前編
光一つない、暗闇のなかにいる。
聞こえる音も耳の奥で感じる、自分の鼓動だけだ。「空間」と言うよりも、むしろ平坦な「紙切れ」のような居心地を感じる。要するに、すべての「奥行き」が排除された世界。言い換えるなら、見えるもの、感じるものだけが全てで、「疑問」や「思想」などの価値を必要としない。
暗闇に目が慣れてきたせいか、周りにあるものが次第に輪郭を帯びてきた。まず、周りよりも先に視線が向いたのが、パジャマを来ている自分の格好だった。「なんでパジャマなんだろう」という疑問が沸いてきたが、そんなことを簡単に吹き飛ばす雰囲気が、「奥行き」を排除したこの「紙切れ」の世界にはあった。
少しずつ、輪郭に力強さが増し、周りの状況が明瞭に浮かび上がってきた。一番最初に目が付いたのが、光沢を放つコンピューターだった。そこを凝視すると、昨日心斎橋にあるマック・ストアから届いたばかりの「G5」だった。
さらに目を向けると、数本の糸が見えた。目を凝らすと、約一ヶ月前に衝動買いした三十五万円の「ギブソン」のアコースティク・ギターだと分かった。買った直後はビートルズの「LET IT BE」を練習したものの、人指し指だけで六弦全てを押さえる「F」のコードに挫折して、買って三日目からケースから出たことがない。
また、小さな光が目に入ったので、顔を向けると、百二十万円したローレックスの「デイトナ」だった。買った直後は気に入っていたが、機械式の時計の重さに嫌気がさして、今は一番軽い九千八百円のプラスチックの時計を付けている。左手首が疲れなくて、気に入っている。
周りはもう、薄暗くはあったが、意識をしなくても、何があるのか容易に判断できた。まだ一度も袖を通していない、「アルマーニのスーツ」や、電機屋で見た時は小さく感じたが、いざ自分の部屋に配達されてその大きさに驚いた「四〇インチ」の国産の薄型テレビ。さらに十着をまとめ買いしたフランス製の高級ダウンジェケット、最初の一回しか使わず、コーヒー豆もそのままになっているイタリア製のエスプレッソ・マシーンなど、ここ二、三年で購入した品々が並んでいた。
はっきり言って、すべてが「無駄」だったが、この「紙切れの世界」に「思想」や「疑問」は必要ない。薄い膜で覆われた表面的な部分だけで十分である。もしこの「無駄」の削減を真剣に追求すると、自分自身の存在もアルマーニのスーツやローレックス、三日であきらめたギブソンのギターと同類項のような気がしてならない。こういった物と自分自身の存在との境界線が俺には分からない。
すると、薄暗いなかに赤い光を放つ、ひょうたん型の物体が二つ浮かんでいた。あまりに他の物とは光の力が違いすぎるため、それを触ろうと下に転がっている物を足でかき分けながら、前に進んだ。近くに来て分かったが、それは小学生の時に生物室で見た人体模型の「肝臓」と「すい臓」だった。
俺はその赤い光と触ればすぐに崩れてしまいそうな、「臓器」を眺めていた。次第にその「臓器」と自分の境界線が曖昧になり、自分が「臓器」の中に突入する、奇妙な感覚に襲われた。目の前の「臓器」が巨大化し、紫色の毛細血管がイギリス製の高級ニットのようにきめ細かく張り巡らされている。さらにそのきめ細やかだった毛細血管の間を潜り、整然と等間隔で配置された細胞が現れた。そこは赤い血流を受け入れ、細胞が膨張し、そして血流を流し出して収縮を繰り返していた。その酸素を多く含んだ赤い血流が川の流れのように動く様子を見ていると、黒いインクが一本、スーッと糸を引いた。
その瞬間、鮮やかな赤だった細胞が、黒く変色した。
「ジーッ」。
八時二十分にセットした目覚まし時計を、俺は右手を精一杯伸ばし、その頭を勢いよく、三回たたいた。寝付きが悪く、しかも眠りも浅い。そのため酒の量が増え、昨日はそれに加えて睡眠改善薬、要するに睡眠薬を飲んで寝た。そのせいもあって、寝起きに異様な頭痛を感じるようになっていた。何をやっても頭が休んでくれないため、寝ている間も夢の世界がリアリティーを増している。
まだ、記憶のなかには「肝臓」と「すい臓」の輪郭がはっきりと残っていた。
四時三十分にセットしたエアコンのため、室内は快適だった。イタリアから直輸入したダブルベッドから飛び降り、キッチンへと向かった。業務用で八万円したデロンギのエスプレッソ・マシーンの横に置いてある八五〇円のインスタント・コーヒーを多めに振って、マグカップの中に入れ、ポットからお湯を注いだ。そしてテーブルの上に置いてあった、昨日の食べかけの菓子パンをつついて朝食は終わった。
時計を見ると、八時四十五分を回っていた。俺は急いで書斎に向かい、昨日届いたばかりのコンピューターに電源を入れた。すると「ダーン」と大きな音が鳴ったので、俺は「うわっ」と声をあげて驚いた。一週間前にソニーのバイオを買おうと思ったが、銀色のボディーの迫力に魅せられ、生まれて始めてマックを買ってしまった。買ったまでは良かったが昨日、操作をしているとマウスの「右ボタン」や「スクロール」がないことに気が付いて、いまいち使い方が分からない。バイオを今日、再び買いなおすかもしれない。
パソコンが機動している間、俺は寝間着に使っている高校の時の体操着姿で、玄関を開けて外に出た。下りのエレベーターのボタンを押し、三五階建て高層マンションの三十階に位置する自分の家から、一階へと降りた。肌寒かったので、なんか着てこればよかったかなと思っていると、灰色の大阪の景色が飛び込んだ。阪神高速道路の上を滑走する車を見ていると、まったく同じ動きをする車が一台もないみたいなことが頭を過り、タイに旅行へ行った際、メコン川を見ている時も同じ水飛沫は一度もなかったなと思い出していると、エレベーターは一階で止まった。
ドアが開くと同時に、駆け足でマンションの新聞とりに近寄り、「日経新聞」を抜き取った。そして、すぐにエレベーターに駆け寄り、ドアが閉まる直前で上がるボタンを押し、そのまま室内に飛び乗って、三十階を押した。
新聞を広げ一面を物色した。
『鉄鋼各社、一斉に設備増資』の見出しが踊っていた。「鉄は国家なり」と言われるように、約一五年間続いた日本の不景気に終止符が打たれようとしている象徴的な記事だった。日経平均は昨日、約四年ぶりに一万五千円を超えた。ピッチの早さに「バブル」と警戒する声も出てきたが、米FRB議長でロナルド・レーガンからの四代の大統領の下、巧みな金融政策で米国経済を支えたアラン・グリーンスパンが以前、こんなことを言っていた。「『バブル』は事後にならないと分からない」というように、警戒している間は「バブル」ではないと「バブル時代」を知らない俺は結構、楽観的だった。
そう時代が移り変わろうとしている、そんな空気を俺は肌で感じていた。
ここ二、三年、東証マザーズのような新興市場にはアルファベット三文字をただ並べたような名前の会社が上場しては消滅してを繰り返していた。一九九七年に山一証券、北海道拓殖銀行が破たんをしたのを契機に、大手都銀の「バブル」のツケである不良債権が一気に明るみとなり、旧財閥の垣根を超えた銀行間の統合が進んだ。
それまで、規制の鎖で雁字搦めとなっていた金融業界だったが、不良債権処理の大幅な遅れが「失った一五年」を呼び、日本全体に閉塞感が広がっていた。そんな時代背景の中、ベンチャー系企業による新自由主義の流れが強まり、それまでのお堅いおじさん達の姿勢も一変、規制緩和と振り子が一気に傾いた。その規制緩和の流れを巧みに利用した、ソフトバンクの孫正義は米ナスダックを日本に誘致したジャスダックにより、ベンチャー系企業の資本を後押しし、遅れて東証も新興市場に向けたマザーズを造った。
ただ、その新興市場への上場審査は極めて甘く、会計報告の透明性や信頼性に疑問視する声に加え、一種のパチンコ感覚化した「デイトレーダー」が手数料の安いネット証券を背景に群がり、またしてもお堅いおじさん達の眉をつり上げさせることとなった。
俺も、そのおじさんたちに煙がられているデイトレーダーの一人だ。
エレベーターが三十階で止まった。駆け足で家に戻り、時計を見ると八時五五分だった。取引が始まる五分前だ。書斎のコンピューターのマウスを動かし、ブラウザーを開き、ブックマークにあるネット専門の証券会社をクリックした。パスワードの欄に自分の生年月日をそのまま打ち込んで、エンターキーをリズム良く、中指で押した。
