〔廿〕弱り目に祟り目。
「ちっ。出来るもんなら、水でもぶっ掛けてやりたいね。頭からさ」
ん? 何だ。誰が何を怒っている?
「立花さんっ! お願い、目を開けてっ! 立花さんっ!」
は?
「小僧っ! 早よう起きんかっ! 小僧っ! 小僧よっ!」
起きる?
「キミっ! のんびりと気絶なんかしている場合じゃないでしょ!」
あ。いかん。そうか。そうだったな…。
「おおっ! 立花殿っ! ようやく気が付かれたかっ!」
やれやれ。百合寧さんも、相変わらず無茶なことをする。
「あなた、ここへ何しに来たんですの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
妖鬼との接触は死に直結。そう言い聞かせたのは僕である。
そこで百合寧さん、已む無く緊急措置に出たのだろう。どどどと勢い良く倒れる妖鬼の軌道から逸らすべく、跳び蹴り―――いや。正確には、ドロップキックとかいうやつだ。両の踵に全体重を乗せ、力一杯、僕を壁の際まで跳ね飛ばした。
なるほど。毎度毎度、由良はこんな仕打ちを受けているのかと、少し同情もしてやりたくなるが、して、その拍子に僕は床で頭を強打。情けないことに脳震盪で、しばらく意識が飛んでいた。
「立花殿っ! このままでは百合寧殿がっ!」
「ゆりね…?」
その名を口にした途端、急速に覚醒した僕はがばっと跳ねるように身を起こし、未だ焦点の定まらぬ両眼を、本堂の中程に凝らした。
「なぬぅっ!」
はてさて。一体、何分くらい伸びていたのだろう。見れば状況は一変しており、その光景に僕は思わず、ごくりと喉を鳴らして固唾を飲んだ。
そこには、完全に回復したと思わしき妖鬼が仁王像のように立っていて、さらに二間ほど先には、あまり見たことのない険しい表情をした百合寧さんが、浴衣姿で女子の大刀・是光左文字を握り締め、一歩も退くことなく、真っ向から妖鬼と対峙している。
「待たれよっ!」
一触即発とでも言うべきか。まるで静止画像でも見ているように双方ぴくりとも動きがなく、青天の霹靂な展開に動転、うっかり声を掛けようとした僕を、女子が透かさず制止した。
「待たれよ。剣戟は刹那の調べ。僅かな気の揺らぎが明暗を分かつもの。あの様に膠着してから、かれこれ二分は経とうとしてござる。今ここで集中を乱せば、それこそ命取りにござるぞ」
「くっ…!」
「立花殿。それよりも、じつは非常に困ったことが」
「非常に困ったこと? これ以上に? ちゅうか、あなたは何してるんですかっ!解説なんかしてないで、早く百合寧さんに―――」
「立花さん、少し落ち着いて。先ずは話を聞いてください」
「落ち着け? 戯言をっ! この状況で落ちついてなんか―――」
「駄目なのっ! 憑けないのっ!」
「…………はい?」
「…いや。あの。ですから、高見さんに憑けなくて…」
「…いや。あの。ですから、憑けないとはどういう…?」
「言葉どおりでの。あの娘も、わらわ達を受け付けぬのじゃ」
「はあっ? 何でっ?」
「そいつが判かるなら苦労はないさね。皆で幾度も試してみたけど、何れも結果は同じでね。つまり、お手上げってやつさね」
なんてこった…。
「キミ。とにかく今は、彼女を助けるのが先よ。いいわね」
「そうだ。そのとおりだ。憑けない理由なんざ、どうだっていい」
「あら? だけど、まともに立って歩けますの?」
「…そ。それは…」
多少は朦朧としちゃいるが、四の五の言っている場合ではない。僕は大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出しながら、幾度か軽く頭を振った。よろけながらも立ち上がり、その足で板敷きの床を踏みしめる。
「…うん。大丈夫。行けます。問題あり―――がぁっ!」
「なら、行くよ。ほれ。ちゃっちゃと動きな」
動けるかよっ! 皆で一度に憑くなと言ったろ、馬鹿共がっ!
「あれ…?」
美咲先生、風呂敷の包みを枕代わりに、ゆらりゆらりと蝋燭の炎が灯る、燭台の真下に寝かされている。
上に百合寧さんの外套が掛けられ、心なしか、苦しそうにしていた呼吸も表情も穏やかになり、光の当たり具合かも知れないが、血色も随分と良くなったような。
まあいい。それは。じつに何よりだ。
だが、すぐ傍に美咲先生の着ていた物と思われる装束やら袴やらが落ちていて、肌蹴た外套と床板の隙間から、色白な太腿が艶かしく顔を覗かせている。
「キミ。じっくりと何処を見ているの」
「あ。いや。その…」
あのときは状況が状況だったし、そう指示せざるを得なかったわけだが、百合寧さん、その後も本当に、身包みを全部剥いだのか。
「…てことは?」
「そうね。すべて彼女が持ってるわ」
弱り目に祟り目。泣きっ面に蜂である。当てにしていた唯一の為す術をすっかり失った僕は、愕然としながら救いを求めるように訊いた。
「じゃ、どうすればっ?」
「あら? もう逃げ腰? どうするもこうするも、やるしかないのではなくて?」
やるよ! 言われなくとも、やらいでか! だけど、助言の一つもしてくれよ!
「立花さん、ごめんなさい。先に試せばよかったんだけど、まさか高見さんに憑けないなんて、これっぽっちも思わなくて…」
おめいらって、僕には文句を言うくせに、何かと不手際が多いよな。
「小僧。言わずもがな、あの娘が如何に腕の立つ猛者であろうと、我らが憑かねば勝ち目はない。それは一度戦ったお主も、重々承知しておろう」
まあな。ニートだかチートだか知らんけど、あんな怪物相手に、いかさま無しで勝てるかよ。
「然りとて、こうして我らが憑いたところで、丸腰のままではの」
万に一つも勝ち目はないか…。
「キミ。危険だけど、他に方法がないわ。妖鬼の注意をこちらに向けさせなさい。その隙に彼女を」
望むところだ。このまま百合寧さんを戦わせるくらいなら、盾だろうと身代わりだろうと、何にだってなってやる。
「立花殿。日頃、昼行灯のそなたにとって、今まさに、その真価が問われるようとしてござる。ここが正念場にござるぞ」
昼行灯は余計だが、素直に激励として受け止めよう。
「なあに。隙を作るのなんざ簡単さね。そっと真後ろに近づいて、尻でも金玉でも蹴飛ばしてやりゃ良いのさ」
おめいは完全に他人事だな。
と呆れているそこへ、背後から途切れ途切れに声が掛かった。
「…立花君。こちらへ。早く…」