風の気まぐれ、天のいたずら―――あゝ美しき哉、七重宝樹よ―――空行あり改訂版

《序》

〔肆〕梅も桜も、花弁が散ったら見分けが付かない。

「このようなところで？　本当？　本当によろしいのですか？　ならば、お戻りになられるまで待っていま―――」

「いやいや。充分。とても助かりました。本当に」

　天吹さんは帰りも送ると言ってくれたが、そこまで面の皮は厚くない。どれだけ待たせるか判らないからと、僕は丁重に遠慮した。

「二十四日ですよ？ 約束。忘れないでくださいね？」

　少し口先を窄めて言った様子が、拗ねた子供のようで可愛い。

「大丈夫。僕も楽しみにしていますから」

　相変わらず社交辞令というものを知らない娘である。途端、赤道直下の向日葵も俯いてしまいそうなくらい、きらきら煌めく笑顔に変わった。

「では、お気をつけて。ありがとうございました」

「はい。ごきげんよう」

　そうして走り始めた車の中から、何とも名残惜しそうな表(か)情(お)を向け、いつまでも手を振り続けている天吹さんを、僕はお辞儀で見送った―――二分後。

「さて…、と」

　屋根付の立派な門。奥には、築何年？　という感じの、歴史的価値もありそうな日本家屋が建っており、けど、古いだけではなく、その佇まいには、凛とした威厳までもが感じられた。

　玉砂利の敷かれた白州の庭も美しく広い。我が家ならば、工場(こうば)も含めて、軽く二、三軒は収まりそうだ。

　梅か桜か、あるいは柿か。枝振りの太い大きな樹が幾本も立ち、それだけでも、この家の歴史が伺い知れるというものだ。

　尚、周囲がしんと静まり返っているのは、何も、この一帯が閑静な住宅街だからとか、そういう安易な理由からではない。

　いや。たしかに閑静な住宅街ではあるのだ。ここまでの道中も、車は大小様々な家が建ち並ぶ道を、右へ左へと縫うようにして走って来たのだから。

　ところが、最後の角を曲がった途端、視界から建造物という建造物の一切がなくなった。

　おそらくは、代々継承の大地主。道も私有地なのだろう。舗装もされておらず、狭さ故、それより先へは、車で進むのも無理だった。

　道の両端を生い茂った樹々が璧を成すように立ち並び、おかげで、まだ陽も高いというのに薄暗く、幾分、気味悪く思いながらも進んだところで、突然ぽっかりと開けた場所に出たのである。

　芝が敷かれ、ちょっとした運動場くらいの広さはあるだろう。周囲をやはり背の高い樹々が、まるで外部からの侵入を拒むかのように立ち並び、この環境ならば、むしろ、静かでないほうがおかしい。

「お？」

　屋根付き門のすぐ向こう側。目隠しのように伸びている小じんまりとした竹薮の蔭から屋敷のほうを覗き見ると、梅か桜か、あるいは柿か、そこに鳥でも留まっているのか、じいっと宙を見上げる女性を発見。白いシャツに紺のスカート。黒髪を三つ編みにした、質素な雰囲気の美人である。

