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伏龍街八丁目十二  作者: 夜船
第二話 ローストビーフと葬儀
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 ハヤテはビュッフェ形式で皿にビーフストロガノフを盛っては食べ、パンで適度に腹を満たしていた。初めて食べたビーフストロガノフはとろけるような食感で、今までに食べたどの肉料理よりも美味しかった。ソースも玉ねぎの甘みがよく効いていて、毎日食べてもいいな、と思った。


「やっぱり惣菜で我慢しなくてよかった……」


 パーティ会場に似合わないことを言いながら、次のおかわりへと歩き出したとき。


 ──あるひとりの男性と目が合った。


 だいたい五十歳くらいだろうか。白髪まじりの毛は薄く、しかしどこか威厳をたたえた西洋人の男性だ。ハヤテはその男性から、何故か視線を逸らせなかった。


「……コーネリア」


 彼女の意思ではない。理屈ではない。身体に染み込んでいるのだ。恐怖が。絶望が。痛みが。ハヤテは慌てて逃げようとしたが、人が多くて自由に動けない。男性に手を握られ、振り払おうとするが、身体が動かない。


「コーネリアじゃないか」


 怖い。怖い。怖い。でも逃げるすべはない。彼女の身体はその恐怖を、知っている。


 男性の名はジョセフ・ポール・ブライス。ハヤテの身体の元の持ち主──コーネリア・キャンベル・ブライスの実の父親だ。


 彼は伏龍街の外の、とある国で伯爵の地位を持つ。コーネリアはそんな彼から逃げるため、この伏龍街にたどり着いた。もう十五年以上前の話になる。


 ハヤテはジョセフにテラス席まで連れ出され、椅子に座らせられた。何一つ無理やりなことはしていないのに、身に刻み込まれた恐怖が、彼女を縛っていた。


「コーネリア。どうしてここにいるんだい?」

「お、おとうさま……わ、わたし、は、ここで、死んだ、のです」


 コーネリアには吃音きつおん症があった。伯爵令嬢としての周囲からのプレッシャー、厳しい教育、そして父からの暴力に耐え続けた結果だった。


 声が震えていると父はいつもコーネリアをぶった。殴られないか不安になりながら、ハヤテ──否、コーネリアは話を続けた。


「なるほど。それで君は変わらない姿を留めているんだ」


 記憶と違う優しい父親の笑顔。しかし彼は次の瞬間、目の色を変える。


 バン、と机が叩かれる。ティーカップは落ち、割れ、コーネリアの白い足に傷を作った。


「死んでまで汚名を広めるか、めかけの子の分際で!」


 コーネリアは恐怖に脅えた。口の中に溜まった紅茶が喉奥で停滞する。


「死体が動くなぞ気味が悪い。吐き気がする! どうしてこんな街まで逃げたんだ!」

「おとうさま、でも、……わ、わたくし、この街、で、良くして、も、もらっていますのよ……」

「黙れ、貴様の喋り方を聞くとイライラする! 娘に出ていかれた親として私がどれだけの悪名をこうむったか、お前にはわからないくせに!」


 普段のハヤテならここで「お前が全面的に悪いだろ」と告げるところだったが、身体が上手く動かない。怖い。とにかく怖いのだ。


「お、とうさま。わたくし、幸せで、す。おとうさま、どうか、わ、たしのことは忘れてくださいませ」


 ブライスは立ち上がり、振りかぶって平手を打とうとした。コーネリアは目を閉じ、一撃に備えて目を閉じていた──が、ついぞ平手が飛んでくることはなかった。


 代わりに。


「気分が悪いようで気になりまして、医務室まで案内しますね」


 聞き慣れた声が、鼓膜を叩いた。目を開けるとそこでは、ユキマサがブライスの腕を抑えていた。


「ゆ……きまさ」

「なんだ君は! 私は娘と話があるのだよ、娘と!」


 ブライスは暴れるが、体格的に有利があるユキマサに抑えられて行動もままならない。


「奇遇ですね、私もあの娘と話がありまして」


 ユキマサが外面の微笑を浮かべる。ハヤテは久しぶりにその表情を見た。


「申し遅れました。私、ユキマサ・ニシナと申します」


 ブライスはその名を聞くと忌々しそうに顔を顰め、はあ、と大声で彼を責め立てる。


「娘はこんな危険で気が狂った男に引き取られたというのか? 返せ、娘を返せ!」


 ハヤテはユキマサの笑顔にすっかり安心しきり、普段通り邪悪な笑みを浮かべた。


「はは、残念だったな。お前が探してるコーネリアはもういないぞ」


 ブライスはその変貌に驚き、目をみはった。そこには、もはやコーネリアはいなかった。


 ティーカップの破片でついた傷は瞬く間に修復され、コーネリアと瓜二つの相貌は、全く違って見えた。


「コーネリアはこの街に死にに来たんだ。わたしが死んだら誰かのために身体を使ってください、という遺書付きでな」


 にやり、と笑みを浮かべる。コーネリアが生前絶対にしなかった表情だ。ブライスは幻でも見ているかのように、口を開けたまま固まっている。


「また会ったな、クソ親父。私は今、桐ヶきりがや(はやて)という名前になっている。私を引き取ってくれるのか? なら、死ぬまでよろしく頼むぞ?」


 悪魔のような高笑いをその場で上げながら、ハヤテはお茶を啜った。ビーフストロガノフでもたれた胃が、アールグレイの香りで満ちる。


 ブライスはハヤテの申し受けに恐怖し、壊れたマシンのように首を何度も振った。やがて気絶し、周囲の人間が騒ぎを察知して呼んだ医務室の係員に引き取られた。


 ユキマサはだいぶ疲れが顔に出ていた。ユキマサがハヤテを連れていくのに気が進まなかったのは、リストでブライス伯爵の存在を確認していたからだろう。


「ユキマサ、すまない。私が勝手に出歩いたせいだ」

「いや……おまえに非は無い。百パーセント向こうが悪いんだ」


 コーネリアにも、常にこう言ってくれる味方がいたら、どうだっただろうか。きっと、思い詰めてこんな街には来なかっただろう。


 そうしたらユキマサがハヤテを作り出すことはなく、この街は伏龍街にならなかった。今までの全てがなくなるのだ。コーネリアは、気づけばその小さな身体に背負いきれないほどの業を抱えていた。


「あと二、三人、お得意様に挨拶したい。付き合ってくれるか?」


 そう言ってユキマサは手を差し出す。よく見ると一張羅にワインがかかっていた。ハヤテを探すうちに、誰かのワインがかかってしまったのだろうか。


 ハヤテはとにかく、その言葉が身に染みて、恐怖でこわばった身体から力が抜けていくのを感じた。


 へへ、とハヤテは力なく笑う。ブライスに見せた大立ち回りは虚勢だった。


「うん、もちろんだ、ユキマサ」


 この世界は歪ではあるけれど、光もある。ハヤテは彼を見て、そんなことを考えた。



 帰り際、ふたりは路面電車に乗った。周囲はとっぷりと夜の闇に呑まれている。


「ところでユキマサ。シオンちゃんについての情報は得られたか?」


 ハヤテは前触れもなくユキマサに尋ねた。ユキマサは左手薬指の指輪を見ながら、いや、と小さな声で答えた。


「聞いて回ったが、誰も知らなかった。……というかおまえ、聞いてたのか」

「ユキマサがあんなに必死そうな顔で話すんだもんな。気になるさ」


 シオンはユキマサの元恋人だ。


 彼女は星神の核を操る力を持っていた。その力に目をつけられ、八年前、ある教団に誘拐された。


 彼女の行方は、未だわかっていない。

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