〔拾玖〕咳で骨折することもある。
突飛な謎注文にも戸惑うことなく、美咲先生の袴装束に手を掛けた百合寧さん。
先述したとおり、何かの道場を思わせるほど、じつに奥行きの深い本堂だ。
そんな二人のところまで、ざっと目算で十五間。大雑把な例を挙げると、弓道で言う、射位から的までの距離である。
一方で妖鬼は、注意を引こうとした僕のことなんざ一瞥もくれず、長い両の腕をだらりとしたまま、がっがっがっ、と広い歩幅で駆け出した途端、あっという間に二人の眼前。僕は、ただただ我が目を疑った。
むろん、舐めていたつもりはない。ないが、砕隠寺へ逃げ込み、皆を見て安堵。それだけで、もう助かったような気になっていた。
要するに、この窮状を招いたのは、僕の油断によるものだ。
せめて懐中時計だけでも受け取っていれば…、なあんて嘆いても、もう遅い。
僕は、そんな自分の甘さが腹立たしく、何より、無力なことが呪わしい。
かあんっ!
なもんで、その咄嗟の判断と行動力には、心から感服させられる。
かあんっ!
…けどまあ、あれだ。あれ。瓢箪から駒だっけ?
かあんっ!
まさか、あんなもんが本当に役立つとはな…。
がしゅっ!
さて。聡い諸君のことだから、すでに察しているだろう。
瞬時に機転を利かせた百合寧さん。手元にあった中華鍋を盾にして見事、妖鬼の魔の手を免れた。
で、そうした一連の流れを目の当たりにして僕は、一つだけ合点の行ったことがある。
美咲先生、その後も酷く苦しそうに、浅く速い呼吸を続けている。
あの様子だと、肋骨の二本や三本は折れていてもおかしくない。下手をすると、その折れた骨が肺に刺さっているのかも。
だが、しかし僕は思うのだ。美咲先生には気の毒だけど、それらは事故のようなもの。運も悪けりゃ、当たりどころも悪かった、と。
だって、そうだろ。妖鬼の目的が器なら、肉体を破壊する行為は本末転倒。幾ら凄まじい速度で迫りはしても、衝こうとする力の加減は、きちんとしているはずである。実際、それを受け止めた百合寧さんだって、ちょこっと後ろに下がった程度だし。
ま、とにかく。そんなふうに回避されるなんざ、びっくりしたに違いない。困惑したのか何なのか、数瞬、妖鬼の動きが静止した。
そう。その隙に百合寧さん、やはり手元にあった向こう鎚を握り締め、力一杯、妖鬼の顎先を強打。それが最後に響いた、鈍くも乾いた音である。
意外や意外。がっつり効いているらしい。脳髄を揺らされ足にでもきたか、優に七尺はある巨体が今にも、がくりと膝を突きそうだ。
むろん、これほどの好機を、百合寧さんが黙って見過ごすはずがない。間、髪を容れずに続けて顎。顎、顎、顎。いやはや、敵方には回したくない人だ…。
ちなみに、こうしてだらだら説明をされると、勘違いする者もいるだろう。念のため言っとくが、ここまですべてが、十秒足らずの出来事だ。
「ほう。やるじゃないかさ。小僧さん。あの娘さんは何者だい?」
さてな。何と説明したものか。
「こいつは愕いたの。あの妖鬼を相手に金鎚一つであそこまで」
「むぅ。あの太刀筋と足捌き。どうやら、只者ではござらんな…」
おい。おめいは感心している場合じゃないだろ。
と言いたげに僕は、傍らで腕組みをしている女子を見た。
「おお。そうでござったな。では、立花殿。しばし、失敬を致し申すぞ…」
直後、何とも形容のし難い不快感が、瞬時に全身を駆け巡る。
「…っ!」
諸君も一度くらいはあるだろう。机の角や扉の縁なんかに、肘の内側をぶつけたことは。強いて言うなら、それである。背中を起点に頭の天辺から足の爪先まで、電撃を受けたような痛みっちゅうか、痺れるような衝撃っちゅうか…。
まあ何にせよ、今後どれだけ回数を重ねても、慣れることはないだろうな。
「百合寧さん! そこから離れて!」
「ほ?」
まったく予想だにしない、殆ど奇襲のような猛反撃。それに見入り、思わず足を止めていた僕は、再び百合寧さんのところへ駆け寄りながら、やや掠れ気味の声を大きく張った。
「近づくのは危険だ! もう、それだけやれば充分です!」
尤も、それだけでも充分に、僕としては不本意なのだが。
理由はさておき、妖鬼は真っ先に百合寧さんを狙って動いた。
それはつまり、標的を百合寧さん一人に絞ったということだ。
その人間に先陣を切らせてしまったことは、極めて遺憾。正直、百合寧さんだけでも、今すぐ本堂の外へ逃がしたい。それが偽りのない本心である。
なれども、その策が功を奏すのは、封印の札が有効ならば、だ。
妖鬼が先ほど見せた電光石火。あの速度で後を追われたら、化学の十倍速だって難しい。
しかも、たったの十秒間じゃ、遠く離れれば離れるほど、却って危険度が増してしまう。
とどのつまり、結局、安全なところなんざ、何処にもありはしないのだ。
「効いちゃいるけど、そいつじゃ止めは刺せま―――なぬっ!」
何ちゅう迷惑な話だろう。妖鬼は必死に倒れまいとするあまり、足が縺れそうになりながら、こちらに突っ込んで来やがった。
「立花殿っ!」
「小僧っ! 来よるぞっ! 避けいっ!」
…ったく。どいつもこいつも…。
あのな。一々怒鳴らないでくれ。んなこと言われるまでもない。
けどな、幾ら頭で理解っていても、それと身体は別物だ。
そもそも、避けろと怒鳴られたくらいで避けられるなら、世の中の交通事故は、もっと少な―――凸★$○▲¥∞◇!




