〔弐〕親切って何だろう。
溜まりに溜まった心の澱まで飲み下すかの如く、さんざ飯を食った直後である。そこへ風呂だ何だと言われたところで、重い腰は上がらない。
なもんで、濃い目の熱い茶が飲みたいだの、由良の様子は? などと誤魔化していたら双子の妹一号・二号、百合寧さんの細腕を引き、きゃっきゃきゃっきゃ歓談しながら、良い塩梅な湯加減の風呂へと、ぽつり、食間に愚兄を置き去り、一瞥もくれることなく行ってしまった。
まあいい。これで完全に独りきり。この混沌乱雑とした頭の中を整理するには、持って来いな時間であろう。ならばついでに社の離れで交わされた会話も、ここで回想するとしようか。
『よろしくて? これは慈悲寛大な親切心で、特別中の特別に忠告をして差し上げますのよ?』
何だ。
『あなた。遺書や遺言の類は、早目に用意しておいたほうがよろしくてよ?』
親切なのか。それ。
『そうね。彼、確実に早死にするタイプだし』
ああ、なるほど。つい先ほども、おめいの能力で死に掛けたばかりだしな。
『ま、馬鹿が早死には、今も昔も変わりゃしないよ。元々、そういう生き物さね』
馬鹿を種族のように言うんじゃない。
『左様。然らば、介錯は某が…』
何故、切腹せにゃならんのか。
『これこれ。お主ら。あまり小僧をからかうでないと申しておろうに』
と諭している割には、何とも楽しそうな表情だよな。毎回毎回。
『にしても、小僧よ。お主も、お主じゃ。もちっと、相手の話はきちんと―――』
『わかったわかった。わかりましたから。人間だけじゃなくて、物にも憑けるって話でしょう? 大丈夫。ちゃんと聞いていますから』
『うむ。ただし、条件が―――と聞かされるのも、これで三度目のはずだがの?』
『でしたっけ…? だとしても、それがどういった条件かは、まだ何も聞かされていない、…でしたよね?』
例の小筆やら時計やら。あれらはすべて、各々が幽霊もどきとなる以前、個人の所有する、私物であったとのことだ。
突如、姿を顕わした妖鬼に魂を弾き飛ばされた際、その器である肉体が手にしていた物。それこそが、まさに例の品々なのだとか。
座敷わらしは、赤と青の手玉が二つ。自室で無邪気に遊んでいた。
三つ編みは早朝、洗顔後。祖母から貰った手鏡に、拭った顔を映していた。
日傘は、ふと思い浮かんだ出来の良い詩を忘れないうちに書き留めておこうと、文机の引き出しから、愛着のある使い慣れた小筆を手にした直後。
姐御は、湯屋の帰り道。駒下駄の小気味良い音を鳴らしながら、夕涼みがてらに川沿いを歩き、橋の欄干から行き交う小舟を眺めて一服つけようとしたところを。
化学は実験中、薬品液の加熱時間を確かめるべく懐中時計の上蓋を開き、分針を凝視している最中。
女子は、刃を落とさせた大刀が手元に戻り、検分しようと、正絹で織られた刀袋から取り出したとき。
はてさて。座敷わらしから三つ編みまで、時代の隔たりは相当であろう。
が、何れも妖鬼は電光石火。瞬きよりも速く間合いを詰めると、次の瞬間、既に器を奪い取っていたそうな。
それでも、姐御だけは着物の袖口に忍ばせていた拳銃を抜き出せるだけの余裕があったとかで、文字通り、鬼気迫り来る妖鬼に向けて、全弾、最後の一発まで撃ち続けたというのだから、まったく大したものである。
つまりは、《妖鬼に魂を弾き飛ばされたとき手にしていた物》という、その状況こそが条件であるからして、個々人各々、憑ける物も限定されると幼女は語った。
『じゃ、例の品々に憑けば屋敷の外に、結界の外に出られると?』
誰に訊ねたわけではないが、その経緯と流れからか、最初に奥の手と言い出した女子が得意気な面持ちで頷いた。
『左様にござる』
『でしたら、何も問題ないじゃないですか。どなたか僕と一緒に―――」
『いやいや。待たれよ。申したでござろう。出るだけであれば、と』
『は?』
『憑いたら憑いたままでござる。そこから抜け出ることは不可能にござる故、連れ出してみても、そなたの望みに応うことは出来ぬでござるよ』
