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「ジェシー。よかったらこれ貰って」
昼休みを迎えた教室で、私はピンク色の紙袋をジェシーに手渡す。中身は昨日大量に作ってしまったパウンドケーキである。
「何よこれ」
「パウンドケーキ。実は昨日作りすぎちゃったの」
「なんでまた……あ、わかった。昨日のアリス様に影響されたんでしょう?」
「違うから。そういう言い方やめてよ」
紙袋の中身を確認したジェシーは「相変わらず綺麗な出来栄えねぇ」と珍しく褒めてくれた。
「これクロヴィス様にはあげないの?」
「はぁ!? あげるわけないじゃない! なんであんな男にあげなきゃならないのよ!」
とんでもない言葉に私はバン! と勢い良く机を叩く。近くに居た男子生徒が驚いてこっちを見たが、音の発信源が私だと分かると納得したように頷いて前を向いた。……解せぬ。
「じゃあそっちの袋は?」
ジェシーの陶器のように美しい指先には、水色の紙袋。私の席にちょこんと置かれているものだ。
「ディオン様の分よ」
「あら。それならついでにクロヴィス様にもあげればいいじゃない」
「嫌よ。渡す意味も理由もないもの」
私は急いで水色の紙袋を手に持つ。
「じゃあ。ディオン様に渡してくるね。すぐ戻るから先にお昼食べてて」
そう言って、逃げるように立ち去った。これ以上不毛なやり取りはしたくないもの。はぁ、と溜息をついて廊下を歩く。
ディオン様はどこにいるんだろう。教室にはいなかったから食堂かカフェテリアかしら? 出来れば一人で居てくれると助かるんだけど……女子生徒がいる中で手渡しなんかしたら後が怖いし。それに、もしあの目付きの悪い男と一緒だったら面倒なことになりそうだもの。
きょろきょろしながらしばらく歩いていると、目的の人物を見付けた。気品漂うあのイケメンオーラ。遠くからでも分かりやすい。ディオン様は見知らぬ女子生徒とたくさんのノートを抱えて職員室に入って行く所だった。私は足を止め、少し距離を取った場所で二人が出てくるのを静かに待つ。
数分後、職員室から出てきた二人はいくつか言葉を交わすと、すぐに離れて行った。状況から察するに、ディオン様があの女子生徒の手伝い、おそらくノートを運ぶのを手伝ってあげたのだろう。そういう皆に優しい所、昔から全然変わってない。女子生徒は去り際に頬を赤くしてディオン様に頭を下げていた。あーあ。あのご令嬢、今ので間違いなくディオン様に落ちたわね。まったく、相変わらず罪な男だわ。
金髪碧眼で容姿端麗、誰にでも平等に接する優しさ、紳士的な立ち振る舞い。不敬に当たるかもしれないので公には言えないが、ディオン様が王子よりも王子っぽいと噂されるのも納得だ。
「キャー、ディオン様ってばやっさしーい」
私はひょっこりと顔を覗かせ、からかうような口調で言った。
「うわ! ……ってリシェル? なんだよ。覗き見?」
「ご令嬢の荷物持ってあげたんでしょ? モテる男はさすが優しいわね」
「困ってる人を助けるのは当たり前だろ? それに俺、別にモテてないよ」
「知ってる? 謙遜のしすぎは嫌味になるのよ」
「いや本当だって。近付いてくる女性は爵位目当てなだけだろうしね」
ディオン様は苦笑いを浮かべながら言った。いやいやいや。どれだけの女性がディオン様に恋焦がれてると思ってるの!? 「モテない」とか「爵位が目当てなだけ」なんて本気で言ってるのなら、ディオン様は今すぐ学院中の、いや、国中の男性に謝るべきだと思う。それに、いくら紳士でもここまで気が利くはずがない。……あれ、でもそういえばあの男もこないだ私の荷物持って……。いや、あれは優しさなんかじゃない。優しさの欠片もなかった。無理矢理奪われただけだし。うん。
「今日はジェシカと一緒じゃないんだ?」
「ええ。ジェシーは教室に置いてきたの。今頃は侯爵家特製のお弁当でも食べてるんじゃないかしら?」
「いつも一緒に食べてるのに。放っておいていいのか?」
「大丈夫。ちゃんと言ってきたから」
……大丈夫よね? 不機嫌そうなジェシーの顔が容易に浮かんでくるけど……大丈夫よね? なんだか急に不安になった。心配だから、あとでお菓子の賄賂を追加で渡しておこう。
「ディオン様は今からお昼?」
「そう。色々やってたら遅くなっちゃってさ。めちゃくちゃお腹すいてるんだよね」
それならちょうどいいかしら? 私は手に持っていた紙袋を差し出した。
「よかったらこれ食べて。ディオン様に渡そうと思って持ってきたの」
「え、なに? もしやリシェルの手作り?」
「そう。パウンドケーキなんだけど昨日作りすぎちゃって。貰ってくれると助かるの」
「やった! 嬉しいありがとな! さっそくだけど食べていい?」
「えっ!? ここで?」
「リシェルの手作りお菓子早く食べたいから」
