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アルコーブの友情は形を変えて

作者: すおう契月




 ガタガタと石畳を踏んでは揺れる馬車の中で、ミレイアは無表情を貫いていた。

 心の中は大嵐のごとく荒れているが、素知らぬ顔で、俯きもせず、王城へと向かう。


 正直に言えば非常に逃げたい。

 今すぐ逃げ出したいが、走る馬車から飛び降りるのは無謀というものだ。まして今は、動きにくいことこの上ない正装姿。パンツスタイルならまだなんとか……魔法を上手く使えれば……いや、それでも無茶が過ぎるだろう。

 有無を言わせずドレスを着せられ馬車へ押し込まれた。

 このまま行くと王城に着いて即案内されてしまう。

 家のメイド達も王城の侍従も、ミレイアの味方ではない。あちらの良いようにミレイアを動かすよう、買収されている。元より仕えているのは、ミレイアにではない。ミレイアに冷淡な父と、名ばかりの婚約者に仕えている者達だ。


 城が間近に迫りつつある。

 馬車の外を見れば、夜の色に染まった川が火明かりと月明かりを反射していた。この川を渡りきれば、もう正門は目と鼻の先だ。


 どうしてこうなったのだろう。

 ミレイアは幾度目かの溜め息をついた。


 回避できるなら、そう動いた。だがミレイアにできることは少なかった。数少ない手を打っても、無駄骨に終わることが多かった。だから仕方ない。どうにもできなかったと分かっている。

 けれどやるせない気持ちになるのは当然だろう。


 ミレイアは今から王城で、夜会の最中、婚約者に婚約破棄を突き付けられる。それから覚えのない罪を断罪される。命までは取られないだろうと思うが、希望的観測でしかない。

 己の無力さにうちひしがれながら、また嘆息したその時。


 ドンッという大きな音がして、唐突に馬車の扉が開いた。


「よぉ、生きてっか」


 走行中の馬車だというのに、まるで止まっているかのごとく、マントを被った男が乗り込んでくる。

 あまりの事態にミレイアは目を瞠った。

 淑女として鍛えられた顔面は、目を大きく見開くだけでほとんど崩れず済んだが、驚きまでは隠せない。

 そんなミレイアの気持ちなど見通した上で、男はニッと笑った。


「久しぶりだな」


 その言葉と声に正体を悟って、ミレイアは再び驚いた。この男は。


「悪いがアルバレス侯爵家令嬢ミレイアには死んでもらうぜ」


 そうきたか。

 ミレイアは早鐘を打ち始めた胸を抑えるように、ぎゅっと胸元で手を握る。

 いつの間にか止まっていた馬車は、橋の半ばにさしかかっていた。






 そもそも、ミレイアが望んだ婚約ではなかった。

 ミレイア個人が望まれたわけでもない。求められたのは、高位貴族らしい魔力量を内包する、その正しい血筋のみ。

 窓越しに中庭を見て、はぁ、とミレイアは嘆息した。


「溜め息をつくと幸せが逃げるぜ?」

「元より持っていないもの。逃げたところで大差ないわ」


 後ろからかけられた声に、ミレイアは即答する。

 図書館最奥のアルコーブは彼女の指定席だ。禁帯出の本ばかりがある図書館の奥は、人が来ない。視線から逃れるため入り込んだのはかなり以前のことで、それ以来昼の休憩時間はいつもここへ避難している。

 卒業はもう目前で授業はほとんどが復習のため、学院へ来る必要はない。だが僅かに気が抜けるお昼休みもあって、ミレイアは変わらず通っていた。

 だから、この図書館奥のアルコーブへ来るのも当然のことだった。


 ここへ訪れるのはミレイアともう一人。

 学院内では平民と目されている、アルベルトだけ。


 実際のところ彼は公表していないだけでそこそこの身分を持っているのでは、とミレイアは踏んでいるのだが、確かめたことはない。

 気になったものの、問うつもりはなかった。伏せているものをわざわざ聞き出すのは野暮だ。必要なら彼の方から明かすだろう。

 この図書館奥では言葉を交わすが、学院内の他の場所ではすれ違っても挨拶すらしない。そんな不思議な関係だが、婚約者のいるミレイアにとっては有り難い接し方だった。

 窓の外を覗いたアルベルトは、ミレイアが見ていたものに気付いて鼻を鳴らす。


「あんなののどこが良いんだろうなぁ?」

「個人の好みの問題ではなくって?」

「そりゃあそうだけどよ、なにもあんな毒気たっぷりのヤツ選ばなくても」

「毒気?」


 アルベルトの言葉に首を傾げる。

 窓の外では、ミレイアの婚約者であるこのジョベラス王国の第一王子ルシオと、その恋人マリナが睦まじく寄り添っている。

 広い中庭の一角にあるベンチは、人通りが少ないため邪魔が入りにくい。だが学舎の回廊から見えないわけではない。二人は、関係を隠す気があまりないらしかった。

 ルシオ王子を射止めたマリナは低位貴族の令嬢だ。家名や爵位は聞いたが、ミレイアは覚えていない。

 女子生徒の評判はあまり良くないが、男子生徒の評価はそこそこの、愛らしい雰囲気を持った令嬢だ。遠目から見る限り、毒気があるようには思えないのだが。

 疑問に思ったものの、さしたる興味もないのでミレイアは首を振った。


「どうでもいいわ。私は課された義務をこなすだけだもの」


 その淡白な反応こそが婚約者の反感を煽るものだと、ミレイアは気づいていない。


 ミレイアにとって大事なのは、アルバレス侯爵家の娘として、王子の婚約者として、恥じない言動をとることだ。

 人の耳目は常にどこかしらにある。外でも家の中でも、気を抜くことはできない。

 侯爵家と自身の地位を守ることに汲々としている父は、些細なことでも叱責してくるし、ミレイアを王子妃に据える気満々の王城の者達は、相応しいふるまいを常に求めてくる。


 ルシオ王子の足りない部分を埋めるべく、ミレイアへの要求は年々厳しくなっていた。

 幼い頃は秀才と謳われたルシオ王子だが、長じてその優秀さは陰っていった。決して愚かではないが、幼い頃に持ち上げすぎたのか、帝王学が間違った方向で身についたのか、居丈高な性格に育ってしまった。