九時の合図とともに、取引の幕が上がった。企業の中間決算も出揃い、株価を押上げる材料に欠いている状況が続いていた。そんな状況下でも騰勢が続く業種は決まって「IT業界」だった。さらに二ヶ月後に迫った年始にIT界の巨人、「ソフトバンク」の株式が三分割されることが決まっていた。加えて、経済産業省が同社の携帯電話事業への参入も認めるなど、好材料が目白押しだった。
一連の情報が流れると、同社の株価が約一ヶ月間、「六千円台」をもみ合っていたのが一気に反発し、「七千円台」に差し掛かろうとしていた。全体的に調整局面を迎えているにも関わらず、ここだけはそんなフラストレーション全てを払拭させる値動きを見せていた。
そのようなことから、俺はソフトバンクへの集中投資に転化した。株式が三分割のような好材料が出ると基本的にはチャートによるテクニカル分析などは必要ない。これは数ヶ月前、ライブドアが異例の一〇〇分割により、一株が駄菓子の値段ほどになった。これに投資家が群がり、一気に反発したことがあった。こんな経験を基にして、俺に必要なのは「必ず上がる」と馬鹿になって信じる度胸だった。正直、ソフトバンクには「信用買い」が多いことが気になっていたが、俺は唾を飲み込んで「必ず上がる」と自分に言い聞かせた。
昨日の後場に一瞬、先日比で四〇〇円値下がりの「六八〇〇円」という安値を付けた。その前日がストップ高で終了した経緯から、ずるずるとこのまま押し下がるという展開に見えたが、俺はそれを逆にチャンスと睨み、一万株、要するに六四五〇万円という人生を賭けた大金をつぎ込んで、「六九五〇円」の指値で、それを買った。大手証券会社のトレイダーが会社の情報を流用して始めた月六万円する投資専用のブログには少し「弱気」なコメントが書かれていたのを思い出したが、俺はここでも頭を横に振って「必ず上がる」と自分に言い聞かせていた。
六九〇〇円前後でもみ合った後、このまま取引が終了するように思えた。しかし、その取引終了の三〇分前に、大型の買いが入った。すると一気に二〇〇円がつり上げあり、株価は「七二〇〇円」にまで跳ね上がった。取引終了間際で買い入れる傾向は基本的に外国人が多い。ニュヨーク石油市場が今年、「一バレル七〇ドル」の歴史的な最高値を付けたことから、アラブ系の投資家はじゃぶじゃぶに金が余っている。恐らくこいつらのオイル・マネーが流れたかもしれない。
それに触発さえた国内のデイトレーダーや一般投資家が相次いで、買いを急いだため、市場内の雰囲気が変わり、一気に上げムード一色になった。その後は早いピッチで買いが進み、最終的に「七三五〇円」で取引は終了した。それを見て、俺は頭をくちゃくちゃにかきむしりながら、誰もいない部屋の中を一人、大声ではしゃいだ。
昨日のこの順調な流れを受け、今日の仕事は「六九五〇円」で買ったのを「七五五〇円」で売ることだった。すでに売りの注文は済ませているため、後は値動きを見守るだけだ。俺は両手を合わせ、祈るような思いでパソコンのデイスプレーにかじりついた。
取引開始の九時から十五分過ぎたにも関わらず、パソコンの画面には値段が依然、表示されていない。その裏で行われている人間の凄まじい「強欲」が売りと買いに別れ、激しい綱引きをしているのが容易に想像できた。丁度二〇分だった後、ようやく株価が前日比二〇〇円アップの「七五〇〇円」と表示された。あっと言う間に俺が指値を打った売値まであと、「五〇円」まで迫った。
予想通りの展開なため、安堵の気持ちと期待が入り交じり、俺はこれでもかというぐらい、デイスプレーの前に近づいた。そして五〇円刻みで、上下動を繰り返した後、七五八〇円を超えて、持ち株の一万株がすべて売れた。「注文約定照会」の欄をクリックし、「七五五〇円」の下に「出来」のサインが灯っていた。俺は誰もいない部屋の中を何度も前転を繰り返し、両手両足をバタバタさせながら喜んだのもつかの間、もう少し高く売ればよかったかなと悪魔のささやく声が聞こえた。
今日一日で俺は「五七六万円」を人指し指だけで稼ぎ出した。
そして、その金で恐らくあまり必要ではない「ウインドウズ」のパソコンでも買いに行くことにした。
時計を見ると、まだ取引開始から二五分しかたっていない。明日は週末になるため、取引が休業する。そのため、今日の俺の仕事はこの二五分で終了したことになる。
コンピューターの横に無造作に置いてある、『株式売り上げ表』と油性のペンで殴り書きした、ノートを開けた。そこに「一一月二九日、売り上げ、五七六万円」と書き込んだ。明日から週末に入るので、今日で今月が終了する。そのため、机の引き出しから、電卓を取り出し、今月の売り上げをはじき出した。途中何度も、数字の打ち込みや小数点の位置を間違え、電卓の「クリアー」を押すはめになったが、なんとか小学生の足し算が終了した。
「三八七五万円」
これが株だけでもうけた今月の売り上げだ。
パソコンをログオフし、身支度を整えるため、シャワーを浴びた。高層マンションが理由かは知らないが、冬場はシャワーの温度がなかなか上がらない。俺は浴室暖房のスイッチを入れ、裸でお湯になるのを待っていた。
浴室暖房も最初、冷風が吹き込み、よけいに身体を冷やすはめになったが、冷水からようやくお湯に変わったものの、今度は浴室暖房の冷風が気になった。いつもより少し長いなと思った俺は、ぬれたままでシャワーを出て、コントローラーを確認しに行くと、「乾燥」が点滅していた。俺はその横にある「暖房」のボタンを押し直すと、室内には温風が流れ始めた。
本当に俺がすることには、「無駄」が多かった。
俺は頭からシャワーを浴び、寝癖のついた髪を濡らした。そこから、深夜の通販番組で購入した一本、九八〇〇円する洗顔液をひねり出し、顔を洗った。無精髭が少し残っていたが、あまり気になりそうになかったので、今日は剃るのをやめた。
シャワーを肩から浴びせたまま、歯も同時に磨き初め、今日の予定を考えた。パソコンを買いに行こうと日本橋に行くことだけで、その他の予定が見当たらない。恐らく、キャバクラの女達から「同伴出勤」の電話が夕方を回れば忙しなくなるが、そんなものは予定ではない。
ここ二年足らずで、様々な種類の女たちが群がっている。一番多いのはやはり、キャバ嬢だが、次に多いのが巧く一括りにしにくいが、「得体が知れない女達」と名付けるぐらいにしか良いネーミングが見当たらない。仕事もろくにしていないが、頭のてっぺんからつま先に至まで「高級ブランド品」で身をくるみ、共通して「上目使い」で不必要なブランド品の物乞いをする。
そいつらから見たら、俺も「得体が知れない」仲間の一人かもしれない。若干二七歳で年収が三億円も稼いでくるくせに、年金を一度も払ったことがない。「仕事は?」と質問されれば、必ず「自由業です」とだけ答える。まさか「人指し指」だけで、三億円を稼いでいるとは思わないだろう。そうか、「人指し指」だけか、「右クリック」も「スクロール」もあまり、必要ないな。
「ウインドウズ」のパソコン、やっぱりいらないかな。
分かっているが、また「無駄」を増やすことになるかもしれない。とりあえず、日本橋に行ってから決めよう。そうじゃないと今日の予定がなくなる。シャワーのカランを回し、乾燥機の中に突っ込んだままのタオルを取り出しら、他の服が雪崩のように落ちてきた。俺はそれを足で払い、身体を吹いた後、もう一度乾いた服を乾燥機の中に詰め込んだ。
タオルを腰に巻き、下着をはいた。数週間前にジーパンを買いに行った時、「一番値段の高いジーパンはどれですか」と店員に聞いたところ、穴の開いたジーパンを持ってきた。その値札を見ると五万二千円がぶら下がっていた。一瞬唖然としたが、とりあえず「高い」から良いんだろうと割り切って、それを買った。俺はいたる所に穴の開いたジーパンに足を通して、厚めのセーターを着た。そして、この前十着、まとめ買いしたフンンス製のダウンジェケットで、まだ着たことのないやつを選び、それをまとった。
テーブルの上に転がっていた薄茶のサングラスをかけ、車のキーを握り、つま先の尖ったイタリア製の革靴をはいて、玄関を出た。鍵を閉めた後で、腕時計をしていないことに気が付き、靴のまま書斎まで入って時計を探したものの、いつもつけているプラスチックの時計をどこにやったのか見当たらなかったので、重さが好きではないローレックスを手首に巻いた。
地下の駐車場までエレベーターで下りた。黒いベンツの「SL」にキー向けると、左右のウンカーが二度点滅し、ロックが解除した。右のボンネットの銀色にはげた凹みを見て見ぬ振りをして、車内へと乗り込んだ。