「ごめんください」

　女性とは、そこそこの距離である。遠慮しながら掛けた声が耳に届かなくとも、何ら不思議はない。

　案の定、女性はぴくりともせずに、じいっと宙を見上げたままだった。

「ごめんくだ―――」

　待てよ。もし本当に鳥を眺めているとしたら…。

　と思い声を止めたが、どうやら今度は気付いてくれたらしい。

　女性は真っ直ぐこちらを見ると、はて？　といった感じに小首を傾げ、ところが何故か背後を見た。むろん、背後には誰もいない。

　再び僕を見た女性であったが、そりゃもう、露骨に怪訝な表情。

　そんな女性に、僕は軽く会釈をしてから、なるたけ丁寧な言葉で続けた。

「あの。お訊ねします。こちらは西園寺さんのお宅で？」

　途端、女性の表情が驚愕の藍色に変貌。まあっ、といった感じに手の平で口元を覆い、じりじり後ずさった挙げ句に奥へと引っ込み、二度と戻っては来なかった。

「…あ。あの…」

　一体、何がどうだというのか。それはそれは失礼な、まるで暴漢にでも遭遇したかのような、何とも酷い対応であった。

　けれども、幾ら文句を言っても始まらない。その文句を言うべき相手が何処かへ引っ込んでしまったというのに、独りで怒鳴っても疲れるだけだ。

　仕方なく僕は門扉の辺りを、何とも形容のし難い、もやっとした気分で探した。

　すると、やはり古くから掲げられているらしい、墨痕の薄れた木の表札があり、そこには《西園寺》と書かれていた。

　しかし、何処にも呼び鈴らしきものは見当たらず。

「直接、玄関へ行くしかないかな。こりゃ…」

　そうして視線を屋敷に移したときだ。またもや、そこに人の気配を感じた。　

　梅か桜か、あるいは柿か。その大きな樹の陰から、幼女が半身を覗かせている。

　歳なら、十くらい。おかっぱ頭に赤袴。正直、巫女というよりも、座敷わらしを見つけた気分だ。

「やあ。こんにちは。おとどけものなんだけど、おうちのひとは」

　いるかなと優しく言っている傍から、幼女の表情が驚愕の藍色に変貌。まあっ、といった感じに（以下省略）。

　さすがに今度は腹が立ち、本気で怒鳴り飛ばしてやろうかと思った。

　しかしながら、幼女の判断とその行動は概ね正しい。

　何せ、狂った世の中である。新聞でも、いたずら目的の幼女誘拐が急増しているなんて記事も目にするし、知らない野郎に声を掛けられたら一目散に逃げるよう、僕が親でも教育するし。

「まったく。この家の住人は、どうなってんだ。どいつもこいつも。こうなりゃ、勝手に門を潜らせてもらうぞ」

　と一歩足を踏み入れた矢先である。

　小じんまりとした竹藪の死角になっている右手奥から、玉砂利を蹴散らし駆けてくる音がした。

「はっ？」

「なっ？」

　まさかの遭遇。まさかの邂逅。もう唖然の一言である。

　また、それは僕だけではない。もう愕き過ぎて、互いに数秒間は口を開いたままだった。

　現在、病気療養につき、無期限で休職中の担任教師・美咲先生。

　こうして顔を拝むのは、あの日以来。庭の手入れでもしていたのか、左手にだけ白い手袋を填めている。

「何故、あなたが？」

「中々どうして、気が合いますね。同感です」

　美咲先生は、僕が腕に抱いている風呂敷の包みを見、はっと息を飲み込んだ。

　どうやら来意を察した様で、細く長く息を吐き出し、やがてぽつりと、しかし、どこか落胆したように呟く。

「…どうして。どうしてあなたが…」

　と言われましてもね。

「代理です。その。祖父は外せない用事で朝から」

　競馬場にいるけどな。

「僕では何か不都合が？」

「そういう意味ではありません」

　なら、何だ。

「そもそも、美咲先生こそ何してるんです？ こんなところで」

「失礼な。こんなところはないでしょう。こんなところは」

「でしたね。すみません」

「わたくしが、わたくしの家にいるのは当然です」

　わたくしの家？

「西園寺さんのお宅では？」

「西園寺さんのお宅です」

「てことは…」

　ふと思った。結婚？

「違います」

　言ってないよな。まだ。

「相変わらずですね。困ったものです」

　いや。だって、道理が理(わ)解(か)らんし。

「それでは、また自己紹介からやりますか？」

　その冷ややかな視線と皮肉で、ようやく僕は思い出した。

「あ。そうか…」　

　入学当初、聖開学園には、たまさか《西園寺》という姓の教師が二人いた。

　一人は定年間近の学年主任。もう一人が目の前にいる我が担任。

　故に、教師も生徒も、その老教師を西園寺先生、こちらを美咲先生と呼び分け、老教師が退職した後も、何となくそのままになっている。

　西園寺(さいおんじ) 美咲(みさき)。それが彼女の姓名だ。

「じゃ、ご家族が？」

　僕は腕の中の風呂敷包みに目を落とした。

「お茶を淹れましょう」

「は？」

「美味しいお菓子がありますから」