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伏龍街八丁目十二  作者: 夜船
第十二話 オールドファッションの憂鬱
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 翌日、アスターは菩提樹街を尋ねた。


 菩提樹街の青い森に囲まれた桜は、色が鮮やかだ。こうなってくると、伏龍街のにび色の桜が恋しくなってくる。


 山に入り、整備されていない道を歩く。人の声はしない。森の中はどこまでも静かだった。


 森を抜けてしばらく歩くと、「フカザワ料理店」の看板が見えてくる。アスターはかすかに笑みを浮かべて、その店の扉を開けた。


「いらっしゃいませ――って、あら。アスターくん」


 彼を迎えたのは、案の定エリカだった。


「お久しぶりです」


 帽子を脱いで礼をして、席に着いた。


「今日は、何か甘いものを食べに来ました」

「あ、じゃあドーナツなんかどうですか?」


 故郷でよく食べたお菓子だ。アスターはすぐさまドーナツを注文した。


 エリカは奥の調理室に消えた。アスターはコートを脱ぎながら、何を話すか――というより、どう話すかを考えていた。


 アスターがエリカのところに来たのは、ほかでもない、家族のことを話すためだ。フェリシアやダリアと会って、アスターもいろいろ覚悟が決まった。エリカに、自分が弟であることを話すのだ。


「……何でもかんでも黙ったままだと、いつかエリカさんにも伝わってしまう」


 以前ユキマサの家に行ったとき、エリカは過去がわからないことがつらいと言っていた。見覚えのないものに懐かしさを覚えてしまうのがつらいと言っていた。


 ならば、いっそ自分がすべてを話してしまえば、と思った。ユキマサも承諾してくれた。しかしその時のユキマサがあまり乗り気でなかったのがあって、なかなか行動に移れなかった。


 それでも、話してみないとわからないこともある。兄は記憶の通り自分を忌み嫌っていたが、妹は違った。


「よおし、思い切ってやってやる!」

「何をだい?」


 とみに声が降ってきた。声がしたほうに振り向くと、そこには見慣れない老婆がいた。手には野菜を抱え、優しそうな笑顔を浮かべた、いかにも田舎のおばあさんといった女性だ。


