〔伍〕軽々しく愛を語る勿れ。
いつの世も、親というのは、じつに有難いものである。
殊に、母親。母親からは、父親とは違った種類の思いというか、そうした何か、特別なものを注がれて育ったような気がするのだ。
また、それが気のせいでないのなら、その違いは何なのか。
片や、情報を提供しただけの者。片や、血肉を分けたのみならず、自らの腹中で育み、死ぬような思いで産んだ者。そうした意識の差であろうか。
…いや。待てよ…。母は、一号・二号のことを目に入れても痛くないどころか、自ら進んで目の中に入れてしまいそうな勢いで溺愛しているくらいなので、産んだ産んでいない云々は、あまり関係ないのかも。
ま、とにかく。母親からは、父親とは一線画する、別格な愛や絆のようなものを深く強く感じるように思うのだ。
それは、こういうことがあったからとか、何をこうしてもらったからとか、安い上辺だけのことを言っているのではない。
日々、日常の中に埋もれている、じつに些細なことの積み重ね。
それが、ふとこうしたときに、何かと忘れてしまいがちな感謝の気持ちを、僕に思い出させてくれるという話だ。
母親。それは絶対的な守護者であり、世界中の人間すべてを敵にまわそうとも、最後の最後まで我が子を信じ、我が身の犠牲も厭わずに、矢弾の盾となるだろう。
他所の家庭は知らないが、少なくとも、僕の母親はそういう人だ。
優しさの中にも厳しさが。厳しさの中にも優しさが。
人が人として生きていく上で、本当に大切な何かを知っている。
また、そこから僕も多くを学んでいる。
ちゅうても、ものすごく放任主義な人なので、母も僕も、子離れ親離れといったものは、随分と早かったように思う。
とても穏やかな性格で、何でも卒なくこなす良妻賢母。
が、その反面、ちょっとやそっとじゃ動じない、びくともしない肝っ魂。
おまけに、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ頑固者。
何たって、あの滅茶苦茶な父のところへ、まだ十七の若い身空で、押しかけ女房さながらに、強引に嫁いでしまった人である。
倅の口から言うのも何だが、その驚愕に値する無鉄砲っぷりは現在も変わらず、はらはらさせられることの多い、今日この頃である。
「美咲先生。一つ確認したいのですが」
「何です?」
「言ってましたね。粗方の甲を狩り尽くし、人間界に留まる理由がなくなったと。なら、その行動原理は?」
「捕食の他にありますか?」
ほんの数秒、僕は返答を躊躇した。
他にあるかと問われれば、ないこともなく、あるにはあるから。
強いて挙げるなら、正義的憤怒による調整役的な何かである。
人間が、やたらと増殖した鹿を狩るように、人間が及ぼす何らかの悪影響に腹を立てた妖鬼が、何らかの秩序性を保つために狩っている。
もしくは、娯楽。しかもそれは、幼児が蟻を踏み潰すくらい無意味で無慈悲な、単なる殺傷行為の愉悦というもの。
しかし、何れも完全否定こそ出来ないものの、その現実性は極めて低く、僕は、これらを割愛することにした。
「ですよね」
「成長過程で必要な栄養素、欠かせない何かを得るべく人間を襲った―――というのが現時点での仮説です。だからこそ、この人間界へ来るのではないか、鍾乳洞に来た妖鬼は、そうして充分に成長したからこそ、社の妖鬼より遥かに大きかったのではないか、…といったところです」
「だとしたら、鮭みたいな奴らですね。生まれた川から海に出て、丸々と太ったら再び故郷へ、みたいな」
「そうですね。それか、意外と郭公や杜鵑だったりするのかも」
「は? 飛ぶのもいると?」
「托卵のようだと言っているのです」
あれか。他所の巣に自分の卵を産んじゃうやつ。
「仮に。仮にです。仮に、妖鬼は異界で生またのではなく、この人間界で意図的に産み落とされていたのだとしたら?」
