〔玖〕言わぬが花。
「兄上。ご指示どおりに用意が調いました―――のですが…」
「申し訳ありません。携帯には繋がりませんでしたわ、兄様」
「…そうか。駄目か…」
僕らにしてみりゃ、ある意味、死刑宣告のようなものである。
「にしたって、お前達のせいではないだろ。そんなふうに落ち込んだ声を出すな。なあに、心配ない。気にするな」
「兄上。しかし…」
「ですが、兄様…」
「だから、悲し気な声で名を呼ぶなって。縁起でもない。それならそれで、自力で何とかするまでだ。お前達の兄を信じろ」
なあんて格好をつけてはいるが、内心、穏やかなわけがなかろう。ぐつぐつぐと腹の底が音を立て、臓腑が煮込みになりそうだ。
けどまあ、だからちゅうて癇癪を起こしたり、自棄になって何かするほど、血の気が多い性質ではない。
そりゃ、多少は物に当たったり、時には言葉を荒げもする。
するが、我を失うほど怒ったことなんざ、…ま、そうそう滅多に、幾度もない。
なもんで、そうした性格が災いし、何かと溜め込みがちである。この難局を無事切り抜けた暁には、三矢の野郎、覚悟していろよ。
「とにかく。妖鬼を殲滅するには、特殊な能力が不可欠です。なので、間違っても妖鬼と戦おうとか倒そうとか、そういうことは思わないで。それと、何があっても絶対に、妖鬼の前には出ないこと。いいですね?」
僕は、なるたけ唇を動かさず、押し殺すような声で続けた。
「僕の背後に隠れている現在、妖鬼の目に、百合寧さんの姿は映らない。だけど、それだけ。単に、目を欺いているってだけ。こうしている今も気配だけは、確実に感じ取っています。一瞬だろうと姿を晒せば、瞬く前に終わっている―――と認識してても、まだまだ足りないくらいです」
少々、脅かすような念押しも、けっして、大袈裟なことは言っちゃいない。
それが効いたのか、百合寧さん、こくりと小さく頷いた。
「ごめんなさい。たしかに無鉄砲でしたね、どうしようもなく…」
あの。そんな。溜息が耳に。堪りません、どうしようもなく…。
「いやいや。謝ることでは。妖鬼の恐ろしさを理解していただけたようで何より。反省するのは後にして、それよりも、これからの行動予定を―――」
“ ぎぎっぎょりっぎょりっぎょりっぎっぎっぎっぎぎぎっ”
くそ。忌々しい音め。溜息の甘美な余韻が台無しじゃないか。
「そんで、僕らは今から、とある場所へと向かうのですが、それは、特殊な能力を持つ者達と合流し、その協力を得るためで」
「ほ? 尋常でなく歯の立つ者 equal 三矢さんではない?」
「のですよ。本来なら、彼の出番だ。だけど、百合寧さんも聞いていたでしょう。この数時間、何故か三矢は音信不通。これまでにも幾度となく、携帯電話に掛けています。が、ずっと圏外になったまま。一向に繋がる気配がない。困ったことに」
「あの生剥げmonsterは、正真正銘、言葉どおりに、本物の殺人鬼なのよね?」
「だからこそ思うのです。この件に、闇側の関与はないと。妖鬼が闇側からの刺客なら、三矢は見落としたりしない。絶対に」
「…そんな。だとしても、そんな。そんなのって…」
おや。めずらしい。百合寧さん、言葉に怒気を孕んでいる。
「だって、命が危険であることに、何ら変わりはないじゃない。それなら、助けてくれたっていいでしょう」
まったくだ。何しに現世へ来てんだかな。
「はい。何とも役立たずな野郎ですね。糞です。そこで、僕らが向かうは砕隠寺。じつは、今日の使い走り先が―――」
「お寺?」
「…まあ。はい。一応…」
嘘ではない。ちょっと普通ではないだけだ。
「多分、ものすごく愕かれると思いますが、じつは、美咲先生の御自宅でして」
「ほ? 美咲先生って、あの? あの美咲先生?」
「あの美咲先生です」
「何故、Why? そんなところに、どうして美咲先生が」
「と言われましてもね。そこが美咲先生の生家だから、としか…」
戸籍の上では他人だが、同居している年長者として、幼い時分に母親を亡くし、また、多忙とかいう以前に一年の殆どが消息不明な父親に代わり、由良の保護者的立場の百合寧さん。むろん、美咲先生とも面識はあるし、尚且つ、義手の施術にも何らかの形で関わっている可能性は大である。
「僕は今日、美咲先生に会いました。そこで色々な話を聞かされて…。あの。単刀直入に伺いますが」
ちゅうても、個人的な事情をぺらぺらと、僕から喋るわけにもな…。
「美咲先生は、手に重度の怪我をされているらしく、僕と話している間も、ずっと手袋を外すことなく―――」
「義手のこと?」
「…ご存知でしたか。やはり…。でしたら、あんなことになった理由も?」
「はい。日曜大工をしているとき、うっかり手元が狂ったと」
「そうですか…」
いや。だからさ。うっかり手元が狂った程度で腕失くすって、一体、どんな日曜大工だよ。
「…あの。じつはですね。あれは、妖鬼との戦闘によるものです」
「はい? 何で? どうして、あの方が?」
美咲先生の家は先祖代々、妖鬼退治を生業としてきた一族で、ご自身も不思議な能力の持ち主ですと、至って簡潔に説明した。
「おそらくは、こうして妖鬼の目を誤魔化せているのも、美咲先生の能力です」
百合寧さん、驚愕による興奮か、肩を掴んでいる両の手に、じわりじわりと力が入る。
「黒魔秘法術陰陽師? 俺tueeeee? ぶっ壊れ? あの方が?」
「いや。そんなことは一言も。ちゅうか、それじゃ紅頭の書いた小説―――って、痛だだだっ。ぶっ壊れそうです、この肩が」
「あ。ごめんなさい。つい…」
「何にせよ、ここで粘るのは愚策でしょう。三矢は当てにならないし、妖鬼の目を騙せる効果も、いつまで持つか判りゃしない。だったら、妖鬼の隙を見て脱出し、砕隠寺まで逃げ切ります」
「そこで、あの方の協力を仰ぐのね?」
「…まあ。はい。一応…」
これは嘘になるかもな。
が、美咲先生の安否について、今は触れるべきではない。
「それに、美咲先生の他にも多数、能力を持った者がいます。今の僕らが頼れるとしたら、彼女達を措いて他には―――」
「あ。みけさん」
「なぬっ?」
「そうですよ。みけさんですよ。みけさんなら、尋常でなく良い知恵を、幾らでも貸してくれるのでは?」
「…ああ。何だ。そういうことですか…」
「ほ? どうかした?」
「いや。てっきり、帰って来たのかと…」
みけ。それは我が立花家の愛猫で、仔猫のような少女、あるいは、少女のような仔猫の名である。
「彼女は一昨日から、天吹さんの屋敷へ行ったきり。今日の夕方には戻ると聞いていたのですが」
こんな切迫した状況で、まさか、「二日酔いで寝ています」とは言いたくない。何より、僕が思いたくない。
「三矢は連絡付かないし。だから、せめて彼女にだけでも、先に相談するつもりでいたのですがね。こんなことになっちまう前に…」
尤も、今ここに彼女がいても、戦力としては望めない。
ちゅうか、戦力にしたらまずいだろ。一体、どれほどの被害が出るか、想像しただけでも血の気が引く。