俺、領地には戻らない!」と宣言されてしまったのだ。なので、身の回りの世話をするため私も王都に残る事になった。それにしてもその師匠って人、よっぽど暇なのかしら? 時間に余裕がないとノエルの練習に付き合ってられないだろうし。
「なるほど。俺、休暇が終わる一週間前には王都に戻る予定なんだ。だから……もし良かったら遊びに行ってもいいか? ノエルにも会いたいし」
「もちろん! ノエルも会いたがってるからいつでも来ていいわよ」
私が答えると、ディオン様は嬉しそうに笑った。
「あら、じゃあわたしも行くわ」
「やった! 手作りスイーツ用意して待ってる!」
ああ良かった。私、ディオン様と普通に話せてる。休暇中の予定を立てながら、私たちはそれぞれの教室に向かった。
*
月日はあっという間に流れ、待ちに待った長期休暇に突入した。
これから約一ヶ月、比較的自由な時間を過ごせるのだ。何より嫌な奴の顔を見なくて済む。それだけで精神的に快適だわ。
「行ってきまーす!!」
「今日は暑くなりそうだから体調に気を付けてねー」
「わかってるー!」
ノエルは休暇の初日から師匠との訓練に夢中になっている。おかげでノエルの手はマメだらけだ。その治療をしながら小言を言うのが日課になってしまったくらいである。まったく。当主教育や学院の課題にもこれくらい真剣に取り組んでくれればいいのに。休みの最終日に「手伝って!」と泣きついてくる姿が目に浮かぶわ。
溜息をつきかけて、私はフルフルと首を振る。こんな方を考えている暇はない。私はシーツやタオルを抱えて洗濯場へと向かった。燦々と降り注ぐ太陽の光を有効活用しないとね!
*
洗濯物を干し終え急いでパンを食べると、私は内職の刺繍を始めた。ハンカチやポーチ、クッションカバーやバッグという小物を中心に、渡された図案の通りに針を刺していく。ちなみに、この仕事はお父様の知り合いの商会からまわしてもらっているものだ。自分で言うのもアレだが結構評判が良いらしく、売り上げも上々だそうだ。ふふっ、お母様に教えてもらった甲斐があったわ。
私はピンと張った布にチクチクと針を刺していく。集中力もいるし地味な作業だが、楽しいので好きだ。完成した時の達成感は格別だしね。ふと、鮮やかな緑色の刺繍糸を刺していた手が止まる。口からは自然と溜息が出てきた。ぼんやりと頭に浮かんできたのは、あの時のディオン様の顔。
〝じゃあ、婚約者になったらまたディーって呼んでくれんの?〟
吸い込まれそうな青い瞳。
〝リシェ〟
真剣な表情で私の愛称を呼ぶ優しい声。
……思い出すとなんだかとてつもなく恥ずかしくなってくる。気にしないようにしていたけど、やっぱりどうしても思い出してしまう。ディオン様は一体どういうつもりで言ったのかしら……急にあんな事……。
「…………ディー」
小さく呟くと、私は羞恥心に耐えきれずテーブルに勢い良く倒れ込んだ。ゴン、と頭がぶつかる。……痛い。不味いわ、私もおかしくなってる! きっとこの暑さのせいね!? 落ち着いて、冷静になるのよ私! ああもう。ああいう事は勘違いしそうになるからやめてほしい。いやわかってる。そんな事はあり得ないってちゃんとわかってるんだけどさ!
私はゆっくりと顔を上げる。……よかった。生地も針も無事だわ。刺繍枠をことりとテーブルに置いて、ふぅと息を吐いた。
ポケットからお母様の形見のハンカチを取り出し、スミレの花の刺繍部分をそっと撫でる。
……あの時。クロヴィス・ナイトレイにディオン様のことが好きなのかと聞かれた時。私はひどく動揺した。もちろんディオン様の事は好きだけど、それは友達としてというか家族のような存在というか。どちらかというと「憧れ」という感情の方が近いのだ。その気持ちをみんなに……クロヴィス・ナイトレイに誤解されては困ると思ってしまった。心の片隅で。ほんのちょっとだけだけど。どうしてそんな考えが浮かんだのか自分でも分からない。
私はハンカチを丁寧に広げた。淡いピンク色のハンカチは汚れも解れもシワもなく、とても綺麗な状態だ。クロヴィス・ナイトレイに踏み潰された形跡なんてもう一つも残っていない。
私の眉間には自然と力が入った。私は何に対してこんなに悩んでいるのかしら。なんだか胸のモヤモヤが取れない。
うん……こういう時は何かに集中するのが一番だ。集中していれば他に何も考えなくて済むもの。私は再び刺繍枠を手に取ると、気合いを入れて刺し始めた。




