于静 ⑥
于静が冥王星の石を持っていないのに気づいたのは、タクシーで老街のマンションに辿り着いてからだった。
拳法着を着た酔いどれ女は、大吉を抱えて屋根から屋根を飛び移った。その時の動揺が尾を引いていた。
その女とはタクシーに乗る時に別れた。
その際、于静が報酬のらしき封筒を手渡していた。
于静は水路に落ちた拍子に石を落としたらしい。
「失くしてしまったものはしょうがない。ともあれ無事に帰り着けて良かったじゃないか、大吉クン」
命の危機に瀕しても手放そうとしなかった石を失くした割に、あっさりとしていた。違和感は覚えたが、戻って探そうとも言い出せなかった。
奇襲してきた赤ポンチョを纏った女が、まだ辺りをうろついていないとも限らない。
観光に出ていた春香たちは先に帰ってきていて、シャワーを済まてルームウェアに着替えていた。
ずぶ濡れなのを適当な言い訳で誤魔化し、大吉もシャワーを借りた。
旅行券には宿泊先も含まれていたが、春香が董娜とこの短い間に随分打ち解けていた。
于静の勧めもあり、マンションの空室を使わせてもらう流れになった。
夕食はフェンガーリンが食い残して持ち帰った小籠包で済ませた。
「大吉、起きてる?」
春香の声。大吉はベッドの脇にあるスタンドライトを点け、部屋のドアを開けに行く。
「これ、お土産」
スウェット姿の春香が包みを差し出す。開けると、赤い扇子が出てきた。
「この扇子を見つけた時に大吉が思い浮かんだから、買ってきちゃった」
「おう、そうか。ありがとうな」
普通に振舞えているか自信がない。
幼馴染とはいえ、就寝前にこんなふうに話すのは小学生ぶりだ。春香からは、ほんのりシャンプーの香りがした。
「それじゃあ、おやすみなさい」
春香も、どこかぎこちない気がした。
目覚めると、大吉は知らない部屋にいた。
「?」
「おはよう大吉クン、いい朝だね」
呼びかけられ、顔を向ける。于静に添い寝をされていた。
「なにしてやがる」
「なにって、治療だよ、ち・りょ・う☆」
「あぁ?」
起き上がろうとして、腕が引っ張られる感じがした。
見ると、両腕から数本の管が伸びている。なんだこれ。
改めて部屋を見回す。無菌室のような場所にいつの間にか移されていた。ベッドの脇には管が繋がるごつい機械があった。
戸惑う大吉を見て、于静が楽しそうに笑っている。
「記憶がないのも無理はないよ。寝てる大吉クンを起こさないように董娜に運んでもらったんだ」
「で、勝手に治療をはじめてた、と。添い寝してる理由も含めて、一応訊いておこうか。なんでだ?」
「驚くかな、と思って」
ベッドから蹴り落した。于静はしたたかに尻を打つ。
「新田様、ただいま管を外します。それと、春香さんが部屋の外でお待ちです。入っていただいてもよろしいですか?」
「ん、頼む」
董娜が春香を名前で呼ぶようになっていた。昨晩、董娜とどんな話をしたのか尋ねても、春香は頬を赤らめるばかりで教えてはくれなかった。
春香は、変わりない大吉の様子を見て、深く安堵の息を洩らした。
「大吉クン、これを」
「なんだ?」
于静が小瓶を手渡してくる。
中には赤い結晶がいくつか入っていた。軽く振ると固い音がした。
「大吉クンの身体から取り出した、フェンガーリンクンの血液の結晶。本人は要らないだろうし、大吉クンに渡しておくよ」
「俺に渡されてもな」
「昨日は吸血鬼の力に頼らない方がいいとは言ったけど、どうしても、って場面もあるだろう? だから、念のためだよ」
于静は春香には聞こえないよう、大吉に顔を寄せ小声で言った。
「そんな場面、もうないだろ」
「だといいけどね」
于静は大吉の肩をぽんと叩いて離れて行った。
大吉は吸血鬼の血の結晶をそっとポケットに仕舞った。
「それじゃあ、董娜さん、また会おうね」
「はい、また」
于静と董娜は空港まで見送りに来てくれた。
春香は空港の搭乗ゲートを潜るまで、何度か振り返って手を振っていた。
名残惜しげに、飛行機に乗り込む。
「フェンは長生きしてるから、今までいろんな土地を旅してきたんだよね」
「せやな。だいたいヨーロッパやったけど」
「その中には、一度会ったきりだった人もたくさんいたよね」
フェンガーリンは春香がほんとうはなにを訊きたいのか、察したらしい。
「そらな。ウチにまた会おうちゅう気ぃがあらへんかったからな。会おうと思えば、案外簡単に会えてたかもしらん」
「そっか。そうだね」
大吉はチェアに深く腰掛け目を瞑り、二人の会話を聞くともなしに聞いていた。