フェンガーリン ⑧
アレッシオはあっさりと起き上がり、山を下りて行った。
「春香嬢の頭は、首にくっつければ繋がりマスから。では、また近いうちに」
そんな台詞を残して。もう絶対に会いたくない、と大吉は思った。
「いい加減機嫌直してくれよ、春香」
大吉は展望広場に大の字で寝そべっていた。好きでそうしているのではなく、押し寄せてきた疲労で動けないのだ。
「機嫌とか、そんなことじゃないでしょ。あんな、あんなことして」
フェンガーリンの膝に抱えられた春香は、手を出すと噛みついてきそうだ。
「悪かったよ。って、なんか昨日から謝ってばっかだな、俺」
「ウチとの約束破ったんは、しゃあないし、許したる」
「ありがとうよ」
「こっちこそ、ありがとぉな。ほんまに、ありがとぉ」
吸血鬼の血は、抜かなければ体内からは消えないとのことだった。どうしたものか、途方に暮れる思いだ。
とりあえず今は疲れたとしか考えられない。
「フェン、私を大吉の上に置いてくれる?」
「お、おい春香」
フェンが、転げ落ちないよう慎重に大吉の胸板の上に置く。
「もし大吉が私を助けるためにフェンを差し出してたら、怒ってた」
「うん」
「でも、今回みたいな無茶するのも、許せない」
「うん」
「……死んでたかもしれないんだから」
春香の涙が、大吉の胸を濡らしていた。
母親を早くに亡くし、父が病で入退院を繰り返している。
大切な人を失う恐怖が春香の心底にはある。
「ごめん」
大吉は春香の頬に手を当てて言った。
しばらく、寝そべっていた。
空が白みはじめていた。
「帰ろっか」
春香が言い、そうだな、と答えて上体を起こす。腕にかかえた春香の頭は、男の頭より一回り小さくともずしりとした。
「朝陽や」
フェンガーリンが言った。
「だね」
「そうだなぁ」
大吉の間の抜けた声がツボに入ったのか、フェンガーリンと春香が同時に笑い出す。
光が闇を晴らし、三人を包み込む。
「あかん、なんや、うずうずする」
「ふふっ、ちょっとわかる、フェンのその気持ち」
フェンガーリンが、その場でくるりと回った。タップをはじめる。その動きに合わせて白銀の長い髪が生きもののように泳ぎ、光の粒子を放つ。
「踊り下手だな」
大吉はフェンガーリンには聞こえないよう、抱えている春香にぼそっと言った。
◆
大吉は頬杖をつき、しかめっ面で喫茶店の窓の外に目を向けていた。
店の前の道を登校する学生は、ほとんどいない。そろそろ始業ベルが鳴る時間だ。
「そう不機嫌そうにしないでクダサイ。ほら、タマゴサンド来マシタよ。おや、おいしそうデスね」
アレッシオが大袈裟な調子で言うと、モーニングを運んできた若い女の店員がくすっと笑って礼を言った。
「何の用だよ、それで」
大立ち回りをした、昨日の今日だった。
喧嘩と言えば言えたが、こちらは死にそうな目にまであった。
そんなことはもう忘れたとでもいうように、アレッシオはケロッとした顔で通学する大吉の前に現れたのだ。
一緒に通学していた春香は先に登校させた。
「いえね、体内に取り込んだ吸血鬼の血をどうするか、お困りではないかと思いマシて」
「……どうにかできるのかよ」
「半月ほどいただければ、処置できる人間を手配できるかと」
「……頼む」
「ウケタマワリマシタ。あ、連絡先、教えてもらっていいデスか?」
大吉は舌打ちし、スマートフォンを取り出す。頼み事をする態度ではないかもしれないが、そもそも厄介なことになった元凶はこの男だ。
異常な回復能力を発揮するこの身体では、ひょんなことで世間をにぎわせる事態にならないとも限らない。
霊や妖、吸血鬼といった存在は、表の社会では認知されていないのだ。
「あと、もう一つ」
「まだなんかあるのか」
「大吉クン、高校卒業後の進路はお決まりデスか?」
「なんの話だよ」
大吉はかくんと頬杖から頭を落としそうになる。
進路希望調査は、2学年に上がった始業日に配られた。夢を持っていてすでに勉強もしている春香はちゃんと記入していたが、大吉は就職と埋めて出しただけだ。
そんなことを、アレッシオに話したくはなかった。
「考えてマセンね、その顔は。イケマセンよ、将来のことはちゃんと考えないと」
「お前は俺の先生か⁉」
「ふふふ、違いますが、一つ助言をと思いマシて」
「助言?」
タマゴサンドをぺろりと間食したアレッシオが、紙ナプキンで唇を拭い、人差し指を立てて見せる。
「起業されてはどうでしょう? 自分の会社をつくるのデス」
「はぁ?」
なんでそうなる。
「大吉クンは、自分がどれほどマイノリティか自覚がなさそうデシタのでね。僭越ながら、社会経験のあるワタシが物言わせてもらおうと思いマシて」
社会とっても裏の方ですが☆とアレッシオは茶目っ気を交える。イラっとくるウィンクやめろ。
席を立ちかけたが、マイノリティという言葉は引っかかった。
「君のように、人もデミも助けようとする人間は、ほとんどいません。大抵の集団が、どちらかの側に立っていマス」
「だから、なんだよ。俺には関係ないだろう」
「もし、また今回のようなことがあったら? 相手がワタシのようなフリーランスならいいデスが、もし集団、組織だとして、君は諦めマスか?」
諦めないデショウ、と見透かすような言い方だ。実際、そういう場面になってみなければわからない。
ただ春香は、どんな状況であれ困っている人間がいたら助けようとするに違いない。
そして自分は、そんな春香を放ってはおけない。
大吉は黙ってアレッシオの話を聞く。
「個人が組織に挑んで勝利する。そんなことはフィクションでもなければ不可能です」
「裁判とかなら、あるだろ」
「法律がある、こちらの世界でならば」
アレッシオが喫茶店の窓の外を、掌で指す。
「大切なものと、ご自身を守るために、仲間を集めなさい。そして作るのデス、大吉カンパニーを」
それで、起業か。合点はいった。ネーミングはくそダサいが。
「俺は、ただの高校生だ」
「ふふふ、いまや中学生も起業する時代デス」
「なんで俺の身を案じる?」
「昨日の敵は、というやつですよ」
「茶化すなよ」
「ふむ、本心を言えば、君を買っているから、デスよ」
「買う?」
「ええ。これでもワタシ、裏の稼業をするプロとして自負があるのデス。しかし、負かされた。その相手がまた面白いことに、人間もデミもどっちも大切にする変わり者ときた」
「そんなに変なことか、それ」
アレッシオは頷く。
「変わっている。だから、ワクワクする。人はワクワクすることには金も時間も惜しまない。そうでしょう?」
「それは、わかる。でもやっぱり俺は、普通の高校生だ。起業とか、自分の会社とか、縁はない」
「ふふ、いまはそれでいいでしょう。なに、君に感化されて少しお節介をしたくなっただけなのデス」
アレッシオが立ち上がった。自然な振舞いで、伝票を取る。
「ごちそうさま」
一応、礼儀として言う。
アレッシオは背筋を伸ばし、またどこかで、と言い残し去っていった。
「気障なやつ」
大吉は独り言ちた。