 全ての相手にではない。重んじるべきだとルシオが思った相手には、きちんと接する。

 国王、王妃、王国の重鎮である高位貴族達、武官をとりまとめる将軍や諸外国の外交官、将来自分の側近となる学友達には、丁重にあるいは気さくに相対していた。

 だがミレイアは、そこに含まれなかった。

 婚約者として定められたが、結婚するまではアルバレス侯爵家の者で、一侯爵家のみ贔屓することはできないと、一定の距離を保っていた。

 そのうちに、ルシオの秀才さは陰り、ひたすらに教育されたミレイアの評判が良くなったため、二人の関係は離れていても冷えていった。


「なぁアンタ、今のままでいいのか?」


 それは素朴な疑問だったのだろう。けれど意外なほどミレイアの胸を抉る。


「……変えようがないのよ」


 四六時中行動を縛られているミレイアには、死を覚悟で家から逃亡することすらできない。

 一人きりになれる時間は、この昼休みくらいしかない。そのくせ、ルシオとも父侯爵とも会うことがない。

 だから彼らとの関係を改善することも無理に近かった。

 ルシオには手紙を送っていた時期もあったが、返事はほとんど事務的で、学院に入ってからは用があれば口頭で、と言われてしまったため送ることもなくなった。

 口頭で伝える用件などないため、実質没交渉だ。

 

 ミレイアの母は、自身も政略結婚で、第一子がミレイアで女児だったため、かなり義父母から責められたらしい。数年後ミレイアの弟であるエルナンを生んで立場を回復させたが、役目は果たしたとばかりに侯爵家が保有する別荘へと移住してしまった。

 義父母がうるさく、嫡男の教育に携われる見込みもなかったため、産後の体調が落ち着くとあっさり王都を後にした。

 ミレイアのことは嫡子の控えとしてしか見ていなかったらしい。

 幼かった頃に別れたきりの母の顔を、ミレイアはほとんど覚えていない。


 嫡男として育てられたエルナンは、姉とは別の教師がつき、違う指導を受けているため、ミレイアとは食事の時ぐらいしか顔を合わせない。

 同じ屋敷に住んでいてもそれぞれの生活で接点も少なかったため、お互い親しみはあまりなかった。


 父の侯爵は、貴族としての権謀術数に忙しい。


 つまりミレイアには、心を開ける血縁も、親しくできる友人もいない。

 将来の伴侶も冷え切った夫婦関係になることが明白で、ミレイアには逃げ場も救いもほとんどなかった。

 叱責、批判、非難を避けるために現状を維持しているに過ぎない。

 望みも喜びもほとんどない――唯一あるのは、いずれ母のように役目を果たしたと自由を得ることだけ。

 そんな生活を送っているミレイアにとって、ルシオ王子が恋人を作ろうと、二人が学院内では歌劇のようだともてはやされようが、どうでもよかったし、それで今の生活が変わるとも思えなかった。






「そう考えていた頃もあったわね……」


 ミレイアは、鏡に映った正装姿を見て自嘲した。


 今夜は王城で王家主催の夜会がある。

 エスコートしてくれる相手もなく、一人で登城しなければならない。

 鏡から見返してくるのは、いつも通りの毅然とした侯爵令嬢の姿。艶めく金の髪と青みがかった灰色の瞳。鮮やかなブルーのドレスは、華やかだが落ち着いたデザイン。

 メイクの時に少し顔色が悪かったのだろう、いつもより心なし多めに頬紅が刷かれていた。


 先程メイド達に聞かされた話は、ミレイアの心に嵐を起こしていた。まるで転覆前の船だ。ミレイアはその逃げ場のない船に乗っているのと変わりない。

 それなのに、自分は唯々諾々と事態が進むのに身を任せている。


 自嘲すらあざ笑うように、用意ができたと家令が声をかけてくる。取り乱すことはどうしてもできず、ミレイアは心の抵抗虚しく馬車へ乗り込んだ。


 ミレイアがその情報を得られたのは、使用人の悪意からだった。

 登城のためにメイクをし、髪を結い、ドレスを着せる、その作業をしながら、メイド達がミレイアに聞かせてくれた。

 一見大事にされていそうなミレイアは、その実あまり侯爵から大事にされていないと、長年勤めている使用人ほど知っている。義務的に働く古参の者達を見て、新参の使用人達はミレイアを軽視していた。

 だから、ミレイアがルシオに婚約破棄されると知って、それをわざわざ教えたのだ。

 どうあがいても使用人は使用人。なおざりにされているとはいえ高位貴族の令嬢にはかなわない。親にも愛されていないのに、自分よりよほど良い生活をしている。成り代わりたくはないが羨ましい。