言いながらガサガサと袋を開けて、個装されたひとつのパウンドケーキを取り出す。ディオン様が選んだのはマーブルチョコの味だった。すぐに一口かじると「うん、めちゃくちゃ美味い!」と叫んだ。こうやって喜んでくれるのは素直に嬉しい。
「ふふっありがとう。そういえば、ノエルが昨日ディオン兄に会ったって言ってたわよ」
「ああ、会ったよ。ノエルの奴、ちょっと見ない間に随分大きくなったな」
「でしょ? 身長もぐんぐん伸びて。成長期だからなのか食欲も旺盛なのよ」
「いいじゃないか。食う子は育つってやつだ」
「いやそれ寝る子でしょ」
「睡眠も大事だけどさ、俺、しっかり食べた方が絶対大きくなると思うんだよね。縦にも横にも」
「あはは! 横に育っちゃダメでしょ。ディオン様ってばめちゃくちゃだわ」
私は思わず笑ってしまった。ディオン様はそんな私の様子をじっと見つめてくる。
「ディオン様?」
「…………前から思ってたんだけどさぁ」
私を見つめたまま、ディオン様が真剣な顔で口を開いた。
「なんで俺のこと〝ディー〟って呼ばなくなったの?」
予想外の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
「は、はぁ!? 急に何よ!?」
「急じゃない。ずっと何でだろうって思ってたんだ。……愛称で呼び合ってたのに、いつからか突然〝様〟付けで呼び出しちゃってさ。俺がリシェルの愛称で呼ぶと怒るし」
私は眉尻を下げて答える。
「そりゃ……侯爵令息を子爵令嬢が愛称で呼べるわけないでしょ。身分が違いすぎるわ。それに、さっきも言ったけどディオン様はとんでもなくモテるの。恋人でも、ましてや婚約者でもないただの幼馴染が愛称呼びなんてしてたら女性たちに嫉妬されて総攻撃を受けるに決まってるじゃない」
「じゃあ、婚約者になったらまたディーって呼んでくれんの?」
「……え?」
真っ直ぐに見つめてくる青い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。じわじわと言葉を理解し始めた私の心臓が活発に動き出す。体温も上がってきたみたいで顔のあたりが熱い。どうしたんだろう、ディオン様。絶対変だ。
「リシェ」
「っ!」
ディオン様は昔のように私の事を愛称で呼んだ。
「……俺、」
「ディオン・カークライト!!」
何か言いかけたディオン様の言葉を遮ったのは、泣く子も更に泣くような鋭い目付きでこっちを睨んでいるクロヴィス・ナイトレイだった。いつもなら腹の立つその顔も、今は見ても腹が立たない。このタイミングで話しかけてもらって、正直助かった……のかもしれない。だって今の私、全然冷静じゃないもの。
クロヴィスは私の顔をチラリと見ると、目元を更に細めて眼力を強くする。……前言撤回。やっぱり腹が立つわ。奴はその強面のまま、すぐにディオン様に視線を向けた。
「お前! 余計なこと言ってないだろうな!?」
「余計なことって?」
ディオン様が聞き返すと、クロヴィスは不機嫌オーラを隠すこ事なく盛大な舌打ちを鳴らす。何をそんなに苛立ってるのやら。この人、常々カルシウムが足りてないんじゃないかしら。
クロヴィスの視線がディオン様の手元に移った。彼が手に持っているのは私のあげたパウンドケーキである。
「あ、これ気になる? リシェの手作りお菓子。さっき貰ったんだ。いいだろ~? 羨ましいだろ~?」
「は? そんなもん別に羨ましくも何ともねぇよ。どうせ毒でも入ってんだろ。すげーな。さすがポイズンクッキング」
「失礼ね! 毒なんて入れてないわよ!」
見るからに機嫌の悪いクロヴィスを煽るようなディオン様の態度にハラハラしていると、何故かこっちまでとばっちりを受けてしまった。理不尽だわ。
「……つーか」
クロヴィスが不満げな声を出す。
「お前、そんな呼び方してたっけ?」
クロヴィスは首を傾げて不思議そうに呟くと、何かに気付いたようにハッとした。怒ったような納得いっていないような、とにかく難しい顔をして私とディオン様を交互に見ると、眉間に深いシワを刻んだ仏頂面で爆弾を投下した。
「もしかしてお前ら付き合ってる?」
「あ、バレた?」
「はっ!? な、ち、違うわよ何言ってんの!? ディオン様も便乗して嘘つかないで! 私たちはただの幼馴染でしょ!」
たぶん、私の顔は今ものすごく赤くなっているだろう。ああもう! ディオン様もクロヴィス・ナイトレイも急に変なこと言ってくるから! 動揺して精神状態がとんでもない方向に行ってしまった。
「そんなにハッキリ否定するなよ。傷付くだろ?」
「なっ!? それはディオン様がからかうからっ!」
「あ、またディオン様って言う。ディーって呼べって言っただろ?」
「い、言われてないわ!?」
なんで呼ばなくなったか聞かれただけで、愛称で呼べとは言われてないわよ!?