『何故?』
『…いや。何故と問われても、拙者は専門外にござる故。そうしたことは…』
『へ? …わ。わたし…?』
と返答に窮した女子から目配せを受け、これまでのやりとりを端のほうで静かに聞いていた三つ編みの小夜さんが、困惑気味に咳払いを一つ。幾分、難しい表情で切り出した。
『こほん…。あのですね。あの。立花さんも、ご覧になりましたよね。わたし達のお墓』
何とも突拍子のない話題変化に戸惑いつつも、僕は、床の間から玉砂利の白州に向けて遠目に見た光景を、おぼろげな記憶の中から手繰り寄せた。
『…ああ。はい。見ましたね。言われなきゃ墓とは気づかないくらい、小じんまりしたやつを…。あれ。中は空っぽと聞きましたが、本当に墓なんですか?』
『ごめんなさい。わたしも詳しいことは知らなくて…。ですけど、わたし達の魂が現世にこうして存在していられるのは、あそこにあるお墓が繋ぎとめてくれているから―――らしいのです』
『墓が? 魂を?』
『はい。さらに言うと、そうして繋ぎとめた魂を、結界が保護してくれているのだとか。お墓があって、結界があって…。だから存在を保てているとのことなので、原則、結界から出ることは不可能という理屈になりますね』
『であるのなら、物に憑くことで屋敷の外にも出られるという、その理屈は?』
『代わりとなる結界があれば、です。あれら件の品々は、言うなれば、わたし達にとって器も同じ。それが肉体であれ物であれ、器とは、魂が宿り定まるための結界ですので』
何だか、ますます理解らんな。
『なるほどね。とにかく、役に立たないわけだ。連れ出してみても』
『役に…』
むろん、僕に悪気はなかったが、後から思うと、まったく酷い失言であった。
小夜さん、不意に表情を曇らせると、すぐに、それを隠すように俯いた。
『…役に立たないわけでは。その。見聞きは問題ないですし。ただ、誰かと会話をしたり、そういうのが無理というだけで…』
『…そ。そうですか。そうですよね。あの。何か、すみませんでした…』
ちゅうても、役立たずなのは事実だがな。
『むぅ? 皆さん、何の相談です?』
とまあ、何ら生産性のない不毛な会話は、そんなこんなで終いとなり、電話帳を取りに行ったはずも何故か空手で戻った美咲先生は、どこまでも甘く過保護な馬鹿親のように、何とも人の好い笑顔を見せたのだった。
『おむすび?』
『お腹が空いているのでしょう?』
『そりゃまあ。はい。それなりに…』
『ならば、食べてから帰りなさい。お味噌汁も作りましたから』
この短時間で、何と手際の良いことよ。
『立花君。あなたに自覚はないでしょう。が、まだまだ体力は落ちたまま。とても弱っている状態です。このままでは、お母様に合わせる顔がありません。少しでも早い回復を。そのためにも、沢山お食べなさい』
『またまた。ちと大袈裟じゃ―――』
『あのね。立花君。わたくしは、親御さんからお預かりしている大事な御子息を、命の危険にさらしたのです。その上、衰弱したまま帰したら、教師どころか、人間としても失格でしょうに』
『はあ…』
家に帰れば、百合寧さんの手料理が待っている。
しかしながら、屋敷に一人きり、美咲先生だけを残して帰ることに後ろめたさのようなものを感じていた僕は、その気遣いを素直に受け入れることにした。
居ても役立たずな幽霊もどきは論外だし、美咲先生は大丈夫なんて言うけれど、僕にしてみりゃ落ち着かないし、三矢と連絡が付かない中、なるたけ傍にいたいと思うのは、誰もが持ち合わせている人情であろう。
故に、奥の間へ通された僕は少しでも長居をしようと、握り飯を頬張りながら、美咲先生が食いつきそうな話題を振ったのだ。そう。名立たる戦国武将たちの行く末を、である。
しかして、二百六十年以上も長きに亘り、天下泰平の世を治めた江戸幕府の礎、征夷大将軍・徳川家康という人物の卓越した先見の明と老獪さを、学校で習う歴史とは違う角度で知ることとなったのだった。