 その屈折した感情から、鬱憤を晴らすようにミレイアへ冷笑を向ける機会を、屋敷の若いメイド達は楽しみとしていた。

 今までで最大のチャンスを、逃すわけがない。

 今夜以降、ミレイアがどうなるか分からないのだ。もしかしたら自分たちより酷い生活に落ちるかもしれない。それは溜飲を下げるのにちょうどいい。

 だから、侯爵とルシオの間で取り交わされた約束を、ミレイアがこの先どうなるかを、丁寧に教えた。


「殿下は、ご寵愛の方をアルバレス家の養女にされてから娶られるそうですよ。ミレイア様でなくても、アルバレス家と王家の繋がりは保たれるように、って」


 クスクスと笑うメイドは、ミレイアの髪を夜会用に結い上げていた。


「マリナ様ってミレイア様と違って、よくお笑いになる明るい方ですね。侯爵様も歓迎なさっていましたよ」


 感情のままに笑うことを禁じられているミレイアには、そこを比べられてもなんの痛痒にもならないのだが。

 メイド達はクスクスと笑う。


「すでに戸籍は移されたとか。アルバレス家の将来は安泰だと家令も喜んでいましたね」


 侯爵は、ミレイアがルシオの婚約者から外されるのを、黙って見ているわけがないと思っていたが。父親として娘を思う気持ちは欠片もなかったようだ。

 アルバレス家にとって一番良い形を選んだのだろう。王子寵愛の女性の養父となり、二人の後見となることで侯爵家の立場を固める。

 それにはミレイアは邪魔だから、排除する。


「殿下に見初められるなんて、まるで歌劇のようですよね」


 仕上げに髪飾りを差し込んでいくメイドは、夢見るようにうっとりしていた。

 そういえば学院でも、低位の貴族であればあるほどマリナを言祝いでいたな、と思い出す。

 メイド達の屈折した感情を読み取っても、仕事をしてくれるならそれでいいとミレイアは無言を貫く。

 元々多弁な方ではない。心理的距離もあって、これまでも支度中に会話はなかったから、何も答えずともメイド達は気にしなかった。


 彼女たちの話で、概ねこの後の流れが分かった。城に着くまでに心を落ち着け、その時に取り乱すことがないよう覚悟できると思えば、メイドの悪意も悪いばかりではない。


 大陸中央の国で発表された三文芝居は、富裕層向けの歌劇となってこの国へも流れてきた。それが〈庶民出のヒロインが領主に見初められ、意地悪なお妃様は離縁を突き付けられて領地から出される〉という内容だった。

 ルシオは、あの演劇になぞらえ、マリナをヒロインに、ルシオを領主に、そしてミレイアを意地悪なお妃様に見立てた筋書きを立てたらしい。

 当事者でなければオペレッタを見るような気持ちで貴族も庶民も事を見守るだろう。下世話な好奇心といくばくかの嘲笑を込めて。

 単なる婚約解消より、ドラマに仕立ててしまった方が大衆を味方につけられる。

 ルシオ王子がそう考えても不思議はない。

 それを王家主催の夜会で、披露してみせる。珍しい物、刺激的なものが好きな貴族は多いため、根回しが完全に済んでいるのなら、いい見世物となるに違いなかった。

 ただ一人、貶められるミレイアの気持ちを置き去りにして。


 学院在学中になにか手を打っておけばよかったのだろうか。

 だがあの頃は、まさかルシオが婚約破棄を考えるとは思ってもみなかったのだ。マリナは側妃に据えるのだろうと、自分の将来が変わるとは欠片も考えていなかった。

 卒業後、マリナが殿下の指示でミレイアを指導していた者達から教えを受けているとは聞いていたが、側妃になるための学びだと疑ってもみなかった。


 ミレイアの油断だといえばそれまでだが、もともと興味のなかった相手で警戒もしておらず――警戒していたところで、どんな対処ができたというのだろう。

 ルシオの望む方向に進められて、侯爵が同意をしたならば、ミレイアにできることはなにもない。


 だからこうして、見世物にされるのが分かっているのに正装して夜会へと向かっている。


 ミレイアにできることは少なかった。そもそも自由にできることなど極わずかだ。それなのに、よく羨ましいと言われた。

 あのような素敵な方と結婚できるなんて。侯爵令嬢として不動の地位にいらっしゃる。なに不自由ない生活をされているのでしょう。将来はお妃様ですものね。

 ルシオは、地位だけ見れば確かに素敵な人だろう。王族なのだから、嫁ぐのに最上の相手。

 だがそれ以外は、羨まれるものではないと思う。雁字搦めの生き方でカトラリーの上げ下げひとつとっても注文をされるような毎日は、友人の一人すら作れない立場は、泣き言ひとつこぼせない生活は、はたして幸せなのだろうか。

 気ままに歩いたことも、心のままに笑ったり泣いたりしたことも、ない。

 動くお人形を作っているようなものだな、と感じてから、それまで以上に何事にも無頓着となった。

 好奇心を、興味を持つだけ苦しみが増すから、無関心でいるよう心がける。

 だからこそルシオが誰を寵しようと気にもかけなかったのだが。


「そこまでの無関心を貫いたのは、失敗だったわね……」


 言葉は漏れたものの、表情は変わらない。


 そんな時だった。


 馬車が橋にさしかかった瞬間。

 ドンッという大きな音がしてから、唐突に馬車の扉が開いた。


「よぉ、生きてっか」


 走行中の馬車だというのに、まるで止まっているかのごとく、マントを被った男が乗り込んでくる。

 あまりの事態にミレイアは目を瞠った。

 淑女として鍛えられた顔面は、目を大きく見開くだけでほとんど崩れず済んだが、驚きまでは隠せない。

 そんなミレイアの気持ちなど見通した上で、男はニッと笑った。


「久しぶりだな」


 その言葉と声に正体を悟って、ミレイアは再び驚いた。この男は。


「悪いがアルバレス侯爵家令嬢ミレイアには死んでもらうぜ」


 そうきたか。

 そう思ったが、確かにそれ以外に手はない。

 一瞬で覚悟を決めたミレイアは、了承するように頷いた。


「どうしたらいいのかしら?」

「とりあえず移動する」

「ドレスは?」

「あとでだ」


 卒業以来数年ぶりに顔を合わせたというのに、二人は挨拶も省く。今は時間がないと分かっているのだ。


「こっちの準備は終えたぜ」

「おう」


 いつの間にか馬車は止まっていた。

 ちょうど橋の真ん中、川は夜の闇色にたゆたっている。

 外からかかった声に男――アルベルトは答えて、ミレイアの腰を掴む。少し強引な、大きな手のひらにドキリとする。


「俺たちは跳ぶから、後は予定通りに」

「わかった」

「後でな」


 外にいた二人の男は仲間なのだろう。顔を隠す布まで含め黒一色の出で立ちだった。

 御者はどうしたのかと見れば、我先にと逃げ出したらしい。後ろ姿すら既にない。

 今の侯爵家家人からすると、ミレイアには命がけで助ける価値がない。王子様に捨てられる予定の令嬢だ。修道院に押し込められるか、なにがしかの罪を被せられて終身刑に処されるか。よくて下級貴族に嫁として下げ渡される存在。