助手席には、昨日忘れた携帯電話が転がっている。折りたたみ式の携帯を開けると、着信が一五件あった。その着信履歴を確認すると、ここ一ヶ月、よく飲みに行くようになった高級クラブのホステスからが一二件、後はキャバ嬢の三件だった。
三日前にその高級クラブの女が俺の家に来たいと言ったので、連れ込んだら、それから毎日のように十件単位で電話がかかるようになった。薄暗い店内では分からなかったが、青色の蛍光灯の下にさらされた時、その女がそれほど美人でないことを知った。俺の家に入って、ハイヒールを脱げば、奇抜なドレスよりも和服の方が似合う「日本人体系」が丸出しになった。さらに悪いことは、風呂上がりの化粧のはげた顔を見たことだった。その後、念入りの努力の結晶とハイヒールを履いて、元に戻ったものの、俺はそれ以来、その高級クラブに足を運ぶことがなくなった。
着信履歴を全て、削除し後、エンジンを鳴らして地下の駐車場を出た。
車を走らせると、すでに十時を過ぎたこともあり、都内の道に混雑した様子はなかった。快調に走るスポーツカーのBGMを聞こうと、右でラジオのスイッチを押すと、代わりに「浜村淳」がパーソナリティーを務めているトーク番組のようだった。話の中身を聞くと、それは来年三月に上映される「ナルニア国物語」のPRのようだった。
「『ナルニア国物語』の作者、CS・ルイスはキリスト教作家として有名で、昨年話題になった『ロード・オブ・リング』の作者、トールキンをキリスト教に改心させた話は、歴史的に有名です」。
この時始めて、あの「ロード・オブ・リング」はキリスト教と関係があるのだろうかと、あのグロテスクだった映像を思い返した。
俺は生野区の出身ということもあり、子供の頃はよく、在日韓国人が集まるキリスト教の教会に出入りしていた。その時、教会で食べる昼飯はカレーライスに、「キムチ」が添えてあった。その食習慣が染み付き、カレーライスを食べる時は、今でも福神漬けよりも「キムチ」が欠かせない。
そこは見慣れないハングル文字や、日本の本屋では出回っていない韓国国内の書籍やビデオ・テープが並んでいた。最初は随分、戸惑ったが、大分後になってから、在日韓国人の存在を理解するようになった。
そこで知り合った四歳年上のお姉さんが、片親だった俺を可哀想に思ったのか、日本人の俺を弟のように可愛がってくれた。小学四年生の時に、始めて教会に行き、彼女はその時、中学二年生だった。
「ぼく、一人?」と彼女が始めて、声をかけた。
俺はうつむいたままだった。なぜ、あの時に教会の門を開けたのか、はっきりした理由は覚えていないが、同級生が片親の俺をいじめていたのに嫌気が指していたのかもしれない。
彼女は俺の手を握り、隣に座ってくれた。彼女の手は冷たかったが、とてもすべすべだったのを今でも覚えている。そうすると音楽が流れ、大人達が大声で歌い、壇上に立っている牧師さんの話を聞いて、頭を垂らして祈った。
その時に俺が祈ったのが、「いじめられませんように」だったような気がする。「主、イエス・キリストの名前によって、アーメン」と言った牧師に続いて俺も「アーメン」と繰り返した。
それから、不思議なことに次の月曜日からいじめがやんだ。単純だった俺は「神様が助けてくれた」と思ったのと、四歳年上のお姉さんに会いたい気持ちから、毎週日曜日に教会に行くようになった。
彼女の肌は雪のように白く、ピアノ線のようにまっすぐで長い髪だった。一緒に歩いていると大抵の若い男は振り返って彼女を見た。そんな様子を見て、俺自身は一緒に歩いているだけだったが、なんだか誇らしい気持ちになったのを覚えている。
彼女は本当に優しかった。俺は日曜日、彼女に会って話をするのが本当に楽しみだった。四歳も年上だったので、小学生の話なんか退屈だったろうが、彼女の表情はいつも笑みがこぼれていた。
頭をなでてくれたり、鼻が出ていたら、彼女は自分のハンカチを取り出して、いつもふいてくれた。彼女はよくキリスト教の「神様」の話をしてくれたので、俺は一度も聖書を開いたことはないが、普通の日本人よりも聖書の内容は結構、詳しい方だと思う。
「シュンちゃん、イエス様は私たちの『罪』のために死なれたのよ。だからイエス様に『ありがとう』って言わなきゃだめよ。そして『もうしません』って言って、神様に悔い改めるのよ」。
「罪」や「悔い改める」など今考えれば、こんな宗教色の強い専門用語を本当に分かっていたのかなと不思議だが、「うん、神様ごめんなさい。もうしません」と言っていた。今考えれば、なんだか言わされていたような感じかもしれないなぁ。
一方で、彼女は隠れてよく泣いていたのを知っていた。いつも笑顔だったが時々、その表情に暗闇が差す瞬間あった。彼女が楽しい時は、俺も楽しかったが、彼女が泣いていると、俺もなんだが悲しくなった。
ある日、彼女が自転車を押しながら、帰宅するのを偶然、見かけた。その時まだ、小学生だった俺は走りながら、彼女に近寄ろうとすると、その回りには制服を着た二人の男子学生がいた。
「この『ザイニチ』が、はよ日本から出て行け」とその男の子達は彼女に罵声を浴びせていた。しかし彼女は背筋をぴんと伸ばし、凛とした態度でそれを無視をしていたのがとても印象的だった。まったく相手されないことに苛立ったのか、男の子の一人が彼女の押している自転車を蹴り始めた。俺は電柱の影から眺めているだけだったが、自分よりも大きい彼らの様子を見て、足が震えた。
「『ザイニチ』のくせに自転車なんか乗るな」と言いながら、彼女の赤い自転車を激しく蹴っている。次第に彼らの蹴りが強くなっていったので、彼女は「やめてよお」と言い、自転車にまたがり、そこから逃げた。すると、「この『ザイニチ』め逃げるな」と道に落ちていた石を拾い、その男の子が彼女に向かってそれを投げると、それが彼女の額に命中し、自転車は勢いよく転げた。
「ざまあみろ、このボケ」と男の子達がはしゃいでいるのを俺は悔しくなって、電柱から一歩前に出ると、「なんやあガキ、やんのか」と言われ、俺はいそいそとその場から逃げてしまった。
俺は車を運転しているにも関わらず、その光景が今さっきの出来事かのようにまざまざと浮かび、思わず目をつむった。
それから、俺が中学二年生になって、彼女が高校三年生の時、俺は彼女に憧れ以上の感情を持っていた。彼女の接し方は今までと変わらなかったが、俺は思春期ということもあり、いつまでも子供扱いされていることが腹立たしかった。だが、何度も二人きりになって彼女にこの気持ちを打ち明けようと思ったものの、照れくささが前に出て、いつも駄目だった。
寝ても覚めても、授業中も、時には野球部の公式戦の時も、彼女のことだけが頭の中にいっぱいになっていた。要するに、俺にとっての淡い「初恋」だった。
食事もなんだかのどをつかえ初め、彼女にこの気持ちを伝えようと、土曜日の晩に念入りのリハーサルを重ねて、決死の覚悟で日曜日に教会へ出向いたが、そこに彼女の姿はなかった。そして、二度と彼女はこの教会に来ることはなかった。それから数週間が経過して分かったことだが、彼女の父親は山口系の暴力団、所謂「ヤクザ」だったそうだ。人伝えで聞いた話だが、彼女のお父さんが相手の組長に発砲し、それから身を隠すために家族で夜逃げをしたそうだ。何も知らなかった俺は、この事実に愕然とし、数ヶ月たった後で彼女が東京に引っ越しをしたことを知らされた。これで俺の「初恋」は終わった。ただその「初恋」は終っても、彼女のことは今になってもどこか引っかかっている。それは波乱に満ちた彼女の人生の行方が少しでも穏やなものであって欲しいという願いかもしれない。
前方に竿の長い「P」と書かれた旗を振っているのが見えた。俺は左のウンカーを灯し、左折した。そこから二〇メートルぐらいの駐車場で停車した。ここは有人の駐車場だったので、キーを係の人に預け、俺は車を下りた。
車を下りると、一気に寒気が身体を刺した。十一月ももう終わるが、今年は例年よりも、寒さが早いように感じる。ダウンジェケットのジッパーを首元まで上げて、少しあごを引いた。時計を見ると十一時三〇分を回っている。腹は減っていないが、することがないので少し早めの昼食にすることにした。
