何故、ワクチンはウイルスよりも人を殺すのか。
魔人病は恐ろしい死の病の一つであった。俗に『魔王』と呼ばれる強力な魔物の魔力が人体へ影響を及ぼすことで発症すると考えられており、魔王の魔力に呼応するように罹患者の肉体は限界を超えた魔力を産み出してしまう。その際に体内の魔力伝達系が修復不可能な程に著しく損傷するため、魔力の暴走が収まると今度は魔力の枯渇状態に襲われる。壊れてしまった魔力伝達系が生命維持に必要な魔力を全身に運ぶことはなく、割れた器から水が漏れるように罹患者の身体から命が零れ落ちていき、遠くない最後には死が訪れる。魔王の最盛期には、魔人病の死者の葬儀が間に合わず、墓地には死体が山積みになっていたと言う。
そんな恐ろしい魔人病であるが、人類は敗北を続けることを良しとしなかった。首都から遠く離れた山岳地帯の医師であったエドワード・モーデが、特効薬を発見したのだ。この地方では幼少期に牛型の魔物の乳を飲ませる風習があり、その際に軽度の魔力暴走が起こることは知られていた。エドワードは、更に幼少期に魔力暴走を起こしたことのある人間が魔人病に罹患しないことに気が付き、七年の研究の末に特効薬――ワクチンの発明に成功した。
その効果は覿面で、ワクチンが国民に広く使用されると魔人病の罹患者は激減した。魔人病の危機は去り、三〇年もすると過去の物となった。
「魔人病ワクチンは殺人ワクチン!」
「国家はワクチンの使用をやめさせろ!」
魔人病の危機が去って二〇〇年。世間は反ワクチンブームが到来していた。それもそのはずで、去年の魔人病での死者と魔人病ワクチンが原因で亡くなったとされる国民の数には倍近い開きがあったのだ。ワクチンで子供を失った家族の怒りは激しく、ワクチン反対派は連日に亘って国会議事堂の前でデモを繰り返していた。
「お嬢。俺、子供の頃にワクチン打っちまったんですけど大丈夫ですよね?」
騒がしいデモ参加者達の横を通り過ぎながら、巨大な男が身体に似合わぬ小心そうに呟いた。
「は? 何が?」
その声に相槌を打ったのは、隣を歩く小柄な少女。見るからに上流階級と言う出で立ちで、二人は何処かの貴族とその護衛と言う雰囲気だ。
「ですから、ワクチンですよ。人がいっぱい死んでるって話じゃあないですか。俺も魔人病が原因で死んじゃうんじゃないかって」
「…………あのさ、ワクチンで死ぬのは副反応のせいで、魔人病になるわけじゃあないよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですか? じゃなくてさ、それくらい調べたら?」
小さなお嬢が大きな態度で護衛の男に応える。『ワクチンで死ぬのが怖い』のに『どうしてワクチンで死ぬのか』を調べようともしない護衛に呆れているようだった。だが、きっとデモの参加者も護衛の男とそう変わりないだろう。ワクチンが危険だと言われ、その恐怖に居ても立っても居られず、恐れを振り払う為に列を成して声を上げて熱狂に身を任せている。
大衆とはそう言う生き物だ。
「って言うか、ワクチンが原因で死んだ人間の方が多いのは事実だけど、実際は魔人病で死んだ人間の方が圧倒的に多いよ」
「えーっと? それはどういう意味ですかい? お嬢」
お嬢の矛盾した言葉に、護衛の男は訝しげに眉根を寄せた。
「単純な数字を比べればワクチンが原因の死者が多く見えるけど、割合で考えると魔人病の方が脅威ってこと。例えば、一〇〇万人の子供達の内で九九万人がワクチンを打って、九九〇〇人が副反応に苦しみ、その内の九九人に死亡被害が出たとするでしょ?」
「はい」
「残りの一万人のワクチンを打たなかった人の内、四〇人が魔人病で亡くなってしまった……って言う設定にしとこうか」
設定……と言うが、一応はお嬢が調べた七年前の魔神病関連のデータに基づいた数字である。勿論、計算しやすいように誤魔化した部分もかなり大きいが。
「数字だけ見ると、ワクチンの死者は九九人で、魔人病の死者は四〇人でしょ?」
「やっぱり、ワクチンって危険なんすね、お嬢」
「いやいや。良く考えて。九九万人中の九九人ってことは、一万人に1人がワクチンの被害者ってことだよ? 一方、魔人病は一万人中四〇人の死者を出しているんだから、致死率は魔人病のが四〇倍も高いよ」
「なるほど?」
お嬢の長々とした説明を受け、護衛の男は明らかにわかっていない風に頷く。ワクチンの仕組みを大半の人間が理解していないのと同じく、まだまだ確立や割合、統計と言う考えは世間にあまり浸透していない。多くの人にとって重要なのは単純な数字で、計算された致死率の比較と言う考え方は受け入れがたい。故に、純粋な死者の数のみを比較し、殆ど無害であるはずのワクチンの方が危険だと勘違いしてしまうわけだ。
「とにかく、ワクチンは安心なわけですね?」
「いや。だから、危険もあるよ? ただ、魔人病と比べれば確率的に何倍も安心ではあるってこと」
「その確率ってのが、浅学な俺にはよくわかりませんね。〇か一ってわけにはいかないんですか?」
「世の中、そんな簡単じゃあないよ」
勿論、護衛の男の言う通りに完全に安全なワクチンが開発できれば一番良いのは間違いない。実際、今も改良のための研究は行われているだろう。しかし例え研究が進んでより確かな安全性を確保できたとしても、個人の体質としてワクチンが合わずに不幸になってしまう人間が出るかもしれない。ワクチンを打つ際の人間だったり環境だったり、ワクチン以外のリスクだってあるだろう。そもそも安全性を確かめるための試験投与の際の死亡リスクまで考えれば、安全なワクチンだけを打つと言うのは不可能だ。
「リスクを正しく受け入れて行動や選択するとこ、それが統計の意義の一つだよ」
少なくとも、ワクチンは不完全に有効であり、完全に無害な存在ではない。だが、魔人病に無抵抗でいる危険性はワクチンよりも遥かに高い。もし仮にワクチンを打たなければ、魔人病の被害者は一〇〇倍を数えてしまうだろう。国家の視線に立てば、そんな被害は許容できないに決まっている。一〇〇人の犠牲を出したとしても、残りの一〇〇万人近い人間の安全を保障できるのであれば、それは人類の勝利と言って良いのだろう。
「ワクチンはより多くの人間の命を間違いなく救うと私は思うよ。だから、国家が今の魔人病ワクチンを否定することはありえないと思うな。デモの参加者には悪いけどね。あんな風に叫んでも被害者が増えるだけだよ。一人の命のために、一〇〇〇人を危険にはさらせない。そうでしょう?」
「なるほど?」
お嬢の総括に、護衛の男は理解したのかしていないのか首を傾げる。
「わかってないでしょ? 『わからない』って言うのも勉強よ?」
「あのデモが無駄ってことはわかりやした」
「……それも違う。私は無駄なんて思ってないわ」
「そうなんで? 何か意味があるんですか?」
「あのね、ワクチンが原因で自分の子供を失った人の気持ちを考えれば、無駄なんて言えるわけがないでしょう?」
散々理屈を語っていたお嬢の口から出た答えが意外だったのか、護衛の男は驚いた顔をする。
「義理人情は市民の専売特許じゃあないのよ。むしろ、本来は私達貴族の持ち物だったはずよ。統計と同じくらい大切なんだけど、近頃の貴族はそれを忘れがちで困っちゃうわ」