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〔拾弐〕古き良き職人技も、今や機械の時代である。

 はてさて。この家に妖鬼が顕われてから、何分くらいが経っただろう。


 その間ずっと妖鬼の顔面は、僕のほうだけを向いてきた。


 そりゃ、やる気あるんだかないんだか、何処の何を見ていやがるのかも判らず、思わず首を傾げたくなるような場面もあった。


 が、身体を捻って振り返るなんざ、ただの一度もなかったことだ。そう。ただの一度も妖鬼から視線を外さなかった僕が言うのだから間違いない。


 直感だけで動いたことは反省しなければならないが、何が正解かなんざ、誰にも判りはしないのだ。

 

 高が知れた経験上の、まるきり勘のようなものではあるが、存外、そうした直感だって馬鹿にはならない。躊躇したがために千載一遇の好機を失うなんてことも、時には往々にしてあるのだから。


「これを? 私が?」


「もちろん。託せるとしたら、百合寧さんだけです」


 刀を渡したのは他でもない。僕よりも遥かに腕が立つからだ。


 言っただろう。闇側で僕は何度も何度も、百合寧さんに命を救われたと。


 ずぶの素人である僕から見ても、それはそれは、じつに天晴れな剣捌き。心底、ど肝を抜かれたものである。


 尤も、そんな百合寧さんだって、幼い時分から道場に通っていたとか、腕の立つ誰かに師事して一から剣術を学んだとか、けっして、そういうわけではない。本人曰く、映画で観た時代劇の見様見真似なのだとか。


 それでも、類稀なる身体能力が、そいつを可能にするのだろう。


「…そうですか。ならば今一度、謹んでお預かりを…」


「ちなみに、今さら言うまでもありませんが」


 さすがに刀の扱い方までは不慣れである。ぎこちない所作で鞘に納めようとする百合寧さんに僕は、一応、軽く念を押した。


「今でも、刃落しはしていません。そいつの切れ味は誰よりも一等、百合寧さんがご存知のはずだ」


「はい。しっかりと、心に留めておくますです」


 これでいい。万一のときは、自身を第一に守ってもらいたい。


 それに、腕のない僕には刀より、もっと扱い慣れた物がある。


 それは、物心の付いた時分から今日に至るまで、毎日毎日、何時間も打たされてきた、()()()と呼ばれる鍛冶師が握る、柄の長さ二尺八寸、頭は五寸二分の長柄の大鎚。通称、《向こう鎚》である。


 昨今、火造り以外の大まかな鍛錬は、機械打ちするのが普通らしい。


 ところが父や祖父ときたら、やれ伝統云々、精魂云々、品格云々、と何やら職人としての拘りがあるらしく、我が家は一から十まで手仕事だ。


 因って、そんなもんを毎日毎日振り続けされてきた僕の体型は、()()()()()とかいう蟹のように、右手右腕右肩のほうが、左と比べて微妙に()()い。


 そう言や、幽霊もどきの侍もどきに褒められたっけ。剣筋は酷く滅茶苦茶だが、握り方だけは、きっちり出来上がっていると。


 ()()曰く、剣術の基本は左にあり。


 足の重心、運び方も然り。さらに言うと、小、薬、中の指三本で柄頭のあたりをしっかり握り、残る人差し指と親指、右手は握るか握らないか程度に、軽く被せるだけだとか。


 てことは、すでに諸君も気付いているだろうが、左利きの僕は、それらすべてが逆である。


 以前、祖父から聞かされた話によれば、武士の家に左利きの男子が生まれると、将来、様々な作法や仕来りに於いて無礼となるため、まだ歩くことも覚束ない時分から、徹底して右利きに矯正されたという。


 つまり、左利きの侍なんざ、存在してはならなかったそうな。


 ならば、そんな無礼者の僕に、刀は相応しくないだろう。使い慣れている大鎚のほうが手にしっくりくるし、それに意外や意外、中華鍋だって悪くはない。いざとなったら盾の代わりに―――って、なぬぅっ?




 “ ぎっぎっぎぎっぎょりっぎょりっぎぎっぎっぎっぎぎぎっ”




 …なんてこった。もう、こんなところまで…。


 あわよくば、蔵に閉じ込める予定を端折り、大通りまで、一気呵成に逃げてやるつもりでいたのだがな。早過ぎるだろ、()()が。 


 ま、しゃあない。来ちまったもんは…。然らば、当初の計画どおりに事を進めるしか―――いや、待てよ。だけど、このままぶっちぎりで外に逃げれば、さすがの妖鬼だって、そうそう簡単には見つけられないんじゃないのか?


 いやいやいやいや。駄目だ駄目。そうだ、慌てるな。今さら焦ることはない。


 何より恐いのは、予期しないところから一瞬で間合いを詰められた場合、百合寧さんが妖鬼の目の前に晒されてしまうことだ。逃げている立場で言うのもおかしなものだが、こうして視界の中にいてくれたほうが、却って安心ではないか。


 逃げるのは、()()を蔵に閉じ込めてから。そのために勝手口まで来たのだろう。


「百合寧さん、すみません。行けると思ったんですけどね。ちいとばかし、読みが外れてしまいまして…」


 僕は一度、一号・二号が用意した風呂敷包みの結びを解き、それを首筋に乗せてから、再び大昔の泥棒がするみたいに、しっかりと首元で結び直した。


 次いで大鎚と中華鍋を両の手に握り締め、なるたけ気落ちしていないような声を繕い、背後の百合寧さんに、このまま予定どおり計画を続行すると言った。


「わかりました。天松くんが言うなら、そうしましょう」


 にしても解せない。古いぼんぼん時計の音に、あそこまで妖鬼が反応するとは、一体、どういう感覚器官をしとるのか。


 さっきは、ただ当てずっぽうに言ってみただけなのだけど、もしかすると本当に特定の音域みたいなものが何か関係をしているのか?


 だとしたら、それを確かめてみたくもある。また、確かめるだけの価値もある。


 しかし困ったことに、そうするには一号・二号のどちらかを古時計のところまで行かせるしかなくて、そうなると、玄関は施錠されているから、当然、妖鬼の前を横切らなければならなくて…。


 馬鹿を言うな。冗談ではない。何があろうと却下である。そんな危険を冒させるくらいなら、永久に解せないままで構わない。


「お前達。すまんが、しばらく他所に離れていてくれ。でも、蔵の扉は頼んだぞ」


「はい、兄上。お任せください。お二人が出られましたら直ちに」

「手筈どおり、きっちりと蔵の中に閉じ込めてやりますわ、兄様」


 頼り甲斐のある妹達に慕われ、僕は果報者である。


「百合()()。兄のことを何卒どうか」

「宜しくお願いしますわ、百合()()


「御意。(しか)と承りますのでした」


 たまに思う。この人は、日本語を誰から習ったのかと…。


「ならば、作戦を開始します。もう振動に気を配る必要はありませんが、暗いし、足元には気をつけて」


「はい。だけど、大丈夫。知ってるでしょう。私は夜目が利きま―――ほ?」


 何だ。どうした。


「天松くん。あれは…」


 は?


「あの車って、たしか…」


「車?」


 勝手口から出て、まだ半歩。妖鬼も歯軋りをしていない。


 それは、少なくとも自分の索敵範囲内に僕らの存在を感じているということだ。


 そうした中、妖鬼から目を離すことは非常に躊躇われたが、ちらと配った横目の端に思いも寄らない人物が映り込み、僕は堪らず狂喜した。


「健ちゃんっ!」

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