日本橋から地下街に下り、トマト味のスパゲティーを食べようとイタリア料理屋を探すことにしたが、低コストで日本人向けの味付けにしたような店は何軒か見つかったが、本格的なランチをしているような店はなかった。食に関しては凝り性なところがある俺は、面倒くさかったが、御堂筋まで歩くことを決め、地下街を抜け、地上に戻った。
階段を上がる際、都会独特の強いビル風が舞った。俺はあごを引き、身体を丸くした。「冬将軍の到来」、そんな感じだった。木枯らしが吹くなかを歩いたが、めぼしい店が見当たらなかった。そのため気が付いたら、長堀まで歩いていた。ここまで来たら、だいたい行く場所は決まっていた。あまり乗り気ではないが、そこぐらいしか慣れたイタリア料理屋は知らない。
そこは俺が四年前まで、バイトをしていたレストランだった。
そこは、俺が生まれる随分前の「大阪万博」の時に来日したイタリア人が立ち上げたレストランだった。味は間違いなく本場だろう。ただ、オーナーが今ではいい年のイタリアのおじいちゃんといった感じだが、バイトをしている時はその気性の荒さによく泣かされた。
彼の口癖は「カーツッオ」だった。片言の日本語しか喋れなかったため、苛立ってくると、これが鳴り響く。俺がイタリアから輸入した里芋みたいなものを、ペティーナイフで皮を剥いている、横から「カーツッオ」がよく飛んできた。何も知らなかった俺は、よくある白人に弱腰の日本人のように薄ら笑いを浮かべていたが、一番弟子の橋口さんに「カーツッオ」の意味を聞いたら、「おしりの穴」ということらしい。
随分前に、CNN放送を見ていたら、マイク・タイソンのインタビューで「ピー」が連発していた。要するに、英語で言う、「F」や「A」で始まる汚い罵声を、俺はへらへらと笑っていた訳だ。それを見て、オーナーがまた怒るという悪循環にはまり、悲劇のような日々を過ごしていた。
長堀の地下街に下りると、そのレストランはすぐ目の前だった。冷蔵庫を兼ねたディスプレーの中には、腐敗を防ぐためにロウで覆われた巨大な生ハムが何本もぶら下がり、さらに大きな丸々としたチーズが無作為に転がっていた。さらにその奥には数えきれないほどのワインがワインセラーの中に整頓せれていた。懐かしい光景だったが、どことなくディテイルは変わっているような気がする。
今月のランチと書かれた黒板に目を通し、俺は店内に入った。すると笑顔が素敵なウエイトレスが俺を迎えてくれた。「おタバコはお吸いですか」と聞かれ、「はい」と答え、彼女は俺を喫煙席に案内した。
その時、周りを見渡したが、当時の知り合いの姿はそこにはなかった。彼女が俺の席に厚めのグラスに入った氷水とメニューを運び、俺は「すいません、橋口さんいます?」と彼女に聞いた。
「呼んできましょうか?」
別に、話すことはなかったが、あれだけ世話になったのに無視をする理由もなかったので、「よろしくお願いします」とだけ言った。
オーナーの一番弟子の橋口さんには当時、よく世話になった。オーナーの片言の日本語が分からず、よく橋口さんに聞きに行った。彼の夢は自分のレストランを開業することだと、飲みにつれていってもらった時、熱く語っていたのを覚えている。
「お、松田か、久しぶりだな」。
一八〇センチ近い、がっちりとした体系の橋口さんが現れた。コックコートは相変わらず、まったく汚れていなかった。ベタベタに汚れている俺のコックコートを見て、橋口さんはよく「うまい料理人ほど、服を汚さない」と説教していた。それに対して、決まって俺は「別にプロになる気はありません」と言い、よく怒られた。
「ちょっと、通りかかったんで、昼飯を食いに寄らせてもらいました」。
「そうか、よく来たな」と人懐っこい笑顔がこぼれた。
「あの、オーナーいます?」
「オーナーは月二、三回程度かな、店に顔を出すのは。今日は来てないよ。最近、体調が悪いみたいで、最近はだいたいのことは俺がやってるかな」。
「オーナーって、いくつでしたっけ?」
「もう七〇歳は超えてるんとちゃうかな、もう立ち仕事はできんやろ。」
「そうですか、ところで橋口さん、レストランの開業はどうなったんですか?」
彼は親指と人指し指で丸い円をつくって、「こんな安月給で働いてたら、『金』がないがな」と苦笑いだった。
彼の月給は四年前とたいして変わっていないかもしれない。おまけに奥さんと息子さんがいれば、開業への資金繰りはますます苦しそうだった。
「オーナーも俺に店を譲るみたいなことを言ってたし、あんまりリスクを犯さんでもこのままでいいかな、とも思ってんねん」。
「オーナーって子供さんいましたっけ?」。
「オーナーは離婚して、娘さんが一人いたんちゃうかな。あんまり自分のことは話さんから分からんけど、恐らく独り身やで」。
七〇歳超えて独り身はこたえるだろうなと、容易に想像ができた。
「ところで、何食いたい?オーナーおらんから、好きなんたのめよ」。
「いつも、すみません」。
「けど、金はびた一文、まけへんで」と真剣な目をした後、「うそうそ、貧乏人からは金はとれん、そこそこまけといたるから心配すんな」と人懐っこい表情に戻った。
こんなレストラン一軒ぐらい、俺が簡単に買えるほどの金を持っていることを彼は知らなかった。旧友と話すと、いつも自分が大きく変わったことに気付かされる。彼の目に映る俺は、学費を稼ぐために一日に何千枚の皿を洗う苦学生の時から完全に、止まっているようだ。
「お任せしますんで」。
「よっしゃ」。
グラスの横に置いてある、おしぼりを広げ、サングラスを脇に置き、それを顔に置いた。顔の余計な油を取った後、両手を拭いた。すると、さっきのウエイトレスが、一般的なワイングラスの三分の一程度の小さなグラスに入れた赤い食前酒を運んできた。
「失礼します」と言い、俺は使い終わったおしぼりをどけ、彼女はそれをテーブルの中央に置いた。
これはイタリア産独特の赤いオレンジ・ジュースの中に、白ワインのようなアルコール類を混ぜ合わせたものだった。俺はこれを一気に飲み干した。
俺は後ろを振り向き、オープン・キッチンになっている厨房を眺めた。
ストーブと呼ばれるコンロには橋口さんが軽快な鍋さばきと、独特の高い位置から塩を振る姿が懐かしかった。
その奥は調理器具や調味料が並べられているため、よく見えないが、そこがバックと呼ばれ、俺が約三年半お世話になった場所だ。仕事は単調で、野菜や肉を切ったり、レシピに書かれたソースを順番通りに入れて、それを混ぜるだけだった。子供の頃から虫のような生き物が苦手だった俺は、生きたオマール海老を縦半分に割ることになかなか慣れず、もたついている俺にオーナーから「カーッツオ」がよく飛んできた。
調理している橋口さんが後ろを向き、何か指示をすると、後ろにいた二十代前半の男の子が駆け足で左側に向かっているのが見えた。そこは客からは完全に死角になっているが、大量の皿が運ばれる「洗い場」だった。
週末になると、朝から夜まで「洗い場」に立たされる日がよくあった。すると上半身の半分から下半身が水浸しになり、帰りはノーパンになる日も珍しくはなかった。
それでもここで働き続けていた。俺は生まれた時から父親がおらず、大学進学を母親に半ば強引に進めたため、朝は新聞配達で、昼は学校に行って、夜はここでバイトをしていた。ここを選んだ理由は単純だった。ろくに金を持っていなかった俺は、バイト情報誌を見る時、時給に加えて、決まって「まかない付き」の項目だった。
高校生まで、母親の手料理以外、口にしたことのなかった俺は所謂、「洋食」に強い憧れを持っていた。そのため、面接に受かって、「まかない」で食べた始めてのスパゲティーを目の当たりにして、世の中にこんなうまい物があるのかと、感動したのを覚えている。その時に食べたのが、「オマール海老のリングイネ」だった。
それはこの店で一番高い看板メニューである。それ以来はオマール海老を半分に割ることはあっても、それを口にすることは二度となかった。そのため、「洗い場」で客の残した「オマール海老のリングイネ」をつまみ食いすることが、この拷問のような「洗い場」の業務の唯一の楽しみになった。
ウエイトレスが失礼いしますと言い、トマトとモッツアレラ・チーズと生ハムとメロンの前菜の盛りつけを運んできた。
俺は後ろを振り向き、橋口さんと目を合わせて、軽く会釈をした。彼は親指を立てて、笑顔で答えた。
ここにくるまではチーズが苦手だったが、この豆腐のようなモッツアレラが食べられるようになってから、今ではあの青カビで有名なゴルコンゾーラと赤ワインで晩酌をするのが、楽しみになっている。