 助けてもたいして恩返しが期待できない相手なのに、危険をおかして助けるわけがなかった。

 アルベルトの計画でも、御者は目撃者として逃す予定だったのだろう。後を追う気配もない。

 だがそんなことに気を取られている場合ではなかった。


「跳ぶぞ」

「え?」


 アルベルトに抱え上げられ、何事かと思った刹那、ぐんっと身体に負荷がかかる。視界は一気に夜の空で埋め尽くされた。


「ちょっ……」

「黙ってろ、舌を噛むぞ」


 アルベルトの忠告が耳に入るか入らないかのうちに、また別の浮遊感がミレイアを襲う。いや、浮遊感ではない。落下している。

 軽い着地音の後、再び上からの負荷がかかった。

 跳んでいる。

 アルベルトはミレイアを抱えたまま、魔法で底上げしてかなりの長距離を跳躍していた。しかも、建物の屋根の上を。それを幾度も繰り返す。

 あっという間に橋は遠ざかったが――慣れない動きと身体にかかる負担から、ミレイアは早々に気を失った。






 ぼんやりとした頭で、見知らぬ天井を見上げる。

 いや、天井と思ったのは、天蓋だったらしい。ベッドの周りを覆うはずの薄布は、今は畳まれて飾り紐でまとめられていた。

 陽の光が窓から入り込み、部屋を明るくしている。

 ぼうっとしたままゆっくり瞬きをしていたら、ひょい、と見知った顔が現れた。ブルネットの髪が顔の脇で揺れ、鮮やかなブルーの瞳がミレイアを覗き込む。


「お、目ぇ覚めたか」


 はっきりしない頭でミレイアは男の顔を見返した。

 ぱち、ぱち、と数度瞬きをしたところで、ようやくあったことを思い出す。

 王城へ向かう馬車を襲撃されたのだ。


「悪かったな。あの揺れ、慣れないヤツにはかなり負担だってこと忘れてたわ」


 全然悪いと思っていなさそうな表情で、アルベルトは笑う。飄々とした雰囲気は相変わらずだ。

 跳躍の上下運動に酔って気を失ったのは確かなので、なんとも答えようがない。

 首を振るとまた目眩を起こしそうで、ミレイアは静かに頷くにとどめた。


「ここは?」


 ミレイアはゆっくりと身を起こす。

 目に映った室内は、大店を抱える商人か、有力な下位貴族の居室のようなしつらえだった。

 家具などが統一された雰囲気の、すっきりした部屋だ。


「俺が持ってる屋敷。気兼ねしなくていいから、自由に過ごしてくれ。なんかあったら俺か、あそこにいるバネッサに言ってくれ」


 示された方へ視線をやれば、メイド服に身を包んだ女性が静かに頭を下げる。

 アルバレス家のメイドとはかなりたたずまいが違う。なんというか、隙がない、武人のような雰囲気。王城へ上がったときに会った、王妃の部屋に控えていた女性騎士を彷彿とさせた。

