武術試験⑥
「ま、待て! 待ってくれ!」
モエが勝利の証に右手を挙げ、闘技場を後にしようとしていたとき。
ナンパ男が翻筋斗を打って転げ回ってから、ややしばらく。彼の情けない声があった。
ぼくとアキは拍手を打ってモエを迎えようとしていたが、その声に、冷ややかな視線を向ける。
この上、こんな完膚なきまでに負けておいて、なにか言うことでもあるのだろうか?
「怪我だ、怪我をした!」
はあ?
なんとナンパ男は、そんなことを喚いたのだ。
打ち身か骨折か?
でも、すぐに上半身を起こしているんだよね。
寝たままだと声が聞こえ辛いだろうと考えたのかな?
凄く痛そうではあったけと、怪我をしている風ではなかった。
「どこを怪我しましたか?」
「せ、背中だ。打撲か、悪ければどこか骨が折れているかもしれない!」
先ほどまでにこにことしていた試験官は、大きく目を瞠いて、ナンパ男に近寄る。
あれは驚きの表情だろう。
確かに精密検査をしなければ、本当に無傷であるか、なんて判別はつかない。
医学を志すぼくではあるけれど、実際に触ってもいないし、患部も見えないから、なんとも言及できないけれど。
でも、なんとなく、怪我なんてしていないと思うんだよなあ。本当になんとなく、だけど。
「な! 負け惜しみを!」
「うるせえ! 嬢ちゃんは試験官じゃないだろう! なあ、試験官さんよ、診てくれ。な、な、ちゃんと赤く腫れ上がっているだろう?」
ナンパ男は上着を脱いで、怪我をしたと思われる場所を試験官に見せる。
きちんとぼくらには見えないようにしているのは、偶然でないはずだ。
ナンパ男の考えは、きっとこの場に居合わせた受験生全員が知るところだろう。
つまり、敗けは敗け、完膚なきまでに叩き伏せられたけれど、ただでは敗けない。モエを道連れにする魂胆なのだ。
怪我を負わせるな、負うな。怪我をした場合は双方の減点になる。そういう規定だから、モエも減点にさせようとしている。
どこまでいっても品のない、最低な輩。それがあのナンパ男だ。
――ただ。ぼくも前世では、ああだったかもしれない。
やったことの方向性は違うけど、もしかしたら、あの裁判所で判決を受けたとき。
刑務所で看守にこっぴどく叱られたとき。
そして死んだとき。
ぼくを見ていた誰かは、もしかしたら、いまのぼくと同じ気持ちだったのかもしれない。
前の人生で負い目のあるぼくは、そう考えずにはいられなかった。
「分かりました。申し出は受理しましょう」
「なんですって!」
驚きの顔は一瞬、すぐににこにこ顔に戻った試験官。
彼はふむふむとナンパ男の背中を見、ぺたぺたと触ってみてから、そう言った。
しかしその言葉は、易々と受け入れられるものではなかった。
この試験の採点方式も、規定違反の減点も、受験生にはどの程度の影響があるか知り得ない。
その中で、彼は、ナンパ男の申告を受理すると言ったのだ。
ぼくだって、つい今しがた、彼に同情はした。前世の自分の惨めな姿を思い出して。
でも、だからといって、モエを貶めて良いわけはない。
「どういうことよ!」
案の定、モエは試験官に食って掛かった。
先ほどまで、怒りの演技で相手を翻弄していたのに。
彼女は、薄々気付いてはいたけれど、いろんなところで沸点が低いようだ。
「はい。彼の怪我をしたという申し出を受理します。当該の受験生には、減点の評価をしないといけませんね」
「なんであたしまで! 怪我なんてしていないでしょう!」
あらら。
モエは怒りの度合いがかなり上がっている。
まだ幼い試験官に、それはそれは言葉で表現するには恐ろしい形相で詰め寄っているよ。
もちろん、ぼくとアキで止めているけどね。まあまあ、とか。どうどう、とか言って。
ただ彼女、思った以上に力が強くて、制止を振り切りそうだ。
――あと、これは完全に余談だけれど。抑えるために触ったモエの身体は、柔らかかった。
「怪我は受験生の、事後申告制ですからね。怪我の様子を見て、そういう判断をしたまでです。
――ほら。怪我人は、早く医務室へ」
幼く見える試験官が手を挙げると、なんでか様子を伺っていたダウーさんが走り寄ってきた。
いやいや、どこかで試験官していたんじゃないの? と突っ込む暇もなく、彼はナンパ男に一言、何ごとかを話し掛けて、肩を担いで立ち去っていく。
たぶん医務室なんかに向かって。
「納得できない!」
モエは叫ぶ。
そりゃあぼくだってそうだ。
規定は規定だけれど、その判断の基準が曖昧過ぎる。
これだと、受験の後に『怪我をしました』という受験生がたくさん出ちゃうよ。
――ん? そうならないように、考えて試験しろ、ということかな?
いや、なんだか違う気がする。
「試験の結果に対して、異論は許されません――これは事前の説明ではされていませんでしたが、当然のことなので省いたのでしょう。
不服があるのなら、次の魔術試験で挽回してみればいいのではないですか?
