〔拾〕大きい嘘ほど露見しない。
それにしても、先生にとって、これは意外な誤算でした。
だって、これほど熱心に耳を傾けてくれるなんて、思いもしませんでしたから。
なので、これは嬉しい誤算です。
そのため、何かと色々端折ってしまいましたね。ごめんなさい。
たしかに、ざっくりと部分的に聞けば、朝興の行動は支離滅裂。いかれとまでは言わずとも、性格に問題のある、困った領主でありましょう。
でも、そうした行動の根底には、幾つかの、領主ならではの深い思惑があったのです。
一つは抑止力。これは先ほども話しましたね。
虎視眈々と手薬煉を引き、今か今かと仕掛けどころを探っていた氏綱―――このとき既に、北条と改姓しています―――が、遅かれ早かれ挙兵して、武蔵へと攻め寄せて来ることは判っていた。
だからこそ朝興は先んじて、氏綱を牽制しようとしたのです。
そう。氏綱に、相模の国に、隣国・武蔵の戦力を過大に見積もらせることが狙いでしたから、内容は二の次。妖鬼の兵を味方につけた。あるいは、神通力を宿した少女がいる等。噂が一人歩きで誇張され、そのまま氏綱の耳に届いてくれればと、それで侵攻を思い留まってくれればと、戦を望まぬ朝興としては、そうなることを切に願っていたのです。
と同時に朝興は、その真逆も有り得ると踏んでいた。
妖鬼騒動。起きたことは事実ですが、少女と娘と的屋の他には、誰一人として、妖鬼の姿を見ていません。
また、洞窟へと案内され、少女から事の顛末を語り聞かされた朝興ですら、得心こそしていながらも、どこか信じられない気持ちでいた。
なら、そこに滅茶苦茶で出鱈目な尾鰭背鰭が付くことで、武蔵という国の価値が大暴落してくれることを、誰より期待したのです。
どうでしょう。妖鬼などという正体不明な魑魅魍魎が跋扈する国―――と氏綱が知ったなら。
とくに、江戸は寒村ばかりの、荒れに荒れた湿地帯。雨季には河川から水が溢れ出し、海に面しているので潮入りも酷く、ろくに農作物も育ちません。
奪ったところで厄介な事を背負い込むだけの、骨折り損の草臥れ儲け。そこには価値も魅力もない。
そうです。そうした実状を慮った氏綱が、その矛先を江戸以外、延いては、武蔵侵攻を思い留まるのであれば、それだけでも見事、朝興の戦略勝ちなのです。
ただし、どちらにも共通するのは、その大部分がはったりであるという点。
つまりは、不明確不明瞭、有耶無耶であることが肝心ですから、そうそう真実を知る者が存在していてはならなかった。結果、大勢沢山、多くの血が流れることとなったのです。
尤も、工事を始めて間もなくのこと。江戸は北条軍の侵攻を受け、朝興は不本意ながらも、逃亡を余儀なくされてしまいました。その後、朝興は河越城にて病死。
故に、坑道の掘削工事が再開され、ようやく開通したのは、氏綱が嫡男の氏康と共に南関東を掌握した後のこと。朝興の時代も含めると、じつに十三年もの時間を経て―――むぅ?
「てことはですよ。その北条何某は、中途だった工事を続けたと?」
「氏綱に氏康。そうです。武蔵の国を占領した後に、朝興がやり残した工事を引き継ぐ形で進めました」
「何故?」
「何故って。あのね。立花君。それを訊きますか。そんなの、彼らも朝興と同様、幼女に神の姿を重ね見て、そこに天啓を得たからでしょうに」
いやはや、何とも。幼女、恐るべし。魔性の女というやつか。
「それ以降、鎮守の生き神として祀られた母娘は、関東一円を支配する北条政権の絶対的庇護下に置かれ、また、五代目当主・氏直は、秀吉が関白となった後々まで恭順することなく徹底抗戦。それで滅亡しようとも、その支配権を頑なに守ろうとしたのでした」
「それって母娘を守るため?」
「そうですね。あるいは子供だったのかも」
「子供?」
「時代が時代。神や仏に対する思いは、わたくし達の想像よりも、遥かに重く尊いものでしょう。氏直は、その神を手に入れたのですよ。朝興も然り。馬鹿げた坑道まで掘らせ、それを独り占めしようとした。言うなれば、お気に入りの玩具は誰の手にも触れさせたくないという、まるで子供のような気持ちだったのではと思うのです」
「なるほど。そうして解説されれば納得です。だとしたら、やったことは非道ですけど、少しは気持ちも理解ります」
「そう?」
「ま、男なんてのは元来、馬鹿で単純な愚か者。幾つになっても、子供と変わりゃしませんよ。むろん、僕も含めてね」
と嘲笑まじりの自虐を聞いた美咲先生は、可笑しそうに、くすくす笑った。
