風の気まぐれ、天のいたずら―――あゝ美しき哉、七重宝樹よ―――空行あり改訂版

《急》

〔壱〕育ち盛りは燃費が悪い。

「あ。そろそろ。そろそろです。あの角を左折していただくと、ちょい先のほうに蔵(・)がありますので、その手前の角を右に折れた一軒目。大きな松のある平屋です。門前ではなく、離れたところまで進んでから停めてください」

　肉体に関しては、そりゃもう、美咲先生の御恩返し(・・・・)が効いたの何の。疲労のひ(・)の字もないほどに、出掛ける前より元気なほどにまで回復した。

　のだが、言わずもがな。精神的疲労はそのまま。なもんで、こんなことを言うと叱られそうだが、こうして語るのも億劫だ。

「へへっ。兄ちゃん、ツラに似合わず細かいね」

　さて。客商売を舐めているのか、若造の僕が舐められているのか。何れにせよ、性格と容姿は関係ないと思うのだが。

「心配しなさんな。ちゃんとナビ入ってっから。料金だってチップ込みの前払い。何なら東京観光案内してやろうかってくらい、充分以上に貰ってる」

　この野郎。そういうことは、もっと早くに言いやがれ。

「へへっ。行くかい？」

　東京観光はどうだって良いが、出来ることなら、天吹さんの家に行ってくれ。

「そうですね…」

　けどまあ、住所も知らなきゃ、道にも疎い。誘導なんざ、逆立ちしたって無理である。結局は大人しく、このまま自宅へと向かう車に揺られる以外にないのだが。

「…なら、またの機会にでも」

　天吹さんの家には、これまで幾度も招かれた。

　港区の電波塔から、それほど遠くは離れちゃいない。それくらいのことは判っている。

　だが、それも富裕層ならではの防犯というやつであろうか、大きな豪邸には違いないのだけれども、何ら目立たない感じの、これといった特徴という特徴のない、ひっそりとした佇まいなので、それを口頭だけで説明するのは難しい。

　それに、山の手も山の手である港区ともなれば、石を投げて当たった家は、大方そんな感じだし、電波塔云々だけで辿り着けるほど、東京の街も安易ではない。

　そもそもだ。代々続いた江戸っ子っちゅうても、その誰も彼もが東京の街や道に精通しているわけではなく、むしろ、その真逆である者のほうが多かったりする。

　ちょいと歩けば、地上も地下も縦横無尽。蜘蛛の巣のように張り巡らされた鉄道路線が引っ切りなしに往来しているし、大抵の事は、近所の商店と施設で事足りてしまうから、何か特別な用でもない限り、わざわざ他所まで出張る理由もない。

　つまり、日常生活に於ける行動範囲が極めて狭い出不精なので、うっかり迂闊に遠くへ足を伸ばしたりすると、たちまち迷子になってしまうのだ。

　ちなみに、今回この使い走りに出掛ける際、歩いて行くと言った愚兄のことを、双子の妹一号・二号がやたらと心配していたのは、じつを言うと僕という人間が、極めて類稀なる方向音痴であることを、誰より知っているからである。

　あれは、いつであったかな。豊島区は駒込にある学園寮・紅頭の部屋で、新世紀何たらのテレビ版ってのを、狂気と言っても過言ではないほど、異常に細かい解説付きで、延々、徹夜で観させられていた二日目だ。

　真夜中も真夜中の深夜二時過ぎ、突然、冥王星から通信が入ってしまった電(・)波(・)な紅頭に今日は帰ってくれと懇願され、当然ながら二つ返事で快諾した僕は、自宅のある三ノ輪まで、のんびりと歩くことにした。

　ところがだ。さんざ歩き回って迷子になった挙げ句の果てに、気がつきゃ何故か雑司ヶ谷。

　で、最終的に、始発の路(は)電(こ)に揺られて帰ったことがあるほど、道とか地図とか、そういう類が、分数の割り算並みに不得手なのだ。

「天松(てんま)」

　真新しい玄関戸をがらりと開ければ、そこでそうして僕の帰宅を待ち侘びていたのか、それとも、待ち切れずに出掛けてしまおうとした矢先なのか、母、双子の妹一号・二号、百合寧さんまでもがそこにいた。

