フェンガーリン ②
病院にいる春香の父は、色鮮やかな花々を喜んでくれたらしい。
それから平日の学校がはじまり、フェンガーリンの様子は春香から伝え聞くことが多くなった。
どうやら歯ブラシや着替えなどを買いに、放課後、2人で商店街へ出かけたらしい。
吸血鬼と自称する割に、平気で陽の下を出歩いている。吸血鬼といったら、陽光は天敵ではないのか。
さておき、週末の土曜日。春香の家。
フェンガーリンがせがみ、春香がビデオ屋で借りてきたアニメのBlu-rayを観ていると、インターホンが鳴った。
「なんやねん、いいところで」
「一昨日フェンがネットで注文した抱き枕じゃない? 異世界転生したらなんたらって作品の」
「おい」
フェンガーリンはサッと大吉から顔をそらす。こいつ、ここに居つく気か。
それでも構わないと春香は考えているだろうが。
「ちょっと私出てくるね」
と玄関に向かった春香が、しかし中々戻らない。
早く続きが観たいでおじゃる〜と雪崩かかってくるフェンガーリンの頭を突き放し、大吉も席を立つ。
春香の背中。その先に、ペンシルストライプのグレースーツを身に着けた男が立っていた。
「おや、他にもお家の方が。どうもワタクシ、アレッシオ・ロマンティとモウシマス」
針金のような男。そんな印象を受ける。
それはなにも、男が長身細身な体格だからだけではない。
「春香、先戻ってろ」
「うん」
戻る際、束の間大吉と目を合わせた春香の表情は強張っていた。
「ご要件は?」
アレッシオの口角がつっと上がり、目を細める。
「ワタクシ、どうしてもお付き合いしてイタダキたい相手を追って、スペインからマイリマシテ」
「それは遠路はるばる」
気合の入ったストーカーかと、言葉の上だけでなら取れる。
「そちらに、その相手、フェンガーリンという吸血鬼はオラレマセンか?」
「吸血鬼?」
大吉は、なにを馬鹿なことを、とでもいうふうに眉根を寄せて見せた。
「知りませんね。この家にいるのは俺とさっきのとエセ関西弁のオタクだけですから。てことで、お引き取りを」
捲し立て、家へ入り後ろ手に扉を閉めた。
「なんだ、あいつ」
ポマードでビジネスマン風に固めた黒髪。一語一語が針金でちくちく肌をつくように響く声。
ちゃちなストーカーなどとは考えられなかった。常人には抱きようのない、不快感。
シャツが汗で張り付く感触が気持ち悪かった。
「待ちきれへんかったから再開しとるで。遅い大吉が悪いんやで」
毛足の長いラグマットに胡座をかき、フェンガーリンは戻った大吉に言う。
「大吉」
フェンガーリンの隣にいた春香が駆け寄ろうとするのを、目で大丈夫だと伝えて制した。
春香は小さな異物を飲み下すように頷く。
フェンガーリンはそんな2人の目配せに、ちょっと首を傾げた。
◆
「先日はどうも」
週明け月曜の放課後、部活後に校門を出たところで声をかけられた。
アレッシオ・ロマンティ。
日が沈み、夜気が足元からひたひたと忍び寄ってきている。
驚きはなかった。また現れるだろうと確信に似たものは感じていた。
「お時間、すこしヨロシイデスか?」
アレッシオが道を挟んだ向かいにあるカフェを掌で示す。シャビーシックな入り口が、ポーチライトの灯りで照らし出されている。
店内。落ち着いた雰囲気で、客はまばらだった。
「フェンガーリンという吸血鬼について少しお話ししたくて。待ち伏せるような真似をしてしまってモウシワケアリマセン」
「知らない、とお答えしたが」
「ええあなたは"知らない"のでしょう、本当に。なので話に来たのですよ、ワタクシは」
大吉は口を噤んだ。
注文したコーヒーが運ばれてくる。アレッシオの元にも同じものが置かれる。
アレッシオの声。やはり不快だった。
話を聞き終える頃には、その不快さが耳にへばりついた気分になっていた。
