〔拾伍〕戦国武将は幼女好き。
「―――ってことですよね? それ」
尿意騒動で座礁した、陰謀黒幕説である。
半ば決め付けながらも問うた僕に、ううん…、と美咲先生は首を振った。
「急っ勝ちですね。相変わらず。それは早合点というものです」
「いやいやいや。お言葉を返すようですが」
僕は美咲先生の両隣に姿勢良く正座っている、化学と姐御に目を配った。自信を持っての反論に、共感という名の同意を得るべく。
「話の流れと、あんな口振りをされたなら、誰でも思いますけどね。家康が光秀に殺らせたと」
「そう…?」
「はい。余程のひねくれ者でもなければ」
ところがしかし、化学も姐御も美咲先生同様、そうかしら? と無表情のままに小首を傾げた。
「やれやれだね。小僧さん。ちゃんと話を聞いてたかい? ちゃあんと」
「一応、訊くけど。一言でも、彼女が口にしたかしら。命じた、…と」
早くも形勢不利である。
「…いや。まあ。その。そうした言葉は何も…」
すると、先ずは姐御が、ひねくれ者を見るような視線を落とし、へらへらと笑いながら、相変わらずの軽い口調で言ってきた。
「小僧さんの言うやらせたってのは、家康が光秀に指示を下し、あの突拍子もない大謀反劇を実行させた、真の主犯だくらいに思っているんだろう? けども、だとしたらそれは勘違い。何ら謂れのない、まったくの誤解ってやつさね」
まんまな指摘に言葉を失い、じっと黙り込んだところへ今度は、化学が縁のない眼鏡の奥から、鋭く射抜くような眼光を差し向け、容赦なしに追い討ちを掛ける。
「光秀を唆し、それが謀反の引き金となった。要するに、殺人を教唆しただけで、指示やら命令やら、そんなこと誰も言ってない。あの説明の中で、二者間に主従的関係が築かれていたと解釈出来る要素が何処にあるのか、キミが急っ勝ちや早合点ではないというのなら、是非とも聞かせて欲し―――」
「まあまあ。もう充分でしょう」
これ以上、こてんぱんに言い負かされる姿を見るのが忍びなくなったのか、美咲先生、二人のことを、やんわりと宥める。
「どうか、それくらいにしてあげてくださいな」
それを聞いた僕は僕で、言い負かされたことの悔しさ紛れに、少々ぶっきら棒な口調で詫びを述べ、下げられぬ頭の代わりに、きつく深く瞼を下ろした。
「僕が急っ勝ちでした。僕の早合点でした。すみませんでした」
「ね? 彼に悪気はないのです。本人も認めていますし、こうして謝ってもいますので…」
と苦笑の美咲先生。理解りゃ良いのよ理解りゃ―――といった感じの、少し勝ち誇ったふうな表情が腹立つ。
「たしかに、ありました。徳川家康という人物は、待つときは待つことが出来る人なので、だからこそ大きく膨れ上がった、黒く邪まな目論見が。それについては、否定しません。ですが、裏陰で糸を引いていたわけではないし、光秀も、操られていたわけではない。謀反を決めたのは、彼自身の意志によるもの。まあ、討ち入る際に『敵は本能寺にあり』と言ったかどうか、そんなことまでは知りませんが?」
べつに訊いちゃいないでしょ。
「となると、ますます解せなくなりますね」
元々、光秀には何か、根深いものがあったのだろう。それが私欲か怨恨か、そういったことはともかく、神の如く崇拝していた主君に反旗を翻してしまうだけの、如何ともし難い諸事情が。だからこそ、家康の言葉が引き金となり、光秀を、あれだけの暴挙に踏み切らせた、…と。
まあいい。それは。
また、家康にもあったのだろうな。信長が亡き者となることで得られるはずの、何か特別大きな私利得が。だからこそ、まるで光秀の心を見透かしたように、まんまと唆して利用した、…と。
まあいい。それも。
しかし、である。しかし、何故その引き金が、件の母娘なのだろう。
「すみません。ちと先走りで伺いますが、もしかして、光秀も天啓とらやを?」
「如何にも」
「やはり、そうでしたか…」
けれども、延暦寺の焼き討ちや石山本願寺を攻め落とす際、光秀は積極的に立ち回り、多大な功績を挙げたと聞いている。そうした人間が神仏に対して、そこまで傾倒心酔するものか?
「…うふふ。何やら、思案に耽っていますね…。ですけど、それほど難しい話ではありませんよ?」
…なら、良いけどな…。
年号は天正、その八年。
すべては、関東を。延いては、江戸を守るため。
織田軍の強大な力を恐れた北条家四代目当主・氏政は、信長に臣従を申し出て、軍事同盟を結ぶことに成功しました。
その後、同じく同盟を結んでいる徳川軍と共に、武田氏の本拠点、甲州征伐にも参戦し、甲斐武田家の滅亡に大きく貢献したのです。
ところがどうして、何も恩賞が得られなかったのみならず、織田家家臣団、その四天王である滝川一益が、目付け役として派遣されてしまう。何もかも、まったく当てが外れてしまったのです。
となれば、信長の関東統治も時間の問題。慌てに慌てた氏政は、あの手この手で懐柔を試みました。
しかしながら、それでも色好い返事を得ることはなかった。
やがて、何とかせねばと懊悩する日々を過ごしていた氏政はついに、あの家康へ泣きついたのでした。
まだまだ幼少の時分、家康は人質として織田家で暮らしていたこともあり、八つ違いの信長は、何かと面倒を見てもらった間柄。
その信長を陥れることに、何の躊躇いもなかったと言ったら、幾ら戦国の世だとしても、それはさすがに嘘でしょう。
けど、行く行く先々の未来に思いを馳せれば、信長という存在は邪魔でこそあれ利得は薄く、いつ何時、己に刃が向けられるか、あの荒くれた気性では、それこそ知れたものではない。
また、その信長が少女の妖力を、娘の神秘を手に入れたとして、その後どういう行動に出るか、皆目、見当も付かなかったのです。
天下布武。我が覇道の妨げとして、母娘を排除しようとするやも知れぬ。
しかして、信長という奇将なればこそ、それが異形だとても厭わず与し、本当に妖鬼の軍隊を築き上げてしまうやも知れぬ…。
家康は、そうした諸々を憂いた結果、旧知の間柄である氏規まで同席させ、代々これまで北条家が守り続けてきた秘密、洞窟へ繋がる社と、そこに祀られる母娘のことを、光秀に打ち明けたのでした。
尚、光秀が天啓を得たのも、このときです。
密会の後、光秀は丹波に置いて来た影武者が露見することを案じ、早々に江戸を発ちました。
が、その別れ際に、こんな言葉を残しています。
このまま殿が天下人となられれば、戦乱の世は終わりを告げる。
しかし今度は、妖鬼が悪魔が君臨し、混沌とした世の幕を切って落とすだろう。
私は、殿に大恩ある身。明智の一族郎党は末代に至るまで未来永劫、その御恩を片時も忘れてはならぬ。
ならば、私も報いねばならぬ。
大恩ある主君・信長様を、忌まわしき魔王になどさせてはならぬ。
如何なる手段を以てしても、この私がお救いをせねばならぬのだ…、と。