「はぁ? ディー?」
「昔の俺の愛称だよ。クロヴィスも呼びたかったら呼んでいいぞ?」
「呼ばねーよ!」
クロヴィスは忌々しそうにその鋭い目でディオン様を睨むが、ディオン様は余裕綽綽で微笑んでいる。
「おーいディオン!」
遠くからリチャード様がディオン様を呼んだ。
「なんだよ?」
「一年のご令嬢がお前の事探しに教室に来てたぞ」
「え? なんでだろう?」
「なんか渡したいものがあるとか言ってた。オレンジっぽい髪色のすっごい可愛い子!」
「……それだけじゃさすがに分からないな」
「とりあえず早く行った方がいい」
「分かった……ごめん二人とも、ちょっと行ってくるな」
「あ、うん」
ディオン様がご令嬢に呼ばれてこの場を離れてしまったので、残された私達は必然的に二人になる。なんとなく気まずい雰囲気だ。というか、何やらクロヴィス・ナイトレイがソワソワして落ち着きがない。私も戻ろうかしら。もう用事は終わったし。それにしても、やっぱりディオン様ってばモテてるじゃない。
「……オイ」
「な、何よ」
まさか話しかけられるとは思っていなかったので、一瞬身構えてしまった。
「お前……本当に誰からも何も言われてないんだろうな?」
「は? 言われてないって何を?」
クロヴィスはぐっと眉間のシワを深くする。顔面凶悪度が増した。まぁ、そんな顔したって私は怖くもなんともないんだけどね! それにしても、悪口を含め物事をはっきり言ってくるこの男にしては、珍しく歯切れが悪いのが気になる。変なものでも食べたのかしら。ジロジロと私の顔を見つめた後、失礼なことにチッと舌打ちを鳴らした。
「……言われてないなら別にいい」
フイッと顔を横に向けたクロヴィスは、「つーか」とそのまま言葉を続けた。
「……お前ってさ、ディオンのこと好きなの?」
「はああああ!?」
奴のとんでも発言に私は大声で叫んだ。なんなの突然……やっぱり今日のクロヴィス・ナイトレイは頭がおかしいわ!! いや、元からおかしいけど!!
「な、何バカなこと言ってるのよ!? さっきも言ったけど、ディオン様とはただの幼馴染!! そんな風に考えた事ないわよ!」
「まぁ確かにディオンとお前じゃつり合わないよな」
「だから! そんなこと言われなくても分かってるのよ! さっきから違うって言ってるでしょ!」
「……ふーん。ま、どうでもいいけど」
「はぁ!? じゃあ変なこと聞かないでよ!!」
なんなの? なんでいきなりこんな事聞いてくるの? ぜんぜん意味がわからないわ! しかも自分から聞いてきたくせに興味ないとか本当になんなの!? ムカつく!!
クロヴィスは不機嫌そうな顔で再び舌打ちを鳴らすと、後ろを向いて歩き出してしまった。意味のわからないことが一気に起こりすぎて、頭の中の情報処理が追い付かない。
私は盛大な溜息を吐き出して、小さくなったクロヴィス・ナイトレイの背中をとりあえず睨みつけた。