「そうですか。ならば、その馬鹿で単純な最たる愚か者は、後の征夷大将軍・徳川家康公、その人であるかもしれませんね」
「は?」
「関白・秀吉の命を受け、小田原征伐の先鋒を務めた家康は、何せ、実娘が氏直の正室ですし、元より、北条家とは敵対国だった時期もあれば、同盟国だったこともある、非常に縁の深い関係なのです。…理解りますか? それが何を意味するか」
狸と称される所以だな。一族以外不出の秘密まで握っていたとは。
「四代目当主・氏政の弟であり、氏直の叔父でもある氏規とは、幼少の時分、共に今川家の人質として駿府に滞在していた旧知の間柄。幼くして同じ境遇に置かれた二人が心を通わせるまでに、それほど時間は掛からなかったでしょう。おそらく、そうして時間を過ごすうち、心を許した氏規が他言無用にて、こっそり秘密を打ち明けたのだと思います。また、家康も律義者なので、それを胸の奥に仕舞い込み、後々まで他言することはありませんでした。…そう。あの明智光秀に、謀反を唆すときまでは…」
おいおい。これまた突拍子もなく、超大物武将の登場である。
けどまあ、陰に黒幕がいたなんて話は、べつに愕くほどのこ…。
「むぅ? どうしました?」
…こ。これはまずい。まずいぞ。おい。まずいだろ。これ。
「立花君?」
「あ。あのですね。あの。非常に申し上げ難いのですが…」
「何です?」
「はあ。その。急に突然、突発的に、迸る熱い情熱で思い出を裏切るくらいの強く激しい尿意がですね…」
「なっ。ちょっ。ちょっと。ちょっと待っ―――」
「あ。や。まだ少しくらいは。けど、それほど長くは厳しいかと…」
「…そ。そう…。では、思いの外、体力が戻っているようですね」
「どうでしょう。倦怠感こそなくなりましたが、まだまだ身体は痺れたままだし、ろくに動けもしないし、触覚だって、殆ど戻っちゃいませんが」
途端、頭上の日傘が嘲笑まじりに口を開いた。
「あら? どうやら四肢胴体だけでなく、脳味噌も痺れたままですわね? 普通、肉体の回復は内部から徐々に始まり、生命維持に必要な基礎体力を戻すのが先ではなくて? 触覚云々なんて、それからずっと後の話ですわよ?」
そうかよ。なら、体力だけは、それなりに戻ってるのな?
「あの。じゃ、そろそろ何とかなりませんかね。例の小筆で」
「あら? わ、た、く、し、は、いつだって構いませんわよ?」
と日傘は美咲先生に向けて言い、何故か楽しそうである。
「わかりました…。ところで、立花君。首は動かせるのですか?」
「首? …ああ。言われてみれば。はい。たしかに。先ほどより」
動くようになったと言っている最中、布団から飛び出した二本の腕が、僕の顎と頬骨をがっちり掴んだ。
「いいですね? 先生が許可するまで、絶対、どんなことが起きようと、こちらを振り向いてはいけません。これは、絶対です。槍が降ろうと弾が降ろうと」
ぐりんと顔面を真横に向けられて、一体、何が何なのやら。
「返事をなさい、返事を。いいですね? わかりましたね?」
「…は。はあ。しかし、槍だの弾だのと物騒な。仮に、妖鬼が顕われても?」
「顕われても。それに、妖鬼が顕われるときは判りますから」
何ですとぉ?
「立花君。あなたも聞いたでしょうに。あの耳障りな音を。あれは、妖鬼の歯軋りです。所謂、蝙蝠のように音の反射で、対象となる何かを探っている―――というのが一応の仮説。何を探知しているのかまでは未知ですが、結果、自分の存在まで知らせてしまうあたりは、案外、妖鬼も間抜けですね」
もっと早く言ってもらいたいですね。そういう大事なことは。
「わかりました。じゃ、このまま動かなければ良いんですね?」
その問いに、美咲先生が無言で頷いたかどうかは定かでないけど、するりと布団から抜け出したのであろうことだけは、何とも心を揺さぶられる、艶かしい匂いで判った。
やがて、衣服を身に着けている、とっても生々しい衣擦れの音が周囲に響いて、絶対に振り向くなと言われた意味の理解に至った僕は、脳内が桃色の妄想で一杯に埋め尽くされてしまった。
…くそ。ぴったり密着してたのに。あの柔肌が、この腕や身体に押し付けられていたというのに。せめて僅かでも、この触覚が―――って。ん? 待てよ。ぴったり密着? てことは、もしかして僕もか?
…いや。だろうな。この場合、まず間違いなくそうだろう。
「立花君…」
「はい?」
「わかっていますね? 少しでも不純な想像をしたら」
またか。どうせ、葬儀にゃ出ないってんでしょ。
「あなたを殺します」
へ…?
「大丈夫。先生も、すぐに後を追いますから」




