第六十話 非常事態 その8
森が、ざわついていた。
南の森も東の森も植生はたいして変わらない。元々同じ森なのだから当然だろう。
ただ、東の森よりも圧倒的に大きくて強い魔物が跋扈する南の森は東の森より木々がまばらだったり、木々をなぎ倒してできた大きな獣道が幾つもあったりするそうだ。
まあ、それは森の奥の方の話で、森の浅い部分は東の森も南の森も大差ない。
けれども、ぼくたちは今、大きな獣道ができる瞬間を目撃しているのかもしれない。
森の木々が揺れていた。
たまに折れたか倒れたかして見えなくなる木もある。
小さな苗木じゃないよ、森の外からも見える大木がだよ!
それがだんだんとこちらに近付いてくる。
大きな魔物が近付いてきている証拠だ。
間違いなくとドラゴンだろう。
これでドラゴンじゃなかったらその方が驚きだよ!
大きくて強い魔物が、森の木々を押しのけて真直ぐこちらにやって来る。
このままならば、間もなく森を出て来る。おっさんの予想ドンピシャだ。
つまり戦闘は不可避!
そんでもって、ここで撃退できないとリントに向かってしまう。
今からUターンしてくれない?
――バキバキバキ!
木々をなぎ倒してそいつは森から頭を出した。
分かってはいたけれど。
本当に来ちゃったよ~!
「今だ! 攻撃開始!」
魔物が体を半分ほど森から出したところで、予定通りおっさんが攻撃開始を指示した。
先に丘の下に降りていたルークさん達が魔物に向かって走り出した。
その魔物――やはりドラゴンだった。
……でっかいトカゲじゃん!
地竜は翼を持たないドラゴンと聞いていたけど、東洋風の竜とも、西洋風のドラゴンとも印象が違った。
地面を這いつくばるように進むその姿は、トカゲをそのまま大きくしたようだった。ちょっとごついけど。
思ったのとなんか違うー!
でもその脅威は本物だよ。
とにかくでかい。尻尾の先まで十メートル以上あるんじゃないかな。
それに力も強い。大木をなぎ倒しながら進んで来た力は侮れない。
「おりゃぁー!」
気合一閃、走り込んだルークさんが剣で打ち込む。久々に見るルークさんの本気の一撃だ。
さすがにドラゴンの正面は避け、向かって右側をすれ違いざまに斬り付けるようにして打ち込む!
――ガキン!
ドラゴンの体に届く前に剣が弾かれた!
けれどもそれは想定内。無造作に振るわれたドラゴンの前足の爪をルークさんは余裕で避けて距離を取った。
どうやらドラゴンの気を引くことには成功したらしい。ルークさんや後に続く冒険者を鬱陶しそうに振り払っている。
魔力視で見てみると、ドラゴンの魔力防御の様子がよく分かる。
おっさんは防御膜と言っていたけれど、あれは鱗だ。
ドラゴンの体を覆う鱗の外側に、魔力でできた鱗がびっしりと生えている。
こんな方法があったのか。これなら同じ形の鱗を組み合わせるだけでどんな体型でも覆うことができる。
魔力の鱗の数が多いから制御が難しいし、動き難そうだけど。
ルークさんの斬撃で魔力の鱗が一枚弾き飛ばされたけど、鱗は重なり合っているからできた隙間は小さい。それにすぐに新しい魔力の鱗が作られた。
あれ? 魔力の鱗が作られる時に、ドラゴン本体の鱗に一瞬守護の魔法文字が浮かび上がったような……。
ぼくのセルフプロテクションと同じようなものかな?
鱗が自動的に魔力の鱗を作っているなら、まねをするのは難しそうだけど。
確かにあれでは剣で倒すのは難しそうだ。
ルークさん達は無理な攻撃はせず、足止めに徹しているみたいだ。
ルークさん達がドラゴンの足止めを始めると同時に、エリーザさんも大魔法の魔法術式を書き始めた。
これだよ! これが見たかったんだよ!
今回は間近で見るぞー!
と言っても、ぼくはエリーザさんの護衛だから、エリーザさんの前に立って防壁を三重に張っている。
ドラゴンから目を離すわけにはいかないから、背後のエリーザさんは見えない。
仕方が無いから、空間認識と魔力視でじっくりと見させてもらうよ。
やっぱりエリーザさんは凄い。
踊るように全身で魔法文字を書き連ねている。
それはとても速くて正確、そして奇麗だった。
徹底的に最適化された魔法術式には一切の無駄がない。
一見すると無駄に見える部分にも、魔法術式を書く手順を短くしていたり、威力向上と魔力消費低減を絶妙のバランスで両立させていたり、同じ魔法術式で汎用的に使うためだったりと様々な工夫が詰め込まれている。
一文字でも変えたら崩れてしまいそうな繊細な魔法術式が、エリーザさんの周囲に立体的に描かれて行く。
第一魔法文字は火。
その火を圧縮して密度と温度を上げて威力を増す。
ついでに少しばかりの追尾機能を付加。
そうしてできた高威力の炎を複製して複数まとめて打ち出す。
その数五百。両手の指パッチンで千。
それを広範囲にばらまけば、この前の暴走で使った広域殲滅魔法になる。
逆に一点に集中すれば炎を連続して当てる超高威力の攻撃魔法になる。今からやろうとしているのがこっちだ。
状況に応じて魔法術式を書き換えることはできないので、攻撃範囲とかはイメージで指定する。それを補助する術式も組み込まれていた。
ぼくは最初に見た時からこの魔法に魅せられていた。憧れの大魔法だ。
憶えている限りの魔法術式をノートに書き写してその意味を調べたりもした。
使えもしない魔法の勉強を今まで続けて来たのも、この大魔法を使ってみたかったからだ。
まだよく分からない部分もあるけど、いつかはこの魔法を使ってみたい。
指パッチンをどうにかマスターして!
