〔陸〕生きてる証は人それぞれ。
「立花君。ところで、どうです? 少しは、良くなったのではないですか?」
おお。おお。おお。たしかに。言われてみれば、たしかにである。
「はい。おかげさまで、すごく楽になりました」
あれほど酷かった倦怠感と、痺れも徐々に治まりつつあり、まだ僅かながらではあるけれど、手指の先や首の付け根辺りにも、ほんのり血の通う感覚が戻り始めているようだ。
「…けど、今しばらくは、まだ動けそうにもないですが…」
「そうですか。一応、変化はあるようなので安心しました。ならば、このまま話を続けましょう」
「はい。そうですね」
…って、肝心の僕がこんなでは、他にやることがないものな。仕方ない。
けれど、ものすごく不安である。こうしている今にも妖鬼が、ひょっこりと姿を顕わしゃしないかと。
また、瘴気とでも言うのだろうか、奥の片隅に祀られている御本尊らしき仏像の陰から、黒く怪しい靄―――って、おいおい…。
いい加減、この薄暗さにも目が慣れた。おかげで、改めて周囲に目を凝らし良く良く見れば、何故だか像は、こちらに背を向けているではないか。
ま、おそらくは、それも結界とかってやつの類なのだろうが、何とも縁起の悪い絵面である。
余計なものを見て余計に不安が募った僕は、止めときゃ良いのに提案してみた。
「美咲先生。僕を背負うなんてのは?」
「はい?」
「ほら。このとおり口は動きます。あの札のところまで、おぶってくれれ―――」
「ばっ。馬鹿おっしゃい。出来るわけないでしょ。そんな。そんなこと」
何をそんなに慌てとるのか。
「ですが、状況が状況ですし、これは中々の良策かと」
「中々でも、良策でもです。そのように淫らなことは出来ません」
淫らって、何だ。ただ背負うだけじゃないか。
「…だって。その。恥ずかしいもの…」
大正生まれの乙女ですか。
「いや。あの。たしかに。たしかに、美咲先生の華奢な体格で僕を背負うのは大変でしょうが、一応、試すだけ試して―――」
「みません」
「…ったく。あのですね。淫らだの恥ずかしいだのと言うのなら、今だって充分に淫らで恥ずか―――」
「黙りなさい。立花君。黙りなさい」
「…………。」
「それ以上、何か喋ったら、あなたのお葬式にも出ませんから」
ああ、そうかい。なら、そのときは、僕のほうから化けて出ますよ。
少女は著しく衰弱、…と、それでは少し語弊がありますね。
減衰。衰退。弱体。減退…。
そう。少女は、すべてに於いて減退しました。
それは、娘の命を繋ぐため。また、繋いだ命の維持のため。
正直、こういう言葉は好みませんが、少女は己が内に秘めたる《妖鬼の能力》の殆どを、石化の異能を放つと同時に、娘へ譲与していたのです。
朦朧とする意識で、幾度となく転びながらも気力で身体を跳ね起こし、ふらつく足取りで娘の元へ。
傍には空虚に遠くを見つめる妖鬼が、片足を宙に浮かせた状態で立っている。
少女は、怒りや悲しみ、それら、やるせない気持ちをぶつけるように跡形もなく粉砕すると、その場にへたり込んでしまいました。
娘は生きていました。それは間違いありません。
しかし、石化した娘の身体を、さらに強高硬度な鉱石が包み込み、まるで宝石の繭に抱かれて眠る、黒き濡れ髪の幼き人魚。
言葉を交わすことはおろか、見つめ合うことも抱きしめることも叶わず、母娘を隔てる冷たい壁は、少女から僅かな温もりすらも奪い取ってしまったのです。
その状態では、然しもの少女も手が出せず、ただただ―――むぅ?