「長々とお話してしまいマシタが、吸血鬼は我々と似た姿をしていますが、我々とは異なる生物なのです」
アレッシオが節くれた指をテーブルにトンとついた。
「アナタたちが一緒にいて良いことなど1つもありマセンよ」
「コーヒー、飲まないのか」
伝票を持って先に立ち上がったアレッシオに問いかける。
「ワタクシは、"美食家"なので」
アレッシオが去った後、大吉は温くなったコーヒーを流し込んで店を出た。
歩きながら、霊や妖が視えることについて考えた。普通なら知らず、交わらない存在。吸血鬼もそうだ。
ただ吸血鬼は生物というだけあり、誰の目にも映っていた。
自分と春香は、幼い頃から当たり前に不思議なものと交わりすぎて、感覚がズレてしまっているのではないか。
そんな調子で、これから普通に人の社会でやっていけるのか。
漠然とした不安が、大吉の心に入り込んでくる。
春香の家。
春香は中央病院へ行っていて留守だった。ただ時間からしてじき帰ってくるだろう。
玄関口に出てきたフェンガーリンを、散歩に誘う。
「今からか? もう日ぃ沈んでんねんで?」
相変わらず吸血鬼らしくないやつだ。
大吉は片頬で笑う素振りをした。
「まぁええけど。ちょい待ちい、春香に書き置きしとくわ」
一度玄関に引っ込み、戻ってきたフェンガーリンと並んで歩き始める。
フェンガーリンはパーカーを着てフードを被っていた。この辺りを出歩くのに、あの髪は目立ちすぎる。パーカーは男物のようだが、サイズはぴったりだった。
「アレッシオとかいうやつに会った」
杓ヶ丘町を流れる河の土手に出た。
「で?」
これまでのフェンガーリンからは想像できない冷たい声が返ってきて、大吉はちょっと目を見張る。
眼下を流れる黒々とした川面。フェンガーリンはそれを見ているのか。表情はフードの影に隠れている。
後悔しそうな気がした。しかし、始めてしまった話だ。
「大昔、陽の光を克服しようとした吸血鬼がいたらしい。不死の吸血鬼が太陽を浴びたら灰になるってのは、まぁ有名な話だな」
この一週間ちょっとで、フェンガーリンの正体は気にならなくなっていた。
1度3人でいる時に、春香が紙で指先を切ったことがあった。春香はそんな怪我ならちょくちょくする。
その時。
フェンガーリンが自分の指を軽く舐め、春香の切り傷を軽い汚れでも拭うように当てた。春香の指先の傷は、跡もなく消えていた。
不思議なことはあると、霊や妖を見る目を持つ大吉と春香は知っていた。
フェンガーリンが正真正銘の吸血鬼なのかもしれないと思わないでもなかった。
そのことをはっきりさせないでいたのは、どうあれ、フェンガーリンが大吉と春香の日常に溶け込みつつあったからだった。
アレッシオの訪問が、その融和をひっくり返した。
「吸血鬼は不死、か」
フェンガーリンが、自嘲気味に息を吐く。
「不死なもんかいな。普通の吸血鬼は、むしろ人より短命や」
「そう、なのか?」
「たしかに、吸血鬼の血ぃにはごっつい再生力がある。けどや、陽光を浴びたら灰になるて、大半の土地が1日の半分昼っちゅー星で生きるには、過酷すぎる性質やろ」
「それは」
「ウチは、何人も見送った。話でその死を聞いただけのやつもおる。ウチだけや。陽の下でも平気なんは」
「それじゃ、陽光を克服するために、10万の人間の命を代償とする術を使ったってのは」
川面で、魚か何かが跳ねる水音がした。
大吉はフェンガーリンに胸を突き飛ばされ、最後まで言葉を言えなかった。
「大吉」
フェンガーリンがフードを脱ぐ。
白銀の髪が星空を吸い、放つ粒子の濃度が増す。
思えば、こうして夜空の下に立つフェンガーリンを見るのははじめてだった。
表情の消え失せた顔、その片頬を一条の涙が伝う。
「ウチにもな、話したくない過去くらいあんねん」
フェンガーリンが去った後、大吉の胸中に残ったのは後悔の苦さだけだった。
こんなかたちで、はじめて名前を呼ばれたくはなかった。