 二人の邪魔をしないようにだろう、黙したまま壁際に立っている。


「何か食うか?」


 外は明るい。一晩経って、今はお昼近くだろうか。

 確かに空腹を感じたので、ミレイアは頷いた。


「動けそうか?」

「え? ええ」


 お腹が空いているだけで、他は問題なさそうだ。


「なら食堂で待ってる」


 アルベルトはひらりと手を振ると、部屋を出て行った。

 バネッサがすっと動いて、クローゼットからミレイアが着慣れた雰囲気のワンピースを出してくる。

 彼女の手を借りて着たそれは、意外なほどミレイアにぴったりなサイズだった。




 バネッサの案内で一階の食堂へ赴くと、アルベルトは座っており、既に昼餐の支度が調えられていた。


「聞きたいことが色々とあるのだけれど」

「ああ。でもまずは食事にしようぜ?」


 ここが何処なのか、あれからどうなったのか。知りたいことは山ほどある。この屋敷がアルベルトの所有とは聞いたが、それ以外何も分からない状態。

 しかし空腹には勝てない。

 目覚めたばかりで、頭を回転させるにも栄養が足りない。

 ミレイアは大人しく食事に専念することにした。

 さいわい、彼女の口に合うよう配慮した料理を出してくれたらしい。そして何故か、消化が良いものばかり。

 十分に味わって、ミレイアは食事を終えた。

 その間にアルベルトは、ミレイアの倍は食べている。腹持ちの良い料理も何品か、ミレイアとは別に出されていた。


「さて。なにから話そうか」


 アルベルトに促されて、二人はダイニングルームからシッティングルームへ移動していた。

 座り心地の良いソファに身を沈めたミレイアは、バネッサが出してくれたお茶に口を付ける。香り高いお茶は、これもミレイアに馴染みあるものだった。

 アルベルトはミレイアがリラックスできるよう、色々と心配りをしてくれたらしい。

 腹も満ちて身体も落ち着き、お茶の香りで気持ちも落ち着いた。

 確認したいことはたくさんある。ひとつずつ疑問を解消していこう。


「そうね、まずは……。私は、貴方に助けられた、と考えていいのかしら?」


 侯爵家からは、王家からは、一時自由になった。だがこの現状はいつまで続けられるのか。


「そうだな。わざわざ掠ってきたもんを、返すつもりはねぇ」


 アルベルトとしては、ミレイアをアルバレス家へ戻す気はないらしい。


「そう。……ありがとう」


 どうにも抜け出せない生活から、やっと抜け出せた。まだ実感は湧かないものの、喜びはひたひたと僅かずつ胸に満ちてくる。

 震えそうになる唇を押さえながら、ミレイアはなんとか礼を述べる。


 アルベルトが馬車に飛び込んできて「アルバレス侯爵家令嬢ミレイアには死んでもらう」と言ったとき、彼が何を企んでいるのかはすぐに分かった。

 逃げられるなら逃げたい、そう考えていたこともあり、藁をも掴む思いで縋ってしまった。

 それが正しかったのかどうか分からないが、アルベルトの手を選んだ以上、もうどうしようもない。そしてこちらを選んだことを、ミレイアは決して後悔しないだろう。


「あれからどうなったのか、分かる範囲でいいから教えてくれる?」


 馬車から掠われてきたはいいが、現状はどうなっているのか。あやふやな立場で、先行きは不透明。事の次第を確認しないことには、今後を決めることもできない。


「そうだな。はじめっから説明するか」


 何故か対面ではなく隣に座っているアルベルトは、少し冷めたお茶を口に含む。筋道を考えるように腕を組んで顎を一撫でしてから、ゆっくりと話し始めた。


 学院卒業後も、図書館でできた友人のその後は、気にかかっていたこと。

 元から情報収集は、仕事にも生かせるため広くしていたこと。

 ルシオ王子の寵を得ていた令嬢が、より高みを目指す手段を取ることにしたと情報が入ったこと。

 唆されたルシオ王子と保身に走った侯爵が、ミレイアを切り捨てると確定したこと。 

 ミレイアの身柄さえ押さえてしまえば、どうにでも対処できると考えたこと。

 ミレイアを迎えるために屋敷内を整えたこと。

 友人達に協力を依頼して、襲撃の段取りをつけたこと。

 そうして馬車襲撃を実行したこと。


「捨てるなら俺が拾ったっていいだろ?」

 

 アルベルトはあっさりとのたまった。


「ええ……?」


 確かに、捨てられた物は拾っていいかもしれない。けれど捨てる予定の、まだ捨てていない物を襲撃して奪うのは、果たして〈拾う〉といえるのだろうか。

 拾われたミレイアとしては感謝しかないが、そういえばアルベルトはこんな性格だった、と数年ぶりに接して思い出す。


「あの後馬車は仲間で橋の下に落としたんだ。馬は放ってきたから、賢ければ家に戻ったかもな。誰かに捕まって売られてる可能性も高いけど」


 売った者がいれば、アルベルト達の目眩ましになる。関係のない者が間に挟まれば、たとえミレイアを探したとしても捜索は混乱する。


「城下で借りてた部屋で、着てたドレスを脱がせて――あ、バネッサがな? それに豚の血をつけて破って、川の下流に引っかかったよう細工しといたから」


 城下を通ってから海へ向かう大河に流れ込む川は、下町もスラムも通過する。

 街を守る兵卒も努力はしているが、どうしても川へ入り、溺れる者は一定数いた。中には服が脱げた状態で見つかる者もあるだろう。


「逃げた御者もいるし、馬車は破壊されて、馬は売られて、血のついた破れたドレスが見つかれば――まぁ、私は死んだと思われるでしょうね」


 疑われたとしても、本人が見つからなければ済む。数年経てば、戸籍上死亡とされるはずだ。

 婚約破棄はまだだったから、アルバレス家と敵対する勢力がミレイアを廃して王子妃の座を狙った、とミスリードできたのも大きい。

 ミレイアが外部と連絡をとっていた形跡は一切ないため、これがミレイアの企みだと疑われることも絶対にない。アルベルトが事前にミレイアへコンタクトを取らなかったのは、それも計算の内だったのだろう。


「そういえば、ここはどこなの?」


 部屋の窓から見えた景色には、山があった。ミレイアが見知った景色とはかなり違う。


「ん? 言ってなかったか。アルカンタルだ」

「……アルカンタル?」


 隣国第三の都市ではないか。アルカラ山脈をのぞむその地は、活気溢れるリバデネイラ王国の名所でもある。

 貴重な魔鉱石の鉱脈があるほか、山中にしか生息しない豊かな動植物は恵みをもたらしてくれる。反面、山の奥は魔獣の住処でもあり、人が分け入るにはそれを討伐する必要もある。

 あらゆる種類の採取人達、研究者、商人、狩人達、彼らの生活を支える街の人々、それを守る兵士に騎士。多種多様な人が集まり形成している都市がアルカンタルだ。

 まさか国外に出ていたとは考えもしなかったミレイアは、唖然とした。

 ジョベラス王国内にしては景色が違うとは思ったが――。


「ちょっと待って? 私が気を失ってから一体何日経っているの?」


 アルカンタルは、ジョベラスの王城から一日で来られる場所ではない。普通なら十日はかかる距離だ。

 馬車の襲撃は昨夜のことだと思っていたが、まさか。

 アルベルトを凝視すれば。


「ああ、あれから一週間だな」


 あっけらかんと笑った。


「一週間……一週間?!」

「ああ。思った以上に長く寝てるから、ちょっと心配したぜ」


 困ったように眉尻を下げる。そんな馬鹿な、と控えていたバネッサを見れば、彼女は静かに頷いた。


「よほどお疲れだったのでしょう」


 疲れていたのは確かだが、気絶から一週間も目覚めないわけがない。


「私は、貴方の跳躍に耐えられなくて気絶したんじゃなかったの!?」

「ああ、気絶したのはその時だけど、そのままちょっと寝ててもらった」

「寝ててって」

「大丈夫、身体に負担がかかる方法はとってねぇから」


 それはありがたいが、本人の意思を無視して眠らせたり、移動させたのはいかがなものか。ミレイアはそう思ったが、今更注文もつけられない。

 ひとつ嘆息するだけで諦めて、首を振った。

 ともかく一週間も経っているのだ、生家はどうなっているのか。目論見が外れたルシオはどうしたのか。

 そこら辺の情報がほしい。

 隣国ならばそうそう見つかるまいが、もっと逃げるべきなのかここで様子見ができるのかで、今後の行動が変わってくる。


 ミレイアは多くの魔力を有しているが、魔法を行使したことはない。

 高位貴族の令嬢は強い魔力を持っていたとしても、訓練を施されないのだ。使う場面もなく、働くのははしたないこととされているため、数年に一度、ただ保有量を確認されるだけ。

