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〔拾壱〕桜の代紋を掲げた極道。

 それなりに時間は要したが、じりりと逃げつつ引き寄せながらも、事前に決めた予定のとおりに、無事、食堂までは辿り着けた。


 途中、より近い玄関口から、さっさと出てしまいたくもあったのだが、最低限、砕隠寺まで逃げるために必要となる靴やら財布やら外套やらを、一号・二号は僕の指示どおりに、厨房のほうへ用意した。余程の事態にならない限りは、途中で変更したくない。


 ならば、何故に厨房なのか。


 それは、勝手口の隣にある蔵まで、なるたけ速やかに逃げ込みたいという、効率重視からである。


 いや。せっかく苦労して屋外へ出たのに、また室内?―――と疑問に思う諸君もいるだろう。


 なれど、それも妖鬼から安全に逃げるため。上手い具合に妖鬼を蔵の奥まで(おび)き寄せたら、またもや僕らは外へ出る。そこで一号・二号に扉を閉めさせ、中に閉じ込めてしまおうという算段だ。


 蔵。土蔵。土倉。呼び方は様々だが、それこそ年中行事のように、しょっちゅう大火に見舞われていた江戸の昔には、耐火金庫さながらの役目も担っていた。


 近くで火事だと聞くや否や、蔵の中に火を灯した長蝋燭を幾本か立て、扉周りの僅かな隙間を、味噌などで塞いでから逃げる。


 そうすることで、蔵の内部を完全な酸欠状態にし、地獄の業火を思わせるほどの極めて激しい炎と熱から、庶民は大事な家財や金品類を守ったのだ。


 まあ、運も相当に味方してくれているだろうし、関東大震災だろうと東京大空襲だろうと屁の河童。蛙の面に小便だぜ―――と見ていたように話すのは祖父の悪い癖ではあるが、事実、今でも立派に現存しているのだから、まったく大したものである。


 つまりだ。分厚い漆喰で造られた蔵というものは、ただただ扉を閉めただけでも充分に、音も光も、殆ど漏らすことはない。だからこそ、先祖代々、鍛冶を生業としてきた我が立花家の敷地に蔵があるのは必然で、その蔵こそが、鋼の鍛錬工場(こうば)になっている。


 妖鬼を蔵の中に閉じ込められれば、歯軋りの音は、内部で乱反射をするばかり。そうなれば、大通りに出て車を拾うくらいの時間は稼げるはずだと皮算用。さて。果たして上手く行くだろうか。


「百合寧さん。先に厨房―――」




 “ ぎぎっぎょりっぎょりっぎぎぎぎっぎっぎっぎぎぎっ”




 僕の言語能力だけで正確に状況説明するのは中々に難しいが、妖鬼は曲がり角の向こう側。未だ死角となる位置から、僕らのことを探っている。


 しかも、厨房へ行くには食堂を通らなければならないし、その食堂への入り口を僕が塞ぐように立っていれば、これまでどおり妖鬼の目に、百合寧さんの姿が映ることはないだろう。


「先に厨房へ。逃げる準備をしてください」


「はい。支度が済んだら、何か合図をしますですね」


 言わずもがな、百合寧さんは浴衣姿のままである。


 いや。まあ、素っ裸というわけではないし、何も問題はないのだが、この真冬の寒空の下、単衣の浴衣姿で歩いていたら、風邪も人目も引いてしまう。


 ちなみに、念のため言わせてもらうが、公の場で刀を所持することが許される、鉄砲刀剣類登録証は持っている。


 が、幾ら鞘に納めていても物騒な代物であることに違いはない。下手に目立ち、警官に職務質問でもされてみろ。何のために逃げてきたのか、まったく意味がなくなってしまうではないか。


 例の交通事故に巻き込まれた際、執拗に事情聴取をされて以来、正直、警察関係とは、何故か相性が悪いのだ。


 まさか、未だに目を付けられているとは思わないが、余計な横槍が入らないためにも、せめて襟巻きと外套の一枚くらいは、羽織ってもらわなければ困る。



 “ かあんっ…”



 へ?



 “ かあんっ…”



 何だ。



 “ かあんっ…”



 中華鍋?



 “ かんかあんっ…”



 あ。そうか。準備完了。じつに百合寧さんらしい判断だ。大きな声を避け、鍋を叩いての合図だろう。


 が、残念。その甲高い音に反応したのか、それとも特定の()()に反応したのか、突如、妖鬼が廊下の角から、ぬっと姿を顕わした。


「ん?」


 元より表情があるのかないのか、それすら見分けも付かないが、どうにも妖鬼の様子がおかしいような…。くいと小さく顎を上げ、心ここにあらずというか、そうした雰囲気を醸し出している。



 “ ぼおん…”



 やれやれ。何とも間の悪いやつめ。少しは、状況と空気を読んでくれ。


 諸君。すまない。今度は暗い廊下の片隅で、ぼんぼん時計が(とき)を告げ出した。



 “ …ぼおん…ぼおん…” 



「なぬっ?」



 “ …ぼおん…ぼおん…ぼおん…” 



 まあいい。それは。時間に至れば刻を告ぐ。そのために存在しているし、彼は、自身に課せられた仕事を忠実に果たしているだけであるから、むしろ、これほどの異常な状況にあろうと、何ら変わることなく刻まれている()()に、不思議と安堵をさせられる。この件に()()がついたら、油の一つも注してやろう。


 それより何より問題は、思わず開口するほどの、明らかに様子の変化した妖鬼である。


 こちらに背こそ向けないものの、半身を捻り、ぐいと大きく首を傾げて、顔面は刻を告ぐ時計のほうを凝視している。


「…こ。これは…」


 好機と受け取るべきなのか?―――などと、疑念や躊躇は一切なく、僕は自身の本能と直感に従い、厨房へ向けて声を張った。


「百合寧さんっ! すぐに出ますよっ!」


 僕は即座に踵を返して食堂を抜け、一目散に厨房の中まで踊り込む。


「天松くん? 向こうで何が?」


 見れば、丈長の白い外套をしっかりと着込み、桃色の襟巻きをした百合寧さんは既に、一号・二号が用意した風呂敷の包みと中華鍋を手に―――って、何故そんな物まで―――扉を開けて立っていた。その傍らには、一号・二号の姿もある。


「説明は追々」


 僕は勝手口の框から土間に降り、靴を履きながら、想定外の展開で目を丸くしている百合寧さんに、やや掠れ気味の声で言った。


「それよりも、これを」


 余計な荷物を奪い取るように引っ掴み、僕は、その手に刀と鞘を握らせた。

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