〔拾伍〕目は口ほどに物を言う。
「先生っ! 美咲先生っ! 立花ですっ! 立花が来ましたっ!」
堅く閉ざされた高麗門の扉を叩き、無駄を承知で名を呼んだ。
「美咲先生っ! 立花ですよっ! 美咲先生っ!」
すると、門扉の向こうにて、今か今かと待ち侘びていたように、小夜さんが声を弾ませた。
「立花さんっ! よくぞ、ご無事でっ!」
多分、半ば諦めていたのではなかろうか。まあ、無理もないけどな。
「小夜さんっ! 美咲先生はっ?」
「…そ。それが。その…」
何だ。どうした。何があった。
「立花さん。とにかく中へ」
言葉を濁すということは、無事ではないということか…。
「ただ、私では扉の閂を外せませんので、この先にある小社から。裏手に隠し扉があるはずです。そちらから地下道へ」
忍者屋敷さながらの造りも、今さら愕きはしない。もう慣れた。
再度、大雑把に位置を訊ね、言われたとおりに壁沿いを進むと、街灯があっても見落としそうな、社というより、ぽつんと佇む小さな小さな祠があった。
幾分、半信半疑で裏手に回ると、たしかに隠し扉となっていて、肘やら膝やら、あちらこちらをぶつけながら灯りのない地下道を進み、中華鍋やら大鎚やら首から提げた風呂敷の包みを邪魔に思いながらも竹梯子を登ると、そこは古い井戸の跡。小夜さんが、ほっ…、と安堵したように微笑んだ。
「…よかった。本当に。本当に、よかった。ご無事で何より…」
だけど、それも束の間だ。僕に続き、背後から百合寧さんが姿を見せると、小夜さんは驚愕したような目で凝視した。
「まさか、お連れ様があるとは、思いも寄りませんでした…」
「まさか、お連れすることになるとは、思いも寄りませんでした」
「はい?」
想定外の来客に愕きはしたが、別段、慌てることではない。幽霊もどきの自分の姿は、どうせ瞳に映りもしないのだから…。
などと勝手に思い込んでいるであろう、はてと首を傾げた三つ編み淑女に、僕は手短に事実を告げる。
「甲です。この方も」
「なっ?」
「夜分、遅くに恐縮です。はじめまして。高見百合寧と申します」
小夜さん、まあっ、といった感じに手の平で口元を(以下略)。
「で? 美咲先生は?」
「…はい。本堂にいらっ―――」
「ご無事なんですねっ?」
正直、最悪の結果ばかりが頭の中を巡っていた。なもんで、思わず悪い癖が出てしまう。
「塵にもされず、器も奪われてないんですねっ?」
「立花さん、少し落ち着いて。はい。五体は無事。ですが、動かないのです」
動かない?
「妖鬼に胸を衝かれて倒れ込み、そのまま…」
何ですとっ?
「以前と違い、彼女に憑けなくなった私達では、その生死すら確かめることも…」
やや視線を落とし、小夜さんは無念そうに下唇を嚙んだ。
「…ですから。ですから、立花さん…」
そんな一大事は、最悪の結果も有り得る一大事は、もっと早くに言ってくれ。
僕は百合寧さんに声を掛け、一目散に本堂へ向けて駆け出した。
が、口で言うほど簡単ではない。ほんの数時間前に山ほど握り飯を馳走になった元社務所の脇を通り、狭い躙り口から茶室を経て、目を開いているのか閉じているのか、それすら判らないほどの真っ暗な隠し通路を抜けて、ようやく例の床の間に到着だ。
「百合寧さん。これから本堂へ向かいますが、その前に、これを飲んでください」
「ほ?」
美咲先生を案ずる身としちゃ一刻も早く先を急ぎたいが、それでも勧めないわけにはいかない。
「大丈夫。中身は普通の煎茶です」
僕と小夜さんのやり取りを、すぐ真横で聞いていたのだ。一服している場合ではないと、百合寧さんだって理解っている。
なのに、茶を飲めだなんて、困惑しても当然だ。
しかし、さすがは百合寧さん。状況が状況なればこそ、この僕が意味もなく要求するはずはない―――と理解をしてくれたようである。手渡された急須の注ぎ口に艶やかな薄い唇を当てると、喉が渇いているわけでもなかろうに、ごくりごくりと喉を鳴らして飲み始めた。
「あ。いや。もう、それくらいで…」
素直な性格の女性である。急須じゃなく、茶碗に注いであげれば良かったな。
「ね? 小夜さん」
「はい。それだけ豪快に飲んでおけば」
妖鬼は行方の知れなくなった僕らを追って、必ず砕隠寺まで来るだろう。
第一、新たな妖鬼が顕われないと、誰に言い切れる。そう。幻覚対策は絶対だ。
「立花殿っ!」
「へ?」
「何よりでござるっ! 息災で何よりっ!」
無事なら必ず砕隠寺へ来る。しかし、表と裏のどちらに来るか。
故に、表門は小夜殿。裏門は拙者が見張っていたでござるそうな。
「おや? おやおや。何と何と。お連れの方がござったか」
「…まあ。はい。じつは、この方も甲でして…」
「なっ?」
「はじめまして。高見百合寧と申します。以後、お見知りおきを」
途端、まあっ、といった感じに手の平で口元を(以下略)。
「立花さん。あの。急ぎませんと」
そうだ。悠長に挨拶を交わしている場合ではない。僕らは揃って顔を見合わせ、一斉に床の間を飛び出した。
漆喰の古い壁に設けられた燭台。その蝋燭は、あれからもずっと炎を灯したままらしい。近くで良く良く改めて見ると、読み取ることは出来ないが、やはり文字を紡いでいる。
「天松くん? この渦を巻いている、尋常でなく怪しげな影は?」
「はい。入り口です」
「入り口? …って。あの。闇側ではないのよね?」
「本堂への入り口です」
「これが…」
と疑わしく胡乱な目で、あんぐり口を開いている百合寧さんを僕は促した。
「さすがに愕かれているようですが、まだまだこれから」
向こうに着く頃にゃ、きっと呆れているだろうな。
「…わかりました。急いで向かいましょう…」
覚悟したように頷き、だが、緊張した面持ちの百合寧さん。その手を引き、僕は黒い渦の中に踏み込んだ。
一歩、二歩、三歩…。
そうして渦を抜け出ると、百合寧さん、思っていたとおりの反応である。
「I can't believe my eyes!」
だよな。闇側でも色々と摩訶不思議な見聞きはしたけど、こいつは別物。色々な意味で、種類が違う。
「何故っ? こんなところに、どうして鍾乳石っ?」
「失礼。たかみ―――は、高いところから見る、の高見でよろしいか?」
「あ。はい。高見百合寧です。ゆりねは、百合の花に丁寧で百合寧と」
「では、百合寧殿。ま、語れば、長い長い話でござる故」
「はあ…」
ぽつりぽつりと不規則に、つるりとした岩肌の上に設けられた燭台。その蝋燭の炎も同じく奇妙な文字を紡いでいて、それが足元をゆらゆらと、頼りなくぼんやり照らしている。
「立花さん。高見さん。さあ、行きましょう」