 強い魔力を持っていて喜ばれるのは、単に産み腹として魔力の強い男子を得られるからに過ぎない。

 だから、またここから離れて逃げるにしても、魔法を使ってというわけにはいかない。馬にはかろうじて乗れるが、雨天を考えれば元深窓の令嬢には厳しいだろう。馬車で動くしかないと考えれば、早めに準備をしなければならない。

 そしてふと思う。自分は、アルベルトの正体を知らない。


「あのね。貴方、学院では平民のふりをしていたけど、本当は違うでしょう? 本来の姿を教えてもらえる?」


 おずおずと尋ねれば、アルベルトは一瞬驚いたようだった。

 今まで普通に会話をしていたが、素性を隠したままの男によくミレイアは警戒しなかったものだ、とでも思ったのだろう。


「悪い、言ってなかったか。俺は、このアルカンタルの前領主の末息子だ。つっても後妻の子で、兄上が領主を継ぐか継がないかの頃に生まれてるから、かなり自由に育てられた」

「領主のご子息だったのね……」


 今は討伐もできる採取人として活動しているらしい。

 領主家からの依頼もあれば、他家からの依頼もあり、魔獣が増えすぎた時は討伐メインで働くため、兵士や騎士とも昵懇だとか。普段一緒に活動している仲間が、馬車襲撃の手伝いをしてくれたという。

 単なる貴族とも思えず、平民とも見えなかったのは、そんな生い立ちだったかららしい。

 隣国の学院へ留学したのは、貴族の子弟として通うのがいやで、身許を隠せたからだという。自由奔放に過ごすには、自国は都合が悪かったのだ。


 明かされた身の上に驚きはしたが、同時に納得もした。

 そういった身許なら、アルカンタルへ連れてこられたのも理解できる。


「ジョベラスは――ルシオと父は、今どうしているか分かる?」

「ああ。さっき、向こうからの知らせがあった。事後処理は終わったみたいだけど、今後どうするかの方で忙しいみたいで、ミレイアを探す動きはないみたいだぜ」


 ミレイアとの婚約を公然と破棄することができなかったものの、本人死亡なら次の手を打たなければならない。襲撃から行方不明と広く知られているのなら、探して連れ戻すより葬式をあげて悲劇に見舞われた侯爵家を演じる方が、利は大きい。

 すでにマリナが養女となっているのなら、そのままミレイアの後を継ぐ、という筋書きに変えた方が通りはいいだろう。どれだけの貴族が騙された振りで見過ごしてくれるかは不明だが。

 ルシオも侯爵もこうなっては盤石ではない。ミレイアに拘泥するゆとりはなさそうだ。

 ひとまず追っ手の心配が消えて、ミレイアはほっとした。


「ありがとう……何から何まで」


 あの状況から救い出してくれたことも、こうして安心できる場所を提供してくれることも、生家の情報も。全部、アルベルトがいなければ、成り立たなかった。

 どんな意図で動いてくれたのかわからないが、ミレイアには感謝の気持ちしかない。


「私に何か返せるものがあるのなら、なんでもするわ。この恩は絶対忘れない」

「……うん」


 ミレイアの真摯な瞳に照れたように、アルベルトはいつもと違う答え方をして、小さく頷いた。


「聞いてもいい?」

「なんだ?」

「どうして私を助けてくれたの?」


 友人だから気にかけていた、とは先刻聞いた。だがここまでするのは単なる友情とは思えない。だが裏に打算があるとも思えないのだ。


「そうだな……アンタが、ずっとひとりぼっちだったのを知ってたからかな」

「え?」

「侯爵令嬢で、王子様の婚約者で、取り巻きもたくさんいて、贅沢なものに囲まれて生きてた。でも、図書館で会うアンタはずっと寂しそうだった」

「…………」


 確かにミレイアには、家族すら疎遠で、親しい相手は一人もいなかった。

 もしかしたら素で対応できたのは、誰も来ない図書館奥で会う、利害関係のないアルベルトだけだったかもしれない。

 だがそれをアルベルトが知っているとは思わなかった。


「私は、誰もが羨む存在なのだとよく言われたわ。上等な服を着て、高級なものを食べて、人々に傅かれて、裕福な暮らしをしていたのに?」


 ミレイアは苦笑する。実際に羨ましいと言われたことも多い。

 それなのにアルベルトは僅かに頭を振ってから、ミレイアを覗くように首を傾げる。


「でもアンタは、心がひもじい思いをしてただろ」


 その言葉がどれほど胸に刺さったか。

 ミレイアは呆然としたまま、ほろ、ほろ、と涙をこぼす。


 今まで意識しないようにしていた。人より恵まれた環境におかれて、幸せであるはずだと決めつけられて。餓えていたのは心だったと、ずっと目を瞑ってきたのに突き付けられて、今更ながら痛感する。


「あー、悪い、泣かせるつもりはなかった」


 アルベルトは焦った様子も悔いた様子も見せず、だがちょっぴり肩を落とす。

 気まずそうに頭をかく姿に、ミレイアは涙をこぼしたまま笑ってしまった。


「ふふ。私も泣くつもりはなかったわ」


 こうして泣けるのも、笑えるのも、自由になったから。感情のままに表情を変えられるのは、なんと開放的なのだろう。

 細やかだけれど大事なこと。幸せだ、とミレイアは初めて感じた。


「ありがとう……。ずっと、ずっと、私は寂しかったのね」


 何事にも無関心でいるよう無感動でいるよう、務めていた立場からは解放されたのだ。

 これからは自由になんでもできる。

 だが自由というのは責任が伴うし、思うままにできる分、指針もない。

 アルベルトの言葉に慰められたものの、ミレイアは早急に今後を決めなければならなかった。

 経済的に自立できなければ、結局誰かに依存するような生き方となってしまう。

 生家では縛られていたため自活の行動すらとれなかったが、ここでは職業だって自由に選べる。深窓の令嬢だったミレイアに何ができるかは不明だが、働かなければ糊口を凌げない。