――それとも。あなたも失格になりたいのですか?」
「なんですってえ!」
うわ! 『失格』の言葉を聞いた瞬間に、モエの筋力が跳ね上がったようだ。
綺麗な顔をさらに真っ赤にして、こうして抑えていても、ずりずりと試験官に近付いていく。
こういうときはなんて言えば収まるのだろう。
愛の言葉? 阿呆か! いまのモエに下手なことを言えば、怒りがそのまま方向を変えて、こちらに向きかねない。
(落ち着け、モエ)
ぼくが変なことを考えていると、ぼくと同じくモエを制止していたアキが、小声で言った。
(試験官は、『申し出を受理する』と言っただけだ。君を減点するとは言っていない)
モエの耳元で、囁くアキ。
まだ闘技場にいる、ちんまりとした試験官まではやや距離があるから、そこまで聞こえてはいないだろう。
すぐそばにいるぼくには、もちろんバッチリと聞こえているけどね。
(それに、彼は『あなたも失格になりたいのか』と訊いたのだ。君なら、この言葉の意味が解るだろう? 頭を冷やせ、モエ)
うん。つまりそういうことなのだろう。
モエが合格。とは決まっていないけど、ナンパ男の失格は決まったわけだ。
考えてみればそれは当然。
この大学校は、将来は国を引っ張っていく人材を育てるためにある。
もし受験生みんなが合格すれば、その志を同じくする学友になるわけだ。
そんな中で、あのナンパ男みたいな輩がいたら?
個人の怨恨で、将来学友になるかもしれない相手を道連れにしようとする人間が、国を背負っていくなんてできると思う?
そんなの、私利私欲でお金に目が眩んで、仲間を売るのと何が違うんだ。
だから、ナンパ男が合格になるなんて――そんな道理はない。
「あ、あ、あ――」
アキの言葉を聞いた瞬間、モエも考えが及んだのだろう。
今まさに飛び掛からんばかりだった勢いは萎んでいく。
加えて、怒りで真っ赤になった顔は、途端に血の気が引いていって、蒼くなった。
唇は力なくわなわなと震えて、ただ呻きに似た、小さな声を出すだけになった。
――これなら、もう抑えなくとも大丈夫だろう。
ぼくとアキは、掴んでいたモエの身体から手を引いた。
個人的には、若くて、温かで、柔らかかった彼女の身体に、名残惜しさはあったけれど。
「ご納得いただけました?」
試験官の声があった。
少年のようにしか見えない彼は、やはり相変わらずの笑顔でそこにいる。
「す」
「す?」
「すいませんでしたあ!」
うわっ。耳が痛い!
モエったら、肩を震わせていながら、なにを言うかと思えば。
凄い大きな声で謝罪したかと思うと、大きく腰を折って頭を下げた。
うん。ぼくが何時間か前に、二人にした謝罪とおんなじ。
今にも土下座するんじゃないか? てくらいの、この世界でいうところの最大限の謝罪。
モエはそれをやったのだ。どう見たってぼくらより歳下に思える、少年のような試験官に。
ありゃりゃ。謝られた方も驚いて、目を丸くしているよ。
「いえいえ。
これ以上の異論がなければ、次の試験を開始しますね?」
ただすぐに、試験官は笑顔に戻った。
そんな彼に対する異論なんて、モエはひとつも持ち合わせてはいない。
顔を一度上げたかと思うと、また一礼をしてから、その場を後にする。戻っていくのは、この対戦前にぼくらがいた場所だ。
「ありがとう、アキ」
その途中で、モエは言う。
アキは、気にするな、と頭を振って応えた。
ひやひやしたけれど、なんとかモエの試験は終わったのだ。
「でもクリウス。あんたは許さない。あんたの手つき、やらしい」
「ええっ? そ、そんなことなかったでしょ」
モエはなにか、胸の内から込み上げるものがあるのか。そう言う言葉の端々に、喉の奥が詰まるようなものが感じられた。
突然に批判の矢面に立たされそうになったぼくは、慌てて手を振って否定する。
あながち間違いでもなかったのが痛いところだ。
「冗談。二人とも、ありがとう」
顔をこちらには見せなかったけれど、モエは改めて言った。
ぼくらは顔を見合わせ、静かに微笑んで、一緒に頷いていた。
なんか、場が丸く収まって良かった。
モエの様子を見ながら、ぼくは心の底から思う。
もしあそこで試験官に、あれ以上に詰め寄っていたら?
本当に、彼女は失格になっていたかもしれない。
将来が有望そうなモエが、あそこでダメになるなんて、この国にとって大きな損失だろうし。
なにより、ぼくが納得できない。
だから、まだまだ受験の結果が分かるのは先なんだけれど。
取りあえずは一件落着。めでたしめでたし、だ。
――あれ、でもなにか忘れていない?
「では次の試験を始めます。128番、129番。闘技場へ」
ああそうだ。
一番忘れちゃいけないことを忘れようとしていた。
ぼくの武術試験は、まだ始まっていないのだ。