エリーザさんの大魔法は凄いけど、発動までに一分近くかかる。それに魔力の消費も激しいから連発はできない。
大魔法は、基本一発勝負だ。
エリーザさんもこの一発で決めるつもりらしい。ぼくの背後では魔力が湯気の様の立ち上っている。魔力を高めて、魔法の威力を少しでも上げるつもりなのだろう。
魔法の威力は多少加減できるとしても、発動までの時間の方はどうにもならない。
エリーザさんが全身全霊を籠めて最高速で魔法文字を書いてこれだけの時間がかかるのだ。無理に急いでも書き損じて失敗するだけだろう。
逆に発動を遅らせることもできない。
魔法術式を書き始めてから一分が過ぎると、魔法文字が消えて魔法を発動できなくなる。
だから、ドラゴンが向かって来ていることが分かっても、予め魔法術式を書いておいてドラゴンが出てきたタイミングで放つわけにはいかなかったんだよね。
途中でドラゴンが一休みすると不発に終わっちゃうから。
不発に終わってもそれなりに体力と魔力を消耗するから、もう一度やり直しても成功率が下がってしまうのだそうだ。
替えの効かないエリーザさんの大魔法を優先したため、その分負担はルークさん達にかかった。
ドラゴンが姿を現してから一分間、ルークさん達はドラゴンをその場に足止めしなければならない。長い一分間だ。
エリーザさんの元に向かわせないことはもちろん、左右に逸れて戦場を離れても、ぼくたちを無視してリントの方へ向かっても、森の中に戻ってしまっても作戦は失敗になる。
大魔法が放たれた後にもドラゴンに止めを刺す仕事があるから、重傷を負ってもいけない。
結構難しい条件のはずだけど、そこは一流の冒険者、上手くドラゴンの注意を引き付けながらもしっかりと攻撃を避けている。
ただ、ドラゴンの方も本気で殺しに来ているようでもないみたいだ。
虫でも追い払うみたいに、攻撃して来た冒険者に爪を振るう。けれども離れて行った冒険者にはそれ以上深追いはしない。
ドラゴンともなると、他の魔物とは違うのだろうか?
まるで人間なんか眼中にないみたいだ。
ただ、何度も攻撃されてさすがに頭に来たのか、ドラゴンがいきなり頭を持ち上げた。
高い!
体躯が大きいからちょっと体を起こしただけで頭の位置が高くなる。さっきまで上から見下ろしていたのに、ドラゴンの頭が小さいとはいえ丘の上のぼくたちと同じ高さに来た。
この体勢からドラゴンが何をするかと言えば――
「ブレスだ! 避けろ!」
ルークさんの声に冒険者たちが走り出す!
ついでに丘の上に残っていたおっさんたちも下がる。ドラゴンがその気になれば丘の上にまでブレスが届くからだ。
でもぼくは下がれない。後ろのエリーザさんはまだ全身で魔法術式を書いている途中だ。
ここはぼくが踏ん張らなければならない! どうかブレスがこちらに来ませんように!
ドラゴンが口を開き、そこから炎がほとばしる!
これがドラゴンブレス!
何で炎なの!? 地竜なのに!
ブレスを放っている間はドラゴンもろくに身動きできないらしく、ルークさん達はきっちり避けきっている。
丘の上までは狙われていなかったようだけど、地面を焼いた炎の余波が丘を駆け上がってやって来る。
防壁で防ぐけど、これ余波だけでも結構ヤバいよ。ブレスも魔法扱いなのか、防壁の耐久力が削られる~。
直撃は受けたくないなぁ。
ブレスはすぐに止んだ。
ちょこまかと動くルークさん達に、遠距離攻撃のブレスは当たらないと判断したのかもしれない。
ドラゴンは再び頭を下げて、爪と牙による攻撃を始めた。
それをルークさん達は躱しまくる。
余裕で躱しているようにも見えるけど、掠っただけでも致命傷になりかねない強力な攻撃だ。一瞬も気が抜けないに違いない。
でもその苦労ももうすぐ報われる。
大魔法が今、
完成する!