 いつまでもアルベルトの厚意に甘えるわけにはいかないだろう。


「ねぇアルベルト。私でもお勤めできる先ってあるかしら? 住み込みだとありがたいわ」

「勤め先? いきなりか?」


 逃げてきたばかりなのに、とアルベルトは少し呆れたようだった。

 さっきまで眠りっぱなしだった身で、カトラリーより重いものを持ったことがない身で、いきなり挑戦するのは無謀だろうか。


「それはそうなのだけれど。いつまでもここにいたら迷惑でしょう?」


 追っ手の心配こそないが、何ができるかもわからないミレイアは、完全にお荷物だ。


「迷惑に思うくらいなら、拐いにいったりしない」

「それは……」


 顔を顰めて零したアルベルトに、ミレイアは否定の言葉を見つけられない。

 アルベルトは、連れてこられたミレイアが過ごしやすいようにと、服もお茶も他の細かなことも、色々と用意してくれた。

 それを思えば、すぐさま出ていこうとする姿勢は、せっかくの心配りを無下にするものだろう。


「でも、私は厄介者でしょう? 仕事だって、きちんとできるのかわからないわ」


 困ったようにミレイアは俯く。

 今まで身につけてきた教養は、どれだけ役に立つのか不明で。料理も掃除もしたことはないし、メイドの仕事すらこなせる自信はない。

 そんなミレイアを励ますように、アルベルトはミレイアの頭をぽんぽんと叩くように撫でた。


「それなら、アンタにおあつらえ向きの仕事がある」

「え?」

「この街では、魔鉱石を使った大型の道具がよくある。特に街の守りと、魔獣の討伐に使う武器は、大きめの魔鉱石を使うんだが、魔力の減りも早いのが難点でな」

「魔鉱石?」


 侯爵家でも魔鉱石を使った道具はよく利用されていた。魔力が少なくても、なくても使える道具。組み込まれた魔鉱石を見たことはあるが、どれもそれほど大きくない石だったように思う。

 魔鉱石に溜め込まれた魔力を使い切ったら、誰かが魔力を充填する。充填も働くことの一環だったので、ミレイアはやったことがない。


「アンタ、魔力量が豊富なんだろ? 大きな魔鉱石でも充填できるよな?」


 死活問題のため、保有量以上を吸い取る魔鉱石へは充填することができない。小ぶりなもの、中くらいの魔鉱石なら充填できる人間はそこそこいるのだが、大きな石に入れられる人間がほとんどいないのだという。


「やってみないとなんとも言えないわ。でも、かなり多いと言われていたから、多分、できるんじゃないかしら?」


 魔力をほとんど動かした経験のないミレイアだが、屋敷で使用人が充填している姿を見たことがある。あれならできると思うし、魔力量次第なら、実際の石を手に取ってみないと判断できない。


「魔鉱石に充填する仕事をしながら、ここで暮らしていけばいいんじゃないかと思ってたんだよ」


 アルベルトは、連れてきた後のことまでしっかり考えてくれていたらしい。


「他にできる仕事を探したいってんなら、充填の仕事をしながら探せばいいだろ?」


 ミレイアが出ていく前提で話すのが不満だったのだろう。少し不貞腐れながら、肩を竦める。

 一方でミレイアは、あっという間に拓けた展望に驚きながらも笑顔となった。


「私にもできることがあるのね」


 全てお膳立てされたものだが、元々侯爵家と王家の敷いた道を歩かされていた身のため、抵抗感はない。

 ここまできたら、アルベルトのアドバイスに従うのが一番に思えた。


「仕事は、それでいいか?」

「ええ。やってみないとわからないけれど、やってみたいわ」

「なら、仕事は解決だな?」

「そうね」

「あとは、住処だが……」


 アルベルトは言い渋る。

 アルベルトには伝手も多い様子だから、ミレイアが住む家だって紹介できるだろう。だが。


「俺さぁ、アンタが一緒に住むと思って、色々用意したんだよ。色々」

「ええ。この服も、ぴったりだったわ。ありがとう」


 レディメイドのようだが、身長や見た目の身幅から選んでくれたらしい。バネッサがクローゼットから出してきた時には驚いたけれど、着替えがあるのは助かった。


「だからさ、もし、アンタが俺を嫌いじゃないなら、」

「嫌いだと思ったことは一度もないわ!」


 ミレイアは慌てて被せるように否定する。

 先程から、闊達なはずのアルベルトが奥歯に物が挟まったような物言いだったのは、ミレイアがアルベルトを嫌っている可能性を疑っていたからだったのか。

 危うく恩を仇で返すところだった。ミレイアは焦ったが、彼女の言葉にアルベルトはホッとしたような表情になる。


「なら、ここで一緒に暮らそうぜ? 仲間もしょっちゅう顔を出す。賑やかなのはアンタには合わないかもしれないが」

「ううん。寂しいよりよっぽどいいわ。――私がいても、いいのなら」


 さっきアルベルトが言ったように、ミレイアは寂しかったのだ。だから、ミレイアがはじき出されないのなら、仲間に入れてもらえるのなら、賑やかな方がきっと嬉しい。

 いてもいいと許されるなら、きっとずっと楽しい生活となる。


「いつまでだっていていい。いや、いてくれ」


 ひたむきな眼差しでミレイアを見つめるアルベルトは、希うようにミレイアの手を取った。考慮した力加減で、ぎゅっと白魚のような手を握る。

 そこに乗せられた想いを感じ取って、ミレイアは静かに頷いた。


 婚約者と父に裏切られたばかりのミレイアには、まだ誰かと真摯な感情を交わすことはできない。自分自身も、相手も、今は信じることができそうにない。

 それをわかっているのだろう、アルベルトは気持ちを押し付けようとはしない。ミレイアを想う気持ちを、それがどういった感情なのかを、明かさない。


 行動でほのめかしても、言葉にはしなかった。


 まだその時期ではないと一線を引いてくれる、それがミレイアには安心できて、ありがたかった。

 アルベルトがどうして隣国からわざわざ情報を集めて、タイミングよくミレイアを掠ってくれたのか。

 その理由がなんとなくわかってしまって、ミレイアは頬が熱くならないよう必死に堪える。こういう時だけは、施された淑女教育に感謝だ。


 ギリギリ友情と言い張れる行為しかしてこないアルベルトに、ミレイアが絆されるのはそう先の話ではない気がする。


「お世話に、なります」


 ここにいていいと確証を得て、ミレイアは改めて言葉にする。


「ああ。俺とこの屋敷は、アンタを歓迎する。よろしくな!」


 アルベルトの明るい声が部屋に響いて、ミレイアの今後は決定した。






 やがて、ミレイアが力を込めすぎて魔鉱石を割ったり、入れなすぎてひっきりなしに充填する羽目になったり、アルカンタル最大の魔鉱石にも充填できると判明してちょっとした騒ぎになった日々を経た後。

