初日
どれほどに文明が発展しようと、人間の感情とは始末に負えないようだ。
今日、ついに私は住む家を失った。この文面を公衆の目に晒す予定でいるが、【あの流行り病】が原因で、わたしは病院で看護師をしていると言えば――更に付け足すならば、勤務する病院で大規模なクラスターが発生したといえば、大体の経緯は御納得いただけるだろう。
後世にこんなものを読んでいる酔狂な人間がいるとすれば、『ああ、あの教科書に載っている流行り病か』となるはずだ。
下手に栄えた田舎であるだけに、わたしが〝あの病院で働く看護師だ〟と特定されるのは簡単だった。それから地獄の日々だった。毎日病原菌のような扱いを受け、自宅には嫌がらせの張り紙や落書きが羅列し、ついには賃貸契約の更新を打ち切られた。
新たに住宅を探そうとあがいたが、全て断られた。散々美辞麗句を並べられたが、畢竟、「病原菌に貸す家などない」とのことらしい。
そんなわけで今日からこの軽自動車が愛しい我が家となる。遷延性の基礎疾患をもっており、転職など望むこともできない。頼れる親族も友人も恋人もいない。
幸いなことに今は罹患していないが、もし忌まわしき流行り病に罹患すれば、わたしはこの軽自動車に【自宅待機】することとなる。
病院の駐車場からは【医療従事者に感謝とエールを!】という旗いくつもが見える。本音と建て前は大切なことだが、人間の悪感情とはこうも恐ろしいものであったとは。
願わくばわたしの愛車が走る棺桶にならないことを祈るばかりだ。
明日も仕事。今日はここまでとする。