フェンガーリン ③
樹のうろに手を加えた住まいで、陽が沈むのを楽しみに待つようになった。
フェンガーリンがはじめてその男に会ったのは、石造りの大浴場でだ。
人々が寝静まった深夜、街の大浴場に忍び入っていた。
年若い、彫りの深い目鼻立ちをした男のだった。天窓から差し込む月光が2人の姿を照らし出し、引き合わせた。
以来、その男は夜な夜な森に住むフェンガーリンを訪ねてくるようになった。
ともに星を探し、梟の鳴声に耳を澄ませ、他愛無い言葉遊びをして心を重ね合わせるようになっていった。
いつしかその男と、夜の世界で寄り添う未来を夢想するようになっていた。
「フェンガーリン、共に我が屋敷へ来てくれ」
男は片膝をつき、フェンガーリンの手を取った。
男はこの辺り一帯を統治する領主の子息らしかったが、森へやってくる時は馬を一頭引き連れているのみで、従者などの姿はなかった。
その頃フェンガーリンは、水で溶いた粘土にすり潰した樹皮と自分の唾液を混ぜ合わせたものを妙薬と称し、人間に与えていた。人間は酒や蜂の蜜、絹といった物品を代わりに持ってきた。
その時代、吸血鬼という呼び名はまだなかった。果ての森の精霊、と呼ばれていた。
星の煌めきを意味する名前をくれたのは、森に迷い込んだ人間の少女だ。
少女を森の出口に案内すると、名を訊かれた。ないと答えると、名付けてくれたのだ。
フェンガーリンは天蓋に暗幕が設えられた馬車に揺られ、男と森を出た。
「どうだい、フェンガーリン」
「こんなに賑やかな場所ははじめて」
共に暮らした鹿や野鳥、姿を持たない妖魔たちとは親しんでいても、森での暮らしは静謐を湛えていた。
「これからはここが君の、いや、僕たちの生きる世界さ」
馬車の暗幕の隙間から外を覗いていた。
肩に男の手が添えられる。
人が温かいと、その男で知った。振り返る。
男の顔。霞がかかったようにぼやけていた。
記憶が霧に包まれる。
霧が晴れ、"あの日"の記憶が現れる。
フェンガーリンは、屋敷の奥の広間に立っていた。自分を中心に血で描かれた複雑な魔術の儀式陣。
愛し、ともに生きようと誓った男は、階の上からフェンガーリンを見下ろしていた。
男の後ろ。
厳かな装飾が施された椅子に、フェンガーリンの知らない、年老いて幽鬼のように目が落ち窪んだ老翁が座っている。
なにかしらの病魔に毒されているのは明白だった。男は、派手に着飾ったその老爺を、王、と呼んだ。
王が蹌踉と立ち上がると、男が一歩前に出て、手で合図をした。
「この国の礎となってくれ。さらばだ、果ての森の精霊」
見下ろしてくる男の瞳はどこまでも暗い。
男との出会いも、交わした言葉も、感じた温もりも、すべて、幻だったのだ。
そう悟った時、フェンガーリンは瞼を閉じ、静かに諦めた。
不思議と取り乱しはしなかった。
フェンガーリンを取り囲む三十人ばかりの魔術師が、一斉に詠唱をはじめる。
陣が放つ悍しい光に、フェンガーリンは飲み込まれた。
どれぐらいの時間が過ぎたのか。
瞼を開く。外から差し込む光が、まず目に飛び込んできた。なにが起きているのか、すぐには理解できなかった。
階。昇った。男と、王と呼ばれていた老爺が死んでいた。
漠然と裏切られたのだと頭で理解していても、フェンガーリンは男の亡骸をかき抱き、三昼夜声を上げて泣いた。
喉が張り裂けんばかりに声を張り上げても、吸血鬼の回復能力がそうはさせなかった。
わくわくと胸躍る喧騒に包まれていた市場。
陽の光と水の飛沫が交じり合う噴水の広場。
興奮と熱狂が渦巻いていた雄大な競技場。
死んでいた。なにもかもが死に絶え、街は彩を失っていた。
フェンガーリンは足の皮が破れるのも構わず街を駆けまわった。つまずき、足の爪が剥がれ、膝と腕と掌を擦りむいた。即座に傷は治癒していく。
天を仰いだ。
太陽。恐怖が込み上げ、腹のものが逆流し吐き出した。
いや、ほんとうに得体が知れず恐ろしいのはー
「私は、一体」
フェンガーリンは自らを抱くように腕を回し、身を縮め、額を石畳に擦りつけた。それでも身震いは止められなかった。
◆
「フェンガーリン」
名を呼ばれ、目を醒ます。
春香が、心配そうにこちらをのぞき込んでいた。