 安定して魔鉱石へと充填をこなしていたミレイアの元へ、アルベルトの仲間がジョベラスの情報を伝えてくれた。


 彼はジョベラスの城下に商人として店を構えているらしい。貴族の三男坊だったという彼は魔力もそこそこあって、ミレイアの馬車襲撃の前も後も、協力してくれている。

 仕事でアルカンタルへ訪れた折には、アルベルトの屋敷へ必ず寄ってくれる。その彼から、魔法による速達が届いたのだった。

 その手紙曰く。


 ジョベラスの王太子は、第二王子に決まったとのこと。

 ルシオは弟に負けたのだ。


 そもそも第一王子の立場は、アルバレス侯爵家が後見となることで保たれていた。第二王子は婚約者が決まっていなかったためルシオが優位に立っているよう見えたが、公爵令嬢が婚約者に決まったため、かなり苦しくなった。

 更に優秀だったミレイアを退け下位貴族の娘――しかも妃教育は全く上手くいかなかったらしい――を婚約者に据えたため、血統を重んじる古典派の貴族達の気持ちが離れた。


 支持者を減らして王太子の座が危うくなったあたりで、なんと、マリナが第二王子へ粉をかけたらしい。アルベルトがいつか言っていた毒気とはこれか、と納得した。自分の置かれた状況は理解していたようだから、単なる尻軽とは言えない。

 ルシオの将来に不安を感じたのか、最上の位を求めた故か。判然としないが、侯爵令嬢として自由に登城していたのが仇となり、第二王子の侮蔑と彼の婚約者の怒りを買った。

 そしてルシオは残念なことに、その事態を上手く収められなかったようだ。


 為政者としての能力を疑われたルシオは、その後も第二王子に水をあけられ、結果、臣籍降下が決定したという。


 アルバレス侯爵家はといえば。

 家門に泥を塗ったとして、養女に迎えたマリナを離籍させたが、時流を見てほいほい態度を変える姿に、他の貴族家からの信用は失われていった。

 ミレイアを亡くした直後も悲嘆の様子はなくマリナを連れて登城していたことから、ミレイアの死も実はアルバレス侯爵とルシオの企みだったのでは、と疑われたらしい。


 緩やかにではあるが、侯爵家との繋がりを絶つ方向に進む他家が多いため、遠くないうちにアルバレス侯爵家は没落するだろう、と推察されていた。


 家族との交流がほとんどなかったミレイアには、生家がどうなろうと気にならない。

 令嬢として裕福な暮らしをしていた時に、果たすべき義務――ノブレス・オブリージュはきちんと果たしていた。侯爵家の恩恵を受けなくなった今は返す義務も義理もないのだ。

 母は自身の持つ資産で変わらず別荘暮らしをするだろうし、弟は家を継いだら自身の能力で、維持するも復権を目指すも自由にするだろう。

 ミレイアを切り捨てた父は、因果応報だろうと思うだけだ。

 それはルシオも同じ。


 受け取った手紙を静かにたたんで、ミレイアは自室の引き出しにしまった。


 ミレイアは自分の手で居場所を作り上げた。

 元はアルベルトが用意してくれた地盤だったが、その後努力して、アルベルトの仲間や街の皆に受け入れられたのは、ミレイアの働きがあってこそだ。

 アルカンタルに、アルベルトのとなりに、幸せに暮らせる居場所が今のミレイアにはある。

 ジョベラスでのことは全て終わったことだと、もうはっきり言える。




 今日はアルベルトが、早く帰ってくると言っていた。話があるそうだ。

 その話の内容はきっと、ミレイアが想像しているとおりだろう。

 数日前にアルベルトが嬉しそうに宝飾店から出てきたと、彼の仕事仲間からこっそり教えられている。

 だから今日は、アルベルトが褒めてくれたワンピースを着た。自分の初任給で買った、アルベルトの瞳の色の、鮮やかなブルーのワンピースを。


 同じ青色だが、もう二度と、王城へ向かっていたときのようなドレスを着ることはないだろう。

 そしてそれが、ミレイアの幸せだ。


 アルベルトの助力と自分の力で掴んだ幸せを、ミレイアはぎゅっと噛み締める。


「早く帰ってこないかしら」


 アルベルトの帰りが待ち遠しかった。








お読みいただきありがとうございました。

少しでもお楽しみいただけたら嬉しいです。

ブックマーク、☆評価、ありがとうございます! 励みになります。

※今後書く作品と混同しそうだったため、タイトルを変更しました(2022.4.11)


追記:

4/13,14 総合日間ランキング1位、ジャンル別日間ランキング異世界〔恋愛〕1位

にランクインさせていただきました。

☆評価、ブックマークをしてくださった皆様、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
>ミレイア個人が望まれたわけでもない。求められたのは、高位貴族らしい魔力量を内包する、その正しい血筋のみ。 >「殿下は、ご寵愛の方をアルバレス家の養女にされてから娶られるそうですよ。ミレイア様でなく…
これ、第二王子からすりゃ権威付けと意趣返し的な意味で 婚約という契約を身勝手で破棄するために、実の親と手を組んで殺すルシオを 王国の信義を取り戻すために第二王子と公爵令嬢が真実の愛で追い落とすって 歌…
お話の展開、ゆるやかに変化していくであろう二人の関係、さもありなんという因果応報、それらがとても読みやすくまとまっており、楽しく拝読いたしました。素敵なお話をありがとうございました。
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