口当たりがあっさりとしたトマトとチーズをほおばり、あまり好きにはなっていないが、甘いメロンの上に塩辛い生ハムを同時に食べた。冬場のメロンなので、甘みが弱かった。この時期はメロンの代わりに熟した柿を使っていたのを思い出した。
当時は本当に生活が大変だった。俺が休める日は唯一、正月の三ヶ日だけだったが、バイトの二年目からは三日目からシフトに入れられたため、年に二日間だけしか休みがなかった。子供の頃から貧乏で、雨の日にビニール製の長靴も買ってもらえず、同級生からよくいじめられた。
そんな生活がどうしても嫌で、経済的に自由になりたかった。高校を卒業したら、区内の工場にでも就職するかどうか悩んだが、生鮮食品の工場で流れ作業をしながら生活を切り盛りしていた、母親の姿を見て、これが抜本的な解決でないことは知っていた。
あと、四年だけ我慢しようと、独学で受験対策をし、府立の大学に合格した。正直言って、大学はどこでも良かった。金に関することが学びたかった。そのため学部は「経営学部」と「経済学部」に絞った。
たまたま受かったのが、「経営学部」で、そこでどうすれば金が増えるのかだけを知りたかった。それが分かれば、卒業を待たずにして、大学を去るつもりだった。
だが、意気込んで望んだ講義だったが、退屈な授業が多く、親が社長や弁護士といった金持ちの同級生達の豪遊についていけず、次第に足が学校から遠のいた。四年間だけ、我慢しようと思っていたが、次第にモチベーションは低下していった。
また、失礼しますと言って、ウエイトレスが食べ終わった前菜の皿を引き、メインの皿を中央に置いた。
それは「オマール海老のリングイネ」だった。
俺は後ろを振り向いて、橋口さんに笑顔で会釈を繰り返すと、「遠慮なく食え」と口だけ動かして、他の注文に忙しそうだった。
ホークで少し厚めのリングイネを巻き取り、それを口に運んだ。オマール海老の海のエキスとトマトソースの相性が抜群だった。ただ、今では毎日のように、高級料亭や寿司屋、握りこぶしぐらいの大きさで数万円する国産牛肉を食べているため、始めて食べた時のあの感動はもう蘇ってはこなかった。オマール海老の尻尾の部分の身をホークで取り出し、それを一口で食べた。ぷりぷりした食感が懐かしかった。
死角になって分かりにくいが、「洗い場」に入っていたさっきの男の子が橋口さんに呼ばれ、バックに戻っていく姿が見えた。すると厨房を出て、客席を抜け、ディスプレー兼用の冷蔵庫の中に入った。数秒経って、彼は両手で大きなトマト缶を三つ積み上げて、出てきた。
ちょっと、それは無理だろうと思って見ていたら、案の定、彼はバランスを失って、一番上のトマト缶を落とした。「ガン」という大きな音で、座っていた客は一斉に彼の方を見た。「失礼しました」と言い、急いで両手にある二つの缶を先に厨房に入れた後、落ちたトマト缶を拾って行った、彼の表情はとても申し訳なさそうだった。俺も橋口さんに玉ねぎを三〇個持ってこいと言われ、無理して一回で済ませようとしたら、足を滑らして、玉ねぎを客席に放り投げたことがあった。あの時はえらく、怒られたな。
大学が二年を過ぎると、コンパや飲み会に浮かれている同級生達とは対照的に、俺は心身共に疲れていた。そのため、真剣に大学を辞めようかと悩んでいた。その時に、橋口さんに相談したら、ここの正社員になれと口説かれて一瞬、揺れ動いたが、単価の安い商品をあくせく造り続ける姿と母親が生鮮食品の工場で働いているのが、大して変わりにないと想い、踏みとどまった。
このままだったら、自分が潰れると思い、必死で機会を意識するようになった。半分眠ったまま配達していた新聞が、たまたま経済紙だった。そこに『インターネットで取引する証券会社』という見出しが見えた。俺は配達中、立ち止まってその記事を読んだ。
当時、「松井証券」が日本で始めて、インターネットで取引が出来る業務体制を整えた。なぜか子供の時から、俺の「直感」はあたることが多かった。大学を選ぶ時も、金がなかった俺は同級生のように複数大学を受験することは出来なかったが、大学案内を見て、「これだ」という一校に絞ると、そのまま合格した。
あの時も同様に、「これだ」とひらめいた。大学でパソコンの使い方を習ったばかりで、その時受けていた「会社法」の講義に、教授がバブル経済の時に、「株」で大もうけした話をしていた。その後は株価が反落し、大損して「株は恐ろしいから、一般の人は手を出さないようにしましょう」と付け加えていた。
株は恐ろしいものかもしれないが、銀行に一〇年、定期で預けても当時は、金利は〇・一%、さらにがむしゃらにここで働いても、時給が二〇円増えるかどうかだった。今ある現状の土台自体を変える必要があった。ネット証券、まったく未知な可能性だったが、強い「直感」が働いた。
昨日の酒が残っていたせいか、リングイネを半分、食べた所で苦しくなってきた。後ろを振り返って橋口さんを見たら、注文に追われている様子だった。残しても気付かれないなと想い、ウエイトレスを呼んだ。最後にオマール海老のハサミの部分を穿ろうかなと思ったが、「洗い場」にいる男の子のために、ハサミを二つに裂き、食べやすい形にして、皿の上に置いた。小さな喜びがなければ、「洗い場」はやってられない。
俺はウエイトレスを呼び、「これ下げてもらえますか」と丁重に言い、皿を引いてもらった。すると、「食後のお飲物はどうなさいますか」と聞かれたので、「カプチーノでお願いします」と答えた。
その「直感」に従った俺は、大学を一年間休学し、その間に一〇〇万円貯めることを目標にした。朝は新聞配達で経済情報を仕入れ、昼は学校の代わりに、コンビニで働いた。夜は「まかない」付きのここで、明日の朝食まで腹の中に詰め込んで帰った。そんな生活をしていたら、予想外に二〇〇万円を残すことができた。
その二〇〇万円を持って手数料の安い、インターネット専門の証券会社にしようかと迷ったが、株式取引に関して、まったくの素人だった俺は安全策のために、ネットでも取引が可能な一般的な証券会社を選んだ。手数料はネット専門の証券会社よりも高額だが、営業マンが電話で手取り足取り「株」のいろはを聞くことが出来た。
「失礼します」と言い、ウエイトレスが小さいカップに入った「エスプレッソ」を運んできた。「カプチーノ」を注文したはずだが、彼女は間違って「エスプレッソ」を持ってきた。何も言わずにそれをそのまますすった。
その証券会社で知り合った前川さんという主任が良い人で俺に株式の基礎を教えてくれた。さらに幸運なことに、その当時は二〇〇一年でITバブルを迎えようとしていた。前川さんが基本的なチャート分析に加え、新興市場でいくつかのIT企業を教えてくれた。またしても「直感」がものを言い、二〇〇万円の持ち金が三五〇万に膨れ、これが俺がデイトレーダーとして踏み出すきっかけとなった。
その結果を見て、バイトのシフトを減らし、パソコンの前で株式投資に熱中した。株式に関する様々な書籍を買いあさり、いつの間にか、新聞を配る方から見る方へと変わっていた。そこから半年が経つと、俺の持ち金は五〇〇万円まで膨れ上がり、その後はITバブルの波にうまく乗って、信じられない大金を手にした。その大金を持って、俺は始めてワーゲンの中古車を買った。
小さなカップに入った「エスプレッソ」を飲み干した後、内ポケットから常に現金一〇〇万円が収まっているオーストリッチの財布を取り出し、そこから一万円を抜き取って、伝票の横に置いた。
ウエイトレスの女の子が忙しそうだったので、そっと席を立って、店を出た。
昼食にも関わらず、店の前には若いOL風の女性達が列を成して待っていた。相変わらず人気があるんだなと思う反面、「洗い場」に追われている男の子の姿が手に取るように想像できた。
俺は手に持っていたダウンジャケットをまとい、チャックを首まで引き上げた。地下街の喫煙席で一服した後、「日本橋」に向かった。
長堀から日本橋は少し距離があるので、地下鉄を使うか悩んだが、ここ最近運動をしていないのに加え、毎晩の酒が下腹にどんどん蓄積されているような感覚に襲われ、この罪悪感を払拭するためにも歩くことを選んだ。
地下街を登ると、朝よりは少し気温が上がったように感じるが、強い風がやはり堪えた。
