〔拾肆〕多数決は、数の暴力。
日直の号令で解散し、鞄を片手に立ち上がろうとした僕の肩を、不意に背後から伸びた手が、むんずと掴んだ。
『フ…。一応、訊いてやる。明日からの冬期休暇、何か予定をしているのか?』
唇の片端を軽く吊上げ、フ…、と鼻で嗤うのは、由良特有の癖である。
『ま、あったとしても、すべてキャンセル。現時点を以て、貴様の予定は埋め尽くされた』
あ?
『何だ、どうした。非難がましい表情をして』
てめいがさせてるという自覚はないのか。
『いいのか? この俺に、そんな横柄で。後悔しても知らんぞ』
『あのな…。予定も何も、休暇の殆どは補習と追試だ。お前みたいのに付き合ってられるほど暇じゃない。遊び相手が欲しいなら、紅頭にでも―――』
『だな。貴様に休暇なんてものはない。何だ、きちんと理解しているじゃないか。思いの外、感心感心。中々だぞ。褒めてやる』
と、にやけながら言い、由良は鞄から何やら取り出した。
『何だ。それ』
『中間と期末の答案。そのコピーだ。貴様のな』
『ああ?』
疑いながらも確認すると、紛れもなく、それは僕の答案用紙であった。
『どうして、お前がこんなものを』
ちらと横目で由良が見る。じつに腹立たしい表情で。
『必要か? 説明』
しないつもりか。
『フ…。よかろう。ならば、ようく聞くがいい。この冬期休暇中、貴様という男の脳に、とことん皺を刻み込む。プリンスメロンがマスクメロンだ』
『何を言ってんだ? お前』
『フ…。貴様のような極めて学力の低い男が、生半可な補習程度で何が補完されるのか。そもそも、自分は何が理解らないのか、それすら理解っていない体たらく。そんな奴に通常どおりの授業を受けさせ、足りない分を補習で何とかしようってなところに根本的な無理がある』
言いたい放題だな。
『そこでだ。俺様が、短期集中型特別強化補習授業の講師を務めることになった。当然、貴様専属だ。なあに。存分、心行くまで感謝してくれ』
『…と。特別、何だって?』
『短期集中型特別強化補習授業。気の毒に思ってな。教職員方に提案したら、即時採決、満場一致で可決された』
『何だと?』
『当然だろ。この学園で補習授業なんてものが必要な生徒は、唯一、貴様くらいなものだからな。貴様を受け持っている教師は、たった貴様一人のために、わざわざ補習をしに来なければならんのだぞ。学園は長期休暇中の部活動を全面禁止としているから、教師にとっても、丸々、長期休暇だというのに』
何と迷惑な話だろうか。
『第一、今回の数学にしてもだ。貴様は微分の途中計算も…』
ふと答案に目をやり、途端、怪訝な表情である。
『貴様。ひょっとして、九九算が出来なくないか?』
分数の割り算もな。
『…い。いや。いい。何も言うな。言わないでくれ。ふぅ…』
何だ、その深い溜め息は。
『とにかく。この際、自力で及第出来るだけの学力を身に付けろ。来期なら範囲も狭い。これまで習ってきたことの応用だ。ここで踏ん張れば何とかなる』
『何だか、また上手いこと口車に乗せられているような』
『邪推はよせ。どうして乗せる。俺には一銭の得もないというのに』
実験したいから。
『いいか。俺は自分の損得を抜きで、貴様の未来を案じているんだ、親友として』
同級生だよ。ただのな。
『そう。この冬を境に、貴様は生まれ変わるのだ。俺様の照らす光の導きで、だ』
『…ま。まあいい。よくわからんけど、わかった。ちゅうても、どうするんだ?』
『どうするとは?』
『補習だったら、時間割とか―――』
『フ…。頭も察しも悪い奴だな。決まっているだろ、そんなもの』
『何だ』
『合宿だ』
ふざけんな。
『そうだな。場所は…』
と指先で顎を軽く摘みながら、由良は意味ありげに僕を見た。
『…まあ、桜の間なら。それに、元々あそこは客間だし』
おめいが言うな。
『除夜の鐘。煩悩を消し去りつつの年越し蕎麦。元日は、初日よりも先に表へ出て待ち、拍手を打って、お節と雑煮。それこそ日本人の正しい元旦』
二年越しで居座るのか。
『俺は、お母様の手料理が大好きでな。とくに煮物が』
合宿って、案外、それが理由なんじゃ…。
『頼んでおく』
『いやいや。催促したわけでは。それよりも、だな…』
何故か照れくさそうに小指の先で眉間を掻く。何だ。
『その。お二人は?』
『は?』
『ほら。その。あれだ。最近めっきり寒くなったし。風邪とかな』
やっぱり、そんな理由なんじゃ…。
『言っておく』
『あ。いや。気にするな。馬鹿。ちょっと気になっただけだから』
おめいが気にするほうが変だろ。
『まあ、とにかくだ。すべて俺に任せておけ。義兄よ』
補習とは、追試で及第するために必要な学力と理解度の向上が目的であるから、必ずしも教師が指導しなければならないという理由は何処にもない―――といった屁理屈を捏ねて提案した由良も由良だが、それに納得了承をする教師も教師だ。
兎にも角にも、そんなこんなで現在に至り、これまでの三年間、毎度毎度、長期休暇は由良を特別専任講師とした、短期集中型特別強化補習合宿の生徒である。
「この数ヶ月。彼とは、何かと顔を合わせることが多く、十日ほど前にも―――」
「義手の調整にでも来ましたか?」
「ど。どうして、それを?」
そんな義手が作れるのは、奴か、奴の父親くらいです。
「まあまあ。そのあたりのことは追々後々。それよりも今は」
と先を促された美咲先生、何とも疑わしげに片眉を吊り上げた。
「彼からは何も…。あなた達のことは一切、何も聞かされてはいません。むろん、わたくしのほうも。だって、甲でもない彼に話したところで、せせら笑いをされるだけ。精神を病んでいるのだと、おかしな誤解をされるに決まっているもの」
でしょうね。
「なので、彼の名誉のために言いますが、彼は何も喋っていません。わたくしも、何かを吹き込まれたとか、そういうことはありません」
至極、納得である。そうなのだ。良く良く、由良という男の性格を思い返せば、他人に余計なことをぺらぺらと喋るほど、軽はずみな人間ではなかった。
何故なら、それは口が堅いとかではなくて、自分だけが知る他人の秘密は、自分だけが知る秘密のままにしておきたいから。
「なら、あいつの名誉なんざ、奈落の底に落ちたって構いやしませんが、僕からも一言。その腕のことは、何一つ聞かされていませんよ」
「…のようですね。存外、律儀なのかしらん…」
違うと思います。
「で? その腕の怪我―――って。最早、怪我って次元じゃないですが、それを、奴には何と説明したんです?」
「…そ。その。日曜大工で…、と」
どんな日曜大工ですか。