「あ。遅くなりまして、すみません。ただいま戻りました」

　家内という言葉のとおり、家と子を守ることが、妻であり母である者の務めだという、何とも古風な信条の女(ひ)性(と)である。

　見れば、日頃は滅多に袖を通すことのない訪問着姿。どうやら、本当に高崎だか桐生だかまで、本気で向かうつもりらしい。

「お客様へのお届け物は、きちんと済ませてきましたか？」

「はい。これといった問題は…」

　あり過ぎて、上手く言葉が繋がらない。

「では、参ります。天松。留守は任せましたよ」

「はあ…。しかし、この時間からですか？」

「当然です。理由はともかく、父子が揃いも揃って担ぎこまれたというのに、その身内が誰一人駆け付けなければ、二人に恥を掻かせてしまいます」

「恥なら掻いていますよ。すでに充分」

　途端、厳しい表情でぴしゃりと苦言。

「当人の問題ではない。世間とは、そういうものです」

　諸君も理解したであろう。こんな感じの母(ひ)親(と)である。

「天松。おまいだって世が世であれば、とうに元服している年齢。もう大人なのだから、そういうことを疎かにしてはなりません。そんな調子では、おまいの先々が思いやられて、いつまで経っても母は心が休まりませんよ？」

　早く行け…。

「では、参ります。後は頼みましたよ。天松」

　お気をつけてと押し出すように見送ったところで、上り框の隅にいた百合寧さんから、遠慮がちに声が掛かった。

「お帰りなさい、…と身内でもない私が言うのも、尋常でなく変かしら」

「何を。これからも毎日、五十年後も言っていただきたい」

　などと与太を飛ばしているところへ双子の妹一号・二号。

「兄上。百合寧さんが夕餉でお作りになった北欧風茶碗蒸しと」

「鯖の味噌煮がもう絶品。北欧風印度風味仕立てですわ、兄様」

　いや。それって多分…。

「天松くん？ あまり食欲が？」

「いやいや。そんなことは」

「だけど、尋常でなく顔も悪いし」

　色です。色。

「何か尋常でないことでも？」

　現実とするには、あまりにも馬鹿馬鹿しく。

　が、悪夢とするには、あまりにも生々しく。

　で、まだまだ未成熟未達な人間の僕は、人生って不思議だ…、と簡単に受け入れられるほどに寛容ではなく、且つ、やはりまだまだ未成熟未達な僕には、そうしたことを処理するための経験も乏しく、どうしたものかと悩みに悩む。

　何故なら、百合寧さんとは共に二度も闇側へと渡り、天吹さんの奪還と、仔猫のような少女、または、少女のような仔猫の救出を助けてもらった仲であり、双子の妹一号・二号も、そのあたりの事情は、すべてを詳細に知っている。

　なもんで、判断に困るのだ。この度の一件を皆に打ち明けるべきか、それとも、下手に相談して心配をさせるよりも、今はまだ胸の内にしまっておくべきかと。

「いやいやいやいや。何だか急に食欲満々です」

　美咲先生の家で握り飯を七つも馳走になったというのに、かなりの量を平らげてしまった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でございました」

「とても美味かったです」

「本当？」

　独特な匂いで判っちゃいたけど、案の定、北欧風印度風味仕立てな鯖の味噌煮はカレー味。北欧風茶碗蒸しはプリンであった。

「はい。その。何と言うか。そう。ちと風変わりなところが何とも絶妙」

「基本的なことは、お母様に。手枷足枷(てかせあしかせ)、尋常でなく教わりましたから」

　この、たまあにおかしな日本語を喋る帰国子女は、からからに乾いた高野豆腐が水を吸収するが如く、すぐに何でも習得してしまう万能型の才色兼備。おかげで、闇側でも何度助けられたことか…。

　と、そんなことをぼんやりと回想しているところへ、手巻き式の古びたぼんぼん時計が、廊下の片隅で一つだけ鐘を鳴らした。七時半である。

　仔猫のような少女、あるいは、少女のような仔猫が、夕方には戻るようなことを三矢は言っていたけれど、未だに姿がないということは、もしや、まだ二日酔いが治らない？

「あの。百合寧さん」

「はいはい？」

　この際だ。百合寧さんにだけでも話しておくか…。

「あのですね。あの―――」

「兄上。もう夕餉はお済に」

「なられましたか？　兄様」

　僕への給仕を百合寧さんに託し、自分達は風呂の用意をしに食堂から席を外していた双子の妹一号・二号。戻るや否や、僕の出鼻をあっさり挫いた。

「兄上。とても良い塩梅に」

「湯が沸きましたわ、兄様」