〔壱〕頭の良い奴ほど字が汚い。
さて。よくぞここまで付き合ったものだと、感嘆にも値するほど人の好い諸君のことだ。まさか《導》を飛ばすような横着はしない。するはずがない。
故に、妖鬼との死闘は、流してしまって問題なかろう。
辛くも妖鬼を倒した後は、日傘が予告したとおり。死なないのが不思議だと思うほどの激痛が僕を、情け容赦なく蝕んだ。
ちゅうても、すぐに意識を失ったので、それから何がどうなったのか、知らないことは語れない。
僕は深い眠りから覚めたように、細く薄っすらと瞼を瞬かせた。
場所は変わらず、本堂である。
蝋燭の灯る薄暗い中で、どうやら布団に寝かされているらしく、天井と、ぐるり囲んで覗き見ている複数の顔が、覚束ず、ぼんやり翳む、暗く狭い視界に入った。
「あら? ようやくですわね? お目覚め後の気分は如何?」
言霊が尽きて激痛に倒れ、朦朧とする意識すらも途切れた後だ。皆が言うには、倒れた僕と入れ替わるように意識の戻った美咲先生が登場して介抱。正確なことは判らないとしながらも、およそ三、四時間を経て、現在に至っているそうな。
なるほど。言われてみれば、道理である。
貼った者が剥がさない限り、激痛に悶絶しようと、意識が飛ぼうと失くそうと、護符の効果は失効しない。
が、内から開かないだけであり、外からならば、普通に開ける。
但し、一歩でも中に踏み入り扉が閉まると、もう抗いようのない強制力が仕事をするので、さながら現状は、駕篭の中の鳥だとか。
てことは、だ。もし意識を失っている間に再び妖鬼が…。
と想像をして、ぞっとした―――そして。
「…くそ。どうすりゃいいんだ。これ…」
そう。そして何も変わらない。何も好転しちゃいない。非常に如何ともし難い、何とも困った状況なのだ。
意識が戻ってくれたのは良いが、身体がびくとも動かない。気持ちに反して力は入らず、おまけに、ものすごい倦怠感。痺れも酷いし、金縛りだって、もうちょい動くぞ。
「ん?」
じつに今さらではあるが、何より肝心なことに気が付いた。
「あの。ところで、美咲先生は何処―――」
「立花君…」
なぬぅっ?
突然、耳元で囁かれた声に、素で心臓が止まるかと思った。
何せ、暗いし仰向けなので、真横は死角になっている。僕を覗き込む輩にばかり意識が向いて、まったく気付けなかったのだ。
「無茶をしましたね」
「ちょ。ちょっと。あの―――」
「そうですね。違いますね。無茶をさせてしまいました…」
「いやいや。それはともかく―――」
「どうせ、まだ動けないでしょうに。今しばらくは、このまま身体を休めなさい。無理に動こうとすれば、その分、回復も遅れます」
「あ。や。その―――」
「それとも、迷惑ですか?」
「馬鹿を言うなっ!」
つい、興奮気味に否定した。
「…あ。いや。すみません。だけど、どうして…?」
「ぴったり密着することで、それだけ回復力が高まります」
ぴったり密着、…か。よもや、裸なんてことはあるまいな。
「あのね。立花君…。変な誤解はしないように。先生だって、とても恥ずかしいのですよ? 男性に。その。こんなふうにするのは…」
横目で見ている僕と目が合い、美咲先生は、そんな気恥ずかしさから逃れようとしてか、顔を掛け布団の中に埋めてしまった。
なもんで、僕は胸が♡きゅんとして、そろそろ心臓が不安である。
「ですから、あなたも我慢なさい。それに、あなただったら大丈夫」
大丈夫?