先ほど飲んだエスプレッソの強い苦味と少しの酸味が口の中に残り、自販機で途中、ペットボトルのお茶を買い、口の中を洗うような感じで一気に飲んだ。その後、ペットバトルを脇に抱え、両手をポケットに突っ込み、身体を丸くして歩いた。するとポケットの中に入れていた携帯電話が振動した。俺は携帯を取り出し、着信名を見、自分で履歴に加えたはずだが、それが全く見覚えのない名前だった。ただ、「チナツ」とカタカナで、しかも下の名前ということから、それが「源氏名」であることは容易に分かった。
電話を切るかためらった末、俺はそれに出ることにした。
「はい、もしもし」。
「あ・た・し」。
「はい?」。俺は全く聞き覚えのない声に一瞬、間違え電話かと思った。
「チナツよ、覚えてないの」。
「ごめんなさい、あまり覚えていないんですが」。
「え、うそ、ひどい、信じられない。この前の晩、『クラブ・ロイヤル』で知り合って、いつ電話しても良いって、言ったじゃない」。
「クラブ・ロイヤル」、それ自体が分からなかった。そこが大阪府内にあるのか、それとも東京なのか、しかも週末は飛行機でわざわざ北海道の繁華街、「すすきの」にも足を運ぶことがあったので、たった三文字の源氏名だけでは見当もつかなかった。
「ごめんなさい。それ場所、どこでしたっけ?」とこういう場合は基本的に正直に聞くことにしている。
「大阪よ、ミナミ、今日の夕方、同伴したいんだけど」。
家が貧乏で、高校を卒業するまで、服は学生服ぐらいしか持ち合わせておらず、そのため女の子と二人っきりでデートするようなことは考えもつかなかった。おまけに大学に進学すれば、バイトと学校の往復だったため、同級生達のような浮かれた話とは、まったく縁がなかった。すべてには時と機会があるように、俺はそういった類いの機会を持つことも、育むこともなかった。そのため、現在のように金を絡めてじゃないと、女性と話すことが出来ず、依然として屈折した男女関係が続いていた。
「今日は仕事で、いつ終わるか分からないから、何とも言えない」といつも優柔不断な返答を繰り返していた。
すると俺の無表情な声に加え、期待していた答えと違ったせいか「終わったら、電話してよ、私も都合あるから」と彼女なりの駆け引きで見栄を切ったようだ。
「うん、わかった」と言い、俺は素早く電話を切った。
このような電話が一日に何件もかかる。水商売の女たちに「愛」や「恋」といったものがないのは分かっていた。彼女たちの目当ては俺の「金」だというのも痛いほど分かる。ただ、いくら大金を手にしても、貧乏人の息子は所詮、貧乏人だった。子供の頃からラジオしかなかった家で、俺は時流や、流行といったものにうとかった。現在も四〇インチのプラズマ・テレビを購入したが、俺には本々、テレビを付ける習慣がなかった。そのため、買ってから一週間もすると、テレビのリモコンに触ることすらなくなった。こんな俺を相手してくれるのは、金銭だけで関係が成り立つ「水商売の女達」を他において、考えられない。
携帯電話をポケットにしまい、俺は日本橋へと向かった。
やはり気温が低かったので、家電やパソコンの周辺機器の店が連なる家電製品街、「ナンナン・タウン」を避け、地下街と連結している複合家電店の「ビックカメラ」で、パソコンを買いそろえることにした。
「ビックカメラ」の下はパチンコ屋になっていたので、まずは地下にあるパチンコ屋を通った。慎みのないユーロビートが響き、さらに、鉄の玉と玉が細かく衝突する音で、室内は爆音が渦を巻いていた。
不思議なことに、金がなかったときから、パチンコ屋に出入りすること はまったくなかった。それ以上に、競馬・競輪・競艇などのギャンブルに一切の興味がなかった。理由はいまいち覚えていないが、恐らくこういった所で金が本当に増えるという「直感」が働かなかったのが大きい。まあ、単純にパチンコ屋がフランチャイズで儲かっているのを見れば、その金の出所である個人が損をしているのは明白だ。また、ありったけの金をつぎ込んで、そういった類いのノウハウを身につけても、「自由」になるという糸口は掴めないような気がする。それは朝からここのイスに張り付いている人達を眺めれば、なんとなく分かる。
それから、エスカレーターで一階まで上がった。店員が通りかかったので、パソコン売り場を確認した後、その店員に言われた通り、俺は四階を目指した。
エレベーターに乗っていると、いつも後ろの右ポケットに入っているはずのカード・ケースを忘れたことに気が付いた。そこにはクレジット・カード類が主に収められているが、本当に欲しかったのはビックカメラの「ポイント・カード」だった。貧乏だった俺は子供の時から、「ベルマーク」を集めたり、もうなくなってしまったが、「ブルーチップ」と呼ばれる切手のように裏を舐めて貼る、ポイントシールを集めることに夢中になっていた。ある程度、それが溜まれば、「鍋」や「やかん」などと交換してくれる。子供の時は、貧乏だったので、親も買い与えてくれない「おもちゃの鉄砲」と交換してもらった。
ただ、金持ちになった今ではほとんどその「ポイント」を商品に変えることはないが、買い物後によく店員に何ポイント溜まっているかを聞く。その溜まり具合を聞いてよく胸が弾む時があった。そんな子供の頃から続いている趣味の延長だけの「ポイント・カード」を忘れてしまった。
エスカレーターの上であまり意味のないようなことで悔やんでいると、「あれ?」と目を奪われた。
その後、すぐに背筋に電気が走ったような衝撃を感じた。脳内が一瞬、凍り付き、状況が把握できなくなったが、その根源は、エスカレーターから少しずつ、下りてくる見覚えのある「顔」だった。
どこかで見たことがある、最初はそんな印象でしかなかったが、脳内に保管されている随分古いデーターを解析し、それが誰なのかを突き止めた。その後、その電気信号が心臓に伝わり、鼓動が早まり、両手にはじっとり汗がにじんだ。
そこから少しずつ、その人との距離が縮まり、身体までもが膠着した。そして、俺はその人の横を通り過ぎた。その人の横顔を見て、アーチ型になった鼻の型が一層、記憶を鮮明にさせた。
気が付くと、エレベーターは二階に着き、俺はそこで立ち止まった。止まったというよりも、体が動かなくなった。ただ、心臓やそこから押し出されている血流の早さや脈の打ち方は、外の寒さで血圧が低くなっていた状態を一転させる早い動きだった。
さらに、脳内サーバーの動きも活発化し、それをクールダウンさせるためにも、マックの巨大コンピューター「G5」のような大きなフアンが必要なほど熱くなっていた。開けることはもうないだろうと思っていたファイルが見つかり、そのなかには淡い「初恋」が浮かび上がった。さっき見た目の型や両目の間隔、さらにアーチ型になっている鼻は、感情を伴った記憶を俺に与えた。
あれ、あの奇麗な長い髪が肩ぐらいまでしかなかったな。
そんな古い記憶が蘇ると、そこから秒針が逆に時を刻み始め、さらにそれが長針に及び、最終的に凄まじい勢いで短針が逆回転を始めた。最終的に、その時計の針は生野区にある在日韓国人の教会のドアを開けた「小学校四年生」で止まった。そして、あの優しい笑顔がふわっと浮かんだ。
はっと我に返ると、エレベーターの前で突っ立っていたため、登ってくる人達がうっとおしそうに、俺の顔をのぞきながら、通り過ぎているのに気が付いた。俺は誰とも目を合わせる訳ではないが、すいませんとつぶやきながら、慌ててその場をどいた。
すごく懐かしい想いが最初に広がったが、だんだんそれが罪悪感へと変わった。恐らく、それは自分の生活に自信を持てていないのが大きい。「金」だけを追った生活を知られれば、彼女はひどく悲しむのではないかと思った。金魚の糞のように彼女の後ろを付いて回っていた俺が、今では億万長者だと胸を張れればいいのだが、子供の時に彼女から聞いた、「聖書」や「イエス」の話がこびりつき、それが思考と身体の間にギャップを生んだ。本当は会って話がしたいんだが、身体は完全に静止している。
何分経過したかは分からないが、「会って話したい」、いや「やめておこう」という間を振り子が何度も激しく揺れた。基本的に道ばたで知り合いに合っても声をかけるようなことはしない。ただこの時だけは違った。そして最後にその振り子は「会って話したい」で張り付いた。何かがふっきれたのか、するともう二度と彼女に合うことはないのかもしれないという妙な焦りが今度は沸いてきた。
