〔壱〕どの家庭にも、何かと事情はあるものだ。
さて。聞くところによると、今や人生は百年の時代なのだとか？
なら、家業を継いだ後々までも、足腰が立たなくなるまで働くのだから、まずは適当な大学へ進み、のんびり生きることに決めた。
が、決めたのは、こちらの誠に勝手な一存なわけで、世の中、それほど甘いものではないらしい。
以下は、夏期休暇間近の進路相談、担任・美咲先生との一幕。
『あのね。立花君。朝方に見た夢は、他人に話さないほうが正夢になり易いと聞きますよ？』
『いやいや。朝方の夢を語っているわけではなくてですね、これは、華ある未来を夢見た結果の、熱く固い決意です』
『どうやら本気のようですね。うふふ…。先生、あなたの真剣な表情を見たのは、これが初めてのような気がします』
『それはよかった。恐縮です。ところがしかし困ったことに、我が家の台所事情は火の海で…』
『車です』
『ここはひとつ、国立―――』
『あのね。立花君。寝言は寝てから言うものですよ？』
して、紆余曲折。週明け、いつものように眠たい目を擦りながら学校へ行けば、何とまあ、美咲先生は性質の悪い病を患い、突如、期限未定で休職していた。
新たに赴任した代理教師は、どうしたって代理に過ぎず、そうした類を事務的に処理。冷めた笑顔で、僕に現実を突き付けた。
おかげで、良くも悪くも愚かな夢から醒めた僕は、卒業したらすぐに家業へ入るべきか、それとも、しばらくは他所で働くか、そのあたりのことで迷っている。
ってのに、そこへ前触れもなく我が家に押し掛け、玄関口で冬期合宿を宣言した由良が、視界に入ったというたったそれだけの理由で条件反応してしまった双子の妹一号・二号の跳び蹴りを喰らい、頭から玄関戸に突き刺さったのは、本日、冬期休暇初日の昼下がりである。
由良 由良。
毎度まったく懲りることのない、頭に糞が付くほどのいかれ野郎。
だが、難関も難関として、全国的にも名の知られている我が聖開学園に於いて、《天災》の二つ名を持つ男でもあったりする。
誰もが、由良を天才として認める理由は、じつに至って単純だ。
それは、もしかして、それってそういう病気なんじゃないか？ と疾患の一種を疑いたくなるほどに頭が良いからである。
入試に始まり、その後も、試験と名のつく類は悉く完全正解。
また、紅頭から聞いた話によると、個人学習に於いては、高校で習う勉強を全て四歳の誕生日には終わらせてしまい、それからは大学水準の勉強を開始。現在も、日々せっせと勉学に勤しんでいるというのだから、もう呆れてしまって、あんぐり開いた口が塞がらない。
つまりだ。外国なら飛び級制度で、とっくの昔に大学の修士課程を修了しているはずの由良という男が、僕みたいな人間と同じ教室で同じ授業を受けているという如何ともし難い馬鹿げた構図は、旧態依然とした日本の学校教育制度がそうさせているからであり、今年度の東大受験生にとって由良という男の存在は、天才というより、まさしく天災。奴がいる限り、首席はない。それが二つ名の所以である。
尚、誤解のないよう最初に言っておくが、僕が難関の聖開学園に高等部から入学出来たのは、けっして、実力ではない。その証拠に、じつは未だに分数の割り算が出来なかったりするのだから。
百メートル十秒台とか、時速百五十キロの剛速球とか、資産家の倅なんてこともない。
では、どうしてそんな奴が全国屈指の難関校に入学出来たか。
そう。それは、強運に恵まれていたからだ。
入試当日、試験会場付近にて、運搬用大型貨物同士の自動車事故が発生した。
そいつに巻き込まれた結果、自分でも何だかよくわからんうちに、とある少女の命を救った―――ことになっていて、これまた、自分でも何が何だかよくわからんうちに、気付くと棚から牡丹餅的に入学を果たしていたのだから、それを、強運の他に何と呼ぶ。
さて。前回、夏期合宿のときのように、微分・積分の美しい解き方なんて講義を延々と徹夜で聴かされた挙げ句の果てに、効果測定と称した由良特製の模擬試験も受けさせられ、しかも及第点に達していなければ罰則という名目のおかしな実験に付き合わされるような理不尽は断じて御免。双子の妹一号・二号を焚き付け、軽く病院送りにしてやろうかと本気で思った。
が、今回の参上は、予想外な人物を伴っていたのである。
「ごめんなさい。あの…」
高見 百合寧。
簡単、大雑把に言ってしまうと、百合寧さんは由良家に住み込んでいるお手伝いさんという立場になるが、世界万国共通、どの家庭にも複雑な事情の一つや二つはあるものだ。
スイスだかノルウェーだか、その辺の北国で暮らしていた百合寧さんは、不慮の事故で御両親を一度に亡くし、その際、当人も生死を彷徨うほどの大怪我を負い、三日三晩にも及ぶ大手術の末に何とか一命を繋いだ後、父親の親友であった由良の父・由利氏が身柄を引き取り、由良家で暮らすようになったのだそうな。
帰国子女として日本に戻ったのが六年程前。当時十四歳だと聞くが、それからは由良の義姉として暮らしてきた―――のかと思いきや、養子縁組はされておらず、戸籍上は他人のまま。
また、由良という人間は性根が腐っているので『他人は他人だ』などと憚らずに言うわ、偉そうに『百合寧』と呼び捨てて、酷いときには『飯炊き女』なんて罵る始末、許し難い。いつか必ず後悔させる。
「言われるまま付いて来ちゃいましたけど。その。尋常でなく、ご迷惑では？」
「何を。大歓迎です」
当分は意識を戻すこともないであろう由良の始末は一号・二号に丸投げし、僕は百合寧さんの手荷物、車輪の付いた、大きく重たい旅行鞄を、せっせと玄関口まで転がした。
一応、母に由良達のことを報告したら満面の笑みで快諾。来年も華やかな正月になると歓喜し、和装が日常の母は年季の入った桐箪笥から、若い時分に自分が着ていた黒い振袖を取り出した。
「百合寧さんには地味かしら？」
「とんでもない。尋常でなく素敵です。とっても」
僕は、振袖の話題で盛り上がる二人を残し、滞在中、百合寧さんに使ってもらう梅の間へと、玄関口から、ひぃひぃぜいぜい、息を切らして荷物を担いだ。
ちなみに、僕らがそれぞれの部屋を鶴の間だの桜の間だのと呼称しているのは、何も、この家が昔は旅館だったからなんて理由ではない。
それは、各部屋の柱と鴨居に施された、見事な飾り彫刻に由来。古き良き時代の素晴らしい職人技に敬意を払ってのことである。
「ん？」
「兄上。お客様用のお布団を」
「運んで参りましたわ、兄様」