「変な気は起こしたりしないでしょう? このあと元気になってからも」
まんまと手足を縛られた。信頼という名の縄紐で。
「とにかくです。治療だと思って、しばらく静かにしていなさい」
「つまり、美咲先生には、そういう能力が?」
「能力、…とは些か違う気がします。言うなれば、体質のようなものでしょうか。生まれついての」
どういうことか。
「美咲先生。あの…」
僕は提案してみた。いつ再び妖鬼が顕われるかも判らない、この綱渡りのような現状を打破すべく。
「僕の意識が戻った今なら、例の小筆で何とかなるんじゃ?」
すると、それが出来るなら苦労しないわと、冷めた感じに化学が嘆いた。
たしかに、美咲先生に筆を握らせてもらい、日傘に続いて言霊を詠めば、それで効力は発動する。
だが、ろくすっぽ体力も戻っていない状態では、言霊が尽きた途端、その反動と激痛により、まず間違いなく死んでしまうとか。
「…そ。それは。それは、ちと困りますね…」
ならば、時間との勝負である。
新たな妖鬼が顕われる前に、一刻も早く回復させる。
もしくは、三矢達の登場を、こうしてびくびくしながら祈るばかりだ。
けれども、それにしたって腑に落ちない。どうにも何かが変なのだ。
じつは各々各自、三矢も彼女も、僕の首に鈴を付けている。
むろん、それは物理的な意味ではない。
簡単に言うと、ぶっちゃけ、監視のようなものである。
天吹さんと僕とでは、その重要度合いが比較にならない。
故に三矢は四六時中、それこそ天吹さんの影が如く傍らに寄り添い、闇側に目を光らせているのだ。
しかし、その度合いこそ天と地ほどの差はあれど、僕とて重要な立場にあるのは変わらない。それが、最重要ではないだけだ。
要するに、これだけの危機的状況を彼らが放置するはずがないのである。また、放置するどころか、妖鬼と一戦おっ始めた直後に、あの扉を蹴破り入って来ても、何ら不思議はなかったのだ。なのに…。
「美咲先生」
「お腹が空きましたか?」
何故、そうなる。
「ここは、一体…」
どうにも釈然としないまま、僕は率直に訊いてみた。
「一体、どういう場所ですか?」
静謐な時間と空気が流れゆく部屋、美咲先生の小さな息遣いだけが、僕の鼓膜を震わせた。
「…ごめんなさい。正確なことは、わたくしにも…」
「構いません。ここにいる皆や、美咲先生の思う―――」
「だけど、少なくとも、あなたの知らない世界です」
世界? 世界だと?
「…なら、美咲先生の言う、僕の知らない世界とは?」
「そうですね。平たく言うなら、異世界でしょうか」
馬鹿な。それは有り得ない。それは違ますよ、美咲先生。
そんな言葉を、僕は、ぐっと飲み込んだ。
荒唐無稽な話だが、たしかに、異なる世界は存在する。
この現世を含み、世界は三つに分類できるのだ。
およそ一年前のこと。僕ら兄妹は桜の間にて膝を突き合わせながら、世界の成り立ちなんてものについてを聞かされた。
その際、仔猫のような少女、もしくは、少女のような仔猫の代わりに説明を請け負った由良は、三つの世界を一枚の紙切れだと表現し、引き千切った画用紙に汚い字で、光側、その裏面に闇側と書き殴ってから、どちらの側面を向けるでもなく、それを僕らの眼前でひらひらと揺らして見せた。
聡明な諸君のことだ。容易に理解しただろう。
そう。現世は画用紙そのもので、光と闇、そいつを現世が隔てているのだ。
事実、僕は闇側の地を二度も踏んでいる。
一度目は、拐わかされた天吹さんを奪い返しに。
二度目は、不本意ながらも置き去りにした、仔猫のような少女、または、少女のような仔猫を救いに。
また、光側こそ未踏だが、話は何かと聞いている。
何せ、三矢達は光側からの使者だもの。
さて。話を戻そうか。
世界は三つ。現世・闇側・光側。それで全てと知っている。
なればこそ、美咲先生の発言に対して、僕が反論したくなるのも当然だろう。
少なくとも、ここは闇側ではない。尚且つ、人間の魂だけを弾き出すという話を聞いて疑いを持ったが、関与もないと断言しよう。
また、それは光側も同じくだ。
ならば、ここは何処なのか。ここは、どういう場所なのか…。
「結局のところ、美咲先生は何者なんです?」
耳元をくすぐるように、くすりと苦笑の吐息が掛かった。
「あのね。立花君。先生は、先生です。何処にでもいる普通の高校教師。あなたの