「え、あ、えっと」

「もしかして、エリカさんの友達かい」


 エリカは警察の元関係者であるフカザワ夫妻に引き取られたのだったと、アスターは思い出した。


「えっと……フカザワ夫人ですか」

「そうだよ。あんたは?」


 アスターは、警察関係者ならエリカの身元も知っているだろうと、本名をそのまま明かした。


「アスター・ウォルコットと申します」

「ウォルコットっていうと……エリカさんのきょうだいかい?」

「そうです、えっと、今日はそのことをエリカさんに言いに来ました」


 アスターはそう言って、慎重にフカザワ夫人の表情を伺った。彼女は大きく口を開けて、そうかい、と笑った。


「あの子はね、わしらが本当の家族でないことを知ってるから、ずっと遠慮してるんだよ。あんたになら、遠慮なしに話せるかもしれんね」


 アスターは安堵したが、しかし次の言葉で、安堵が不安に変わった。


「でもね、エリカさんも、この八年間を必死に生きてきたんだよ」


 アスターは、なぜユキマサがシオンの記憶を取り戻すのに消極的なのかわかった。シオンにはシオンの人生があるように、エリカにはエリカの人生がある。


 ユキマサははなからシオンの記憶の修復を諦めているのだと思っていたが、そうではなく、真に彼女の幸せを願ってのことだった。それがたとえ成就の妨げになっていようと。


 アスターは自分の考えの浅はかさを感じた。


「……そうですね」


 ずっと姉の傍にいたいがゆえに、彼女が本当に何を望んでいるかを見失っていた。アスターは考えを改める。エリカのままで、彼女の弟になる方法を考えはじめた。


「この八年間を、否定してはいけませんからね」


 アスターは自分に語るように言った。フカザワ夫人はそれ以上何も言わず、奥のほうへ行った。


 調理室からエリカとフカザワ夫人の楽しそうな話し声がする。彼女にとっての幸せは、この世界にある。


 しばらく待っていると、調理室からエリカが出てきた。


「待たせてごめんなさい。チョコレート味とイチゴ味があります。好きなほうをどうぞ」

「ありがとうございます、じゃあこっちで」


 アスターはチョコレートがかかったドーナツを取った。エリカは「ここいいですか?」と訊いてから、アスターの正面の椅子に座る。


「じゃ、いただきますね」

「はあい、召し上がれ」


 アスターはチョコレートのかかった部分を一口かじる。しっとりしながら歯切れのいい生地が、口の中に広がる。揚げたてのドーナツはまだ暖かく、上唇に溶けたチョコレートが付いた。


 この国ではなかなか味わえない、虫歯になりそうなくらい甘いドーナツ。その味がやけに懐かしい。やはり料理の味だけは、昔のシオンと変わらなかった。


「おいしいですか?」


「ええ、故郷のことを思い出しましたよ」アスターは思い切って言った。「そういえば、先日故郷の兄弟に会ったんですよ」


 不自然な流れではなかったはずだ。その証拠にエリカは、兄弟ですか、と嬉しそうな反応を見せた。


「お兄さんですか?」


「ええ、兄と、妹に。……」


 アスターはここからどうやってエリカの話に持って行こうかと考えた。


『今も会ってますよ、姉にね……!』


 これはちょっと怖い。


『エリカっていう姉もいるんですよ』


 これも怖い。むしろもともとどういうつもりで明かそうと計画していたのか、すっかり頭から抜けていた。そもそも自分は策略や作り話が得意ではない。


「……アスターくん?」エリカが不審そうな目線を向けてくる。「どうしたの?」


 アスターは頭を振って、本来の目的を思い出す。エリカに余計な心配をかけないよう、隠していることを明かす覚悟でここにやってきたのだ。


「えっと……すみません、今日ここに来たのは、その話がしたくて」


 エリカが首をかしげる。その話ってどの話だ。


「あの、エリカさん」アスターは勇気を振り絞って声を出した。「あなたは、ボクのお姉さんだったんです」


 言ってしまった、という後悔と開放感で、アスターのこわばった背筋が緩む。


「えっと、お姉さんだった、ってことは……?」


「ここに養子に出されたんです。もう戸籍上は姉弟じゃないんですよ」


 アスターなりにできる最大限の創作だった。エリカが納得したように頷いたのを見ると、アスターはほっとしてまたドーナツをかじった。


「そう……だったんだね、アスター」


 こうして名前を呼ばれると、不思議と嬉しくなった。ダリアが名前を呼ばれないから嫌われていると思い込んでいたのも、今ならわかる。


「わたし、実験より前の記憶がなくて。ずっと寂しかったんだ。君みたいな兄弟がいたってこと、知れてうれしいよ」


 実験とは、教団で行われた人体実験のことだろう。アスターは平気な顔でその話をするエリカが、どうにも悲しく思えた。


「アスターになら、話してもいいかも」


「何をですか?」


 エリカは、震える声で言った。悲しそうでもあったし、悔しそうでもあったし、はたまた嬉しそうでもあった。こういうときは、たいていいいことを言われない。


「わたし、結婚するんだ。今度お見合いで会う人と」


 アスターの嫌な予感の通りだった。


「会ったことは、あるんですか」


 エリカは首を振った。アスターはずっと、ユキマサに姉を渡すまいとしてきた。しかし知らない誰かと姉が結ばれるくらいなら、ユキマサと結ばれたほうがましだ。むしろユキマサはまだ告白していなかったのか、と少し呆れた。


「今年の六月、結婚式を挙げるんだ。アスターにも招待状を出すから来てね。わたし、この街に来てから友達もいなくて、このままだと寂しい結婚式になるところだったよ」


 アスターは、学生時代のシオンのことを思い出した。彼女はいつも笑顔で、周りには常に友達が何人もいた。アスターはそう言いたかったが、残念ながらそうもいかない。


「それなら、よかったです」


 アスターはいろいろな言葉を腹の底に呑み込んで、そう言った。いつかユキマサが彼女を助けてくれると信じることしか、彼にはできない。

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