そして、俺は下りのエスカレーターに急いで乗り、一階へと逆流した。右端に並んでいる人の列をかき分け、エスカレーター上を駆け足気味で下りた。そこから、デジカメ売り場に向かい、女性の顔を一人一人うかがった。時には店員の説明を聞いている客の間を強引に身体を入れ、それらしき後ろ姿の女性の顔を見たが、彼女を見つけることができなかった。急いで、携帯売り場に行き、新機種を物色している人達を眺めた。そして、契約席に座っているそれらしき人の横顔を見回したが、その人はいない。それから、音楽プレーヤ機がある場所にも、電子辞書コーナにも、トイレでも数分間待ってみたが、その人はどこにも居なかった。
二階で迷っていた時間が感じていたよりも長く、その人は店をもう出てしまったという見解が色濃くなってきた。服屋で「これ良いな」と思ったものの、もうちょっと考えてからにしようと判断を先送りにして店を出た後で、もう一度その店に出向いて、それがなかった時に、最初はそれほど欲しくなかったのだが、「ない」と気が付いてから一気に後悔が押し寄せる、そんな感覚が襲い、短所である優柔不断な性格に嫌気がさした。
「いつも、こんなんやねんなあ」と小さく声がもれた。
「松田駿くん?」
誰かに呼ばれたようだったので、俺はその声のする方向に振り向いた。
一瞬、声を失ったが、そこには彼女がいた。
「あ、やっちゃん、久しぶり」。
それは俺が始めて生野区の教会の扉を開けた時、笑顔で俺の手をつないで、横に座ってくれたお姉さん、木村庸子さんだった。
「久しぶり、元気にしてた。私のことよくわかったね」。約十三年ぶりの再会だった。屈託のない笑顔は昔となんら変わっていない。薄めの化粧だとは思うが、やっぱり彼女は美人だった。ただ額の右端にはあの時、石をぶつけられた跡がまだ残っている。
「うん、あんまり昔と変わっていないよ、僕のこともよくわかったね」。
「一回は店を出てんけど、『はっ』とエレベーターで見た『顔』を思い出して、まさかと思ってんけど、シュンちゃんかなと思って、また店に戻ってきてん。それじゃほんまに、シュンちゃんやった。すごい背が伸びたね」。
中学生まであまり背は高くなかったが、彼女が去ってから一気に、一五センチほど背が伸びた。ずっと彼女を見上げていた時間が長く、今こうやって彼女の頭のてっぺんが見えるのが、なんだか不思議だった。彼女の肩幅もすごく狭く感じる。
「エレベーターに乗ってる時、すぐにやっちゃんやと分かったよ。それから追いかけてんけど、なかなか見つからんかって半分、あきらめてたら後ろから声が聞こえて、ほんまびっくりしたわ」。
「びっくりしてたん?相変わらず、あんまり『顔』には出やへんね」。
あまりにも不意をつかれたので、まったく表情に出なかったらしい。
彼女の声を聞いていると、オレンジ色のニットを着て、髪が長くて初々しいやっちゃんの姿と、少しかかとが高いブーツを履いた大人のやっちゃんが交互に現れた。そして、彼女を見上げている自分もどんどん小さくなって、彼女の小指を握っていた十三年前の自分へと時間が戻る感覚に陥った。すごく懐かしく、ここ数年感じたことのないような、心の落ち着きだった。無意識に彼女の小指に自分の人指し指を絡ませそうになって、我に返った。
しかし彼女と再会したこの時、自分の人生が大きくズレてしまったことに気が付いた。それは大切なものを失ってしまったと言ってもいいかもしれない。その時はまだ、それが何かは分かっていなかった。いや実は見えていないフリをしているだけのような気もする。
「今、何してたん?」と彼女が俺に聞いた。
「パソコンを買いにきてん、やっちゃんは何してたん?」。
「実は昨日、東京から大阪に戻って来て、新生活のために必要なものを買いそろえてたのよ」。
そう言えば、彼女が去った後、牧師さんが俺に「お姉ちゃんなあ、東京に行って、シュンちゃんともう会えへんようになるけど、シュンちゃんが神様のことを知れるように祈ってるって」と彼女の去った次の日曜日にそっと伝えられた。それからもう、俺は教会に足を踏み入れることはなくなったが、今でもその言葉が頭に残っている。
「もう、買いもんは終ったん?」と彼女に尋ねた。
「うん、っていうか、あんまり安くなくて買うのやめてん」と彼女の屈託のない笑顔が広がった。
「そうなんや、せっかくやし、もし時間があれば、お茶でもしない」と彼女を誘った。
彼女は笑顔で、「いいよ」と言った後、「お姉ちゃんあんまりお金持ってないよ」と照れ笑いを浮かべた。
「好きなん、なんでもたのんで、俺が全部出すから」。
俺に気を使ったのか、外に出ようと言ったら、二階にマクドナルドがあるから、そこにしようと俺を誘った。気のせいかもしれないが、彼女も俺のことをまだ、貧乏と思っているらしい。
彼女は百円のホットコーヒーを注文し、俺もそれと同じものを選んだ。会計は二百円だった。彼女が見てないのを確認して、俺はそれを一万円札で支払った。
彼女がコーヒーを置いたトレイを掴み、席を探していると、昔のようにやっちゃんの後ろにくっついて、俺は彼女が座る席を待った。当時は彼女の背中しか見えなかったのが、今では彼女の頭のてっぺんが見えているのがなんだか不思議だった。
「よいしょ、ああつかれた」。
「やっちゃん、なんか、おばさんみたいやね」。
「何言ってんの、今年で私も三一歳になるんよ。もうやっちゃんも、若くないんよ」。
そっか、俺が今年で二七歳になるので、それより四歳年上のやっちゃんは三一歳か、関係は昔に戻っても、過ぎた月日は変えられない、なんだかそんなことを感じた。
「やっちゃんって東京にいてたんやね」。
「そう、ごめんね、あの時は、なんも言わんで教会から居なくなって。恥ずかしい話やねんけど、実はあの時、逃げるようにして大阪を出たのよ。」。
「そうやったんや」と当時、俺に説明をしてくれた牧師さんを思い出した。
「あの後、なんかでは聞いたと思うんやけど、私の父親は実は暴力団の人でその時、縄張り争いの抗争に家族が巻き込まれて、どうしよもなくなって一家で東京に逃げることになったんよ」。
これで、あの時やっちゃんがよく隠れて泣いていた理由が少しだけ、垣間見れたような気がした。彼女の青春は「ザイニチ」と周りの悪童や昔の価値観がこびりついた大人達から差別を受けるだけでなく、こんな閉鎖的な日本社会が強く影響したと考えられるお父さんからも何らかの重荷を背をわされていたのだろう。ぼけっと平穏に生きている日本人には想像を絶する「生き地獄」ではなかっただろうか。ただそんな想像とは別に彼女の顔から終止、笑顔が消えることはなかった。
「大変、やったんやね」と気の利いた言葉一つかけられず、俺は申し訳なさから、ただ下を向いた。
「シュンちゃんは相変わらず、優しいね。こうやって見ると、下向く顔の表情とか、昔とそのままやわ。元気やった? 今はどうしてんの?」と口べたな俺を優しく察してくれた。
そう、彼女の優しい口調も昔と変わっていない。彼女とこうして、ずっと過ごしていたいと思った反面、頭の中心ではそんなことは不可能であることは分かっていた。理由は、自分の生活が快楽に満ち、やちゃんが教えてくれた「イエス様」や「聖書」の話とは、まるっきり正反対だったためだ。彼女がそのことを知れば、俺のことで悲しむのは間違いない。苦労に満ちた彼女の人生を俺のことでまた、暗くさせるのだけは決してさせたくない。
心の中で、俺は「やっちゃん、ごめん」と変わってしまった自分の姿に詫びた。
「やっちゃんが居なくなって、寂しかったけど、それなりにやっているよ」と当たり障りのない、話しでうまく話題をすり変えようとした。
しかし、「シュンちゃん、『教会』行ってる?」とまじめな彼女の話題はそこへと再び戻った。
俺は一瞬、心臓に冷や汗をかくような心境になり、さらに彼女が去った後で牧師先生が言った、「やっちゃんがシュンちゃんのために祈っているよ」という言葉が脳裏に浮かんだ。彼女は俺のためにずっと祈ってくれていたのだろうか?また、申し訳なさが込み上げてきた。
俺はまた、下を向いて、信仰深い彼女が悲しむのは分かっていたが、これに関してやはり嘘を付くのはためらい、「もう、行っていない」と正直に答えた。
「そっか、残念やね」と彼女が残念そうなのを見て、ああ、やっぱりなあと思い、俺の心が強く揺さぶられた。嘘をついたほうが良かったかもしれない。ただ「神様」と名のつくものに対して、嘘はやはり、つきずらいのが本音だった。
すると話題をすり替え、「お母さん、元気にしてる?」と彼女は続けた。
なんだが追い討ちをかけられたようになったが、俺は再び下を向き、遠い記憶が浮び上がってくる様子を、ただ自然に受け止めた。