「違います。手が出ないのではありません。出せないのです」
「だから、あれでしょ? あまりにも硬過ぎて」
「あのね。立花君。どれだけ硬くとも、所詮は石ころ。鉱物には劈開という特有の性質がありますから、面に対して平行に加わる力には、非常に脆いものなのです」
「どんなに硬くても?」
「どんなに硬くても。それは、あの金剛石―――ダイヤモンドであろうとも。単に傷が付き難いというだけですから、何か硬い物で叩いてやれば、あっさり愕くほど簡単に砕けてしまいます。ちなみに、これは授業で習っているはずですが?」
また余計なところへ飛び火した。
「娘と娘を包んだ鉱石は、言わば、一塊の融合状態。周囲を砕けば、娘の身体まで砕けてしまう。故に、何ら手を出すわけにもゆかず、ただ呆然と泣き濡れながら、途方に暮れるしかなかったのです」
「生ける屍ってやつですか」
「…とも、また少し違いますね…。心身共に、思考も代謝も完全停止。ですので、あくまでも便宜的な表現ですが、冬眠ならぬ凍眠状態。少女は娘の時間を止めたのです」
「…って、それを生きていると?」
これは、まったく野暮な愚問であった。何せ、この奇妙な連中のことを、死んでいないと断じた人だ。
「どうでしょうね…。受け止め方は人それぞれ。押し付けるつもりはありません。でも、少なくとも少女にとっては、それを守り抜くことが唯一の希望。生きる糧であったことは確かです」
「なるほど。つまり、確信していたわけだ。巳むを得ず、自ら娘を石にはしたが、いずれ必ず復活すると」
しかし、それが返事の代わりなのか、美咲先生は何も言わずに、深く短い溜息を吐いた。
「美咲先生?」
別段、落ち込んだ様子はないが、心ここに在らずである。
「あの。どうかされ―――」
「あなたったら、デリカシーの欠片も持ち合わせていませんわね?」
頭上で静聴していた日傘が、ぐいと僕を覗き込む。
「少し、よろしくって?」
何だ。
「あなたはこれから、母娘の行く末を聞くことになりますわね?」
だろうな。僕も、そのつもりだし。
「なら、その前に少し覚悟しておいたほうがよろしいですわよ?」
覚悟?
「だって、その結末が大団円だと、どうして限りますのかしら?」
どうして意地悪なのかしら?
「ま、あれさね。小僧さんにゃ、ちいと刺激が強いだろうからね。覚悟云々はともかく、余計な思惑や期待はしないで聞いたほうが、すんなりと受け入れられるってことさね。辛く悲惨な結末をさ…」
「左様。心頭滅却、火もまた涼し。頭を空にするでござるよ」
「大丈夫。その点、彼は心配ないわ。元より頭は空っぽだから」
「すごい。すごいですね。常に無我無心の境地だなんて」
「これ。小夜。そういう意味ではない。それと、お主らも。小僧をからうのも程々にの」
と諭してる割には、やけに楽しそうである。
要するに、おめいら、暇で飽きちまっただけなのな?
「立花君」
「はい?」
「少しだけ、歴史の勉強をしましょうか」
相も変わらず藪から棒に。
「随分、鋭角に曲がりますね。何です。急に」
「尤も、これは明るみに出ない闇歴史。表沙汰にならない裏歴史。勉強というより余談のようなものですから、試験では一切、何の役にも立ちませんが」
「いや。あの。聞くのは吝かではありませんよ。ですけど、ご存知でしょう。僕の場合、裏の歴史どころか、表の歴史だって相当に怪しく―――」
「時は戦国、乱世も乱世。群雄割拠の時代です」
「はあ…」
やれやれ。始まっちゃったよ。
「立花君。この関東で一大勢力を誇った北条氏については、むろん、授業で習っていますね?」
「ああ。はい。あれですね。あれ。1192作ろう鎌倉幕府」
「…………。」
「あれ? 違いました?」
「あのね。立花君。先生が言っている北条―――」
「あ。そうか。1185作ろうでしたっけ?」
「なるほど。どうやら、まだまだ。先生も修行が足りませんね」
「修行?」
「まだまだ、あなたを侮っていたということです」
「あの。それはどういう?」
「…まさか、ここまで酷いとは…」
と、そんなにがっかりされてもな。