「そっ。そんな―――」
「仮にと何度も言ったでしょ?」
「…ああ。はい。すみません…」
何かと紛らわしいんですよ。その勿体つけた物言いが。
「托卵か。あれ。先に孵った奴が、他の卵を捨てるんですよね…」
と、げんなり言ったところへ美咲先生、追い打つように尚さら過酷な生存競争を淡々と聞かせてくる。
「鳥に限った話ではありませんよ。食物連鎖は弱肉強食。それが自然界の掟です。ある種の昆虫は、先ず始めに獲物を毒液で仮死状態にし、その体内に卵を産み付けます。そうすることで、孵化した子供は、生きたままの新鮮な餌を食べて成長することが出来ますから」
それも母の愛、…か。狩られた側は、たまったものではないが。
「じゃ、人間界は効率の良い狩り場なわけだ。格好の」
「捕食する側にとって、効率は最重要。死活問題ですからね。とくに子育てしない種族なら尚さら。効率重視の環境配慮は、母親として当然です」
色んな意味で、少し見直したほうが良いかも知れんな。母の愛。
「ちなみに、洞窟に顕われた妖鬼ってのは、そんなにですか?」
「そんなにです。それはそれは、まさに真上を見上げる巨体」
真上とな?
「そうですね。これも大雑把にですが―――」
美咲先生は、掛け布団からちょこんと出した右手、その細い指先を、荒々しくも愛嬌のある龍の描かれた天井へと向けた。
「概ね、そこの凹んだ辺りくらいでしょうか」
「へ?」
僕は中央が窪んだ折り上げ格天井の鏡板に目をやり、思わず、あんぐりとした。
いやはや、たしかに。見上げるほどの巨体である。
鴨居までが、およそ一間。そこから天井までが、ざっと見、二尺二寸くらい。
さらに、折り上げてある部分までを一尺として、およそ九尺二寸。センチで言うなら、優に二百七十強である。
「そりゃ、慌てますね。十や、そこらの幼い子供が、そんな怪獣もどきに踏み付けられそうになっていたら。ましてや、それが母親だったら尚さらだ」
「結構。理解が深くて何よりです。胸中、その焦燥も、相当だったことでしょう。しかし、それでも少女は、あらゆる不確定要素をも含め、すべてを瞬時に、冷静に見極めなければなりませんでした。それが有効であることは当然として、何より、間に合う手立てをです」
「何となく、すでに悲愴な感じが漏れ出ていますね。言葉から」
「そう?」
「はい。じわじわ」
「だとしたら、ごめんなさい。だって、一縷の望みを託した賭けは、すでに少女の悲しみが前提の上に成り立つもの。そうして導き出された結論ですから」
どうあっても、一筋縄では行かないらしい。
「少女は、ありったけの念を籠め、その足元に異能を放ちました。どうでしょう?立花君。今日のあなたなら、もう理解したのでは?」
「妖鬼を石化の異能で固めた?」
「その理解力が日頃からあれば、成績だって、もう少し何とかなるはずなのに」
余計なところへ飛び火した。
「けど、理解らない。それで、どうして悲しむ結果に?」
「ですが、単純に固めたわけではないのです。それだけの重量がある上に、動きのある物。その表面上ばかりを幾ら固めても、勢いを殺し切るのは不可能ですから。そこで少女は妖鬼そのものを、超強高硬度の鉱石に物質変化させることで、瞬時に完全停止させたのです」
最早、何でもありですね。
「ただし、石化の異能は音や光と勝手が違い、空間に飛ばしても何の効果も得られません。つまり、直接その手で触れていることが条件で、離れた対象に伝達させるには、何かしら、互いを繋ぐ物質を介す必要がありました」
「なるほど。故に異能を足元に放ち、その地面ごと―――って、あの。ちょっと。ちょっと待ってくださいよ。てことはですよ。まさか、娘も巻き込んで?」
「それが唯一。それだけでしたから…」
どこの家庭も母親ってのは、案外、無鉄砲なのかもな。