「シュン、あんたまた、あんな子とつきあってんの?」と母親はよく、俺に怒鳴りつけていた。当時の母親も「ザイニチ」を差別する大人たちの一人だった。
「うん、あかんの、なんで?」。
「当たり前やないの、あの子は『日本人』とちゃうんよ、『ザイニチの人』なんよ、そんな子と遊んだらあかん」。
「やっちゃんはめっちゃ優しいし、僕は好きや。なんでみんな『ザイニチ』って言うん、なんにも変わらんやん。いっしょやん」。
「あんたは何を言ってんの、あの子は『ごろつき』みたいな子やねんで。その内、あの子に全部、全部、あんたのもんとられてしまうからな。この親不孝もんが」。
母親はよく「ごろつき」と彼女のことを言っていたが、その意味が当時の俺ではよく理解できなかった。しかし、俺が大人になると、三丁目の「木村家」を近所では知らないものはいないほど、有名な家だった。要するに、近所では「木村康子」は「ヤクザの娘」として知らない者はおらず、彼女と毎日のように一緒にいる俺も近所から後ろ指を指されていたようだ。当時から母親はその姿に苛立っていたみたいだ。
当時を振り返りながら、慎重に言葉を選んでいると「元気やと思う」となんとも曖昧なものになってしまった。
小学校五年生の時、俺は「肺炎」にかかり、学校を約半年間、休学し、自宅で療養することになった。自宅療養と言っても、ただ貧乏で入院費が払えなかっただけだった。母親は仕事で毎日、忙しく、看病してくれる人は誰も居なかった。そのため、熱が四〇度まで上がっても、母親が帰ってくるのはいつも七時を回っていたため、「あと一時間遅れていたら、死んでいましたよ」と緊急病院先の医者に母親がひどく怒られたことがあった。
どこからか、そんなことを聞いて、やっちゃんが毎日、俺の家に看病に来てくれるようになった。学校の帰りがほとんどだったが、熱が不規則だったため、発熱を繰り返すような時は学校を休んで俺の看病をしてくれた。
額の上に乗せるタオルを頻繁に変えてくれて、よくお粥もつくってくれた。そして体調の良い時は、「聖書」をよく読み聞かせてくれた。
そのなかで、彼女が読んでくれた、「金持ち」と「ラザロ」の話は子供だった俺には衝撃的だった。
「ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前に座り、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。
その上、犬がきて彼のでき物なめていた。この貧しい人がついに死に、御使いたちに連れられて、アブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをお使わしになって、その指先を水で濡らし、私の舌を冷やしてください。私は火炎の中で苦しみもだえています』。
アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前、よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ超えてくることもできない』。
そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロをつかわしてください。私は五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと予言者とがある。それを聞くがよかろう』。金持ちが言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは行った、『もし、彼らがモーセと予言者とに耳を傾けないなら、死人のなかから蘇ってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れないだろう』」。
「やっちゃん、人は死んだら、みんなもだえ苦しむん?」。
「みんな『金持ち』みたいに燃える火の中に落とされるんやろうね」。
「ぼくは、そんなん、いやや、怖いわあ」。
「そうやね、けど『イエス様』を受け入れたら、『ラザロ』に会えるようになるんよ」。
「ほんま、僕『ラザロ』に会えるように、『イエス様』受け入れるわ」。
「うん、そうやね。きっと神様も喜んでくれる」。
そんな時、六畳の部屋を挟んだ玄関ががっちゃっと開いた、するとそこには忘れ物を取りに帰ってきた母親の姿が見えた。母親が彼女を「ごろつき」と叫んでいたこともあり、子供ながら「母親」と「やっちゃん」がはち会わせることに不穏の空気を察した。
「あれ、誰かいんの?」と母親は見慣れない靴を見付け、そう言った。
「すいません、お邪魔しています」と彼女が申し訳なさそうに答えた。
六畳の部屋を通り、母親が現れ、その顔を見た途端、俺の胃袋から酸が込み上げ、その後は一気に胃痛が広がった。
彼女の顔を見るなり、母親はすごい剣幕で「あんた、何してんの、なんでかってに人の家にあがりこんでんのお」。
胃痛をこらえ、俺がその間に割って入った。「ちがうねん、お姉ちゃんは僕のこと心配してくれて、お粥とかつくって、持って来てくれてん」ともう、俺は一人、パニック状態になっていた。
「そんなもん、食べんでよろしい。あんた、内の子にかまわんといて。あんたの親何してんのか、全部知ってんのよ、あんたとか関わると怖いから、はよこの家から出て行って」。
彼女はただうつむき、表情は強張っていた。俺は小さすぎたため、無力だった。彼女は持ってきてくれた透明のタッパーに入ったお粥を、素早く布に包んで立ち上がった。そして小さな声で「すいませんでした」とうつむきながら言い、彼女は早足に家を去った。
そしてその出る間際で、母親が「ごろつきが」と彼女に吐き付けた。
それから、彼女は俺の家にも、その周辺にも姿を見せることがなくなった。母親に対する怒りよりも、自分の「弱さ」や「無力感」を痛感させられた。俺には何も出来なかった。
「お母さん、元気やったら良かったわ」と屈託のない笑顔で俺に答えた。
文句や怒りの言葉一つこぼさない、彼女の「暖かさ」が俺の心を一層、強く締め付けた。
それから彼女が東京での生活をいろいろと話してくれた。東京の地下鉄が複雑で、高校になかなかたどりつけなかった話や、大阪にいた時は名門私立の女子高だったが、両親が途中で離婚し、しかも協議離婚がなかなか成立せず、泥沼化したことで、夢だった弁護士もあきらめ、短大までしか行けなかったこととかだ。
両親の離婚後は、母親の元で生活をしたが、夫に庇護していた母親が酒に溺れるようになり、外で男を捕まえ、帰宅が少なくなり、長女のやっちゃんが二人の兄弟の生活を支えていたようだ。苦労の末、自費で休学を重ねながら、短大を卒業し、その時看護科を専攻し、東京の病院で四年勤務した後、大阪の病院に転職が決まったようだ。その病院は「東淀川」にあるらしい。
そして、少し緊張したが、「お父さんって、どうなったん」と彼女に聞いてみた。
少しの沈黙が流れた後、「具体的に何をしているとかは分からんけど、昔のような仕事はしていないと感じるなあ」と彼女は正直に答えてくれた。
失礼かもしれないが、思いきって「それは、もう暴力団の関係やないってこと?」と聞いてみた。
「うん」と案外、あっさりと答えてくれた。
「そっか、そんな話とかしたんや」。
「してへんけど、『表情』とか『顔つき』とかが明らかに変わったと思う」。
「じゃ、今は何してんの?」
「表向きは『不動産関連』やけど、いまいちそこまでは聞いてないねん」。
その後で彼女は何かを言おうとしたが、唇をぐっと引き締めて、それを堪えたのが分かった。俺はこれ以上、何かを問いただすようなことは止めた。
「シュンちゃんは今、仕事は何してんの?」
正直、この質問は堪えた。
「コンピューターの前で一日中、右の人指し指だけで『株』を転がしています」と言えれば良いのだが、これ以上彼女に悲しんで欲しくなかった俺は、「金融業界」と言った。言い終わった後で、これでは彼女の父親と同じ「不動産関連」とあまりニュアンスは変わりないかもしれない。敏感な彼女はそれに気が付いた可能性は高い。
「そう、がんばってやってるんやね」といつもとはどこか微妙に違う彼女の笑彼女を見て、返す言葉が出てこなかった。重い沈黙が広がった。
その沈黙のなか、「シュンちゃん、これからどうすんの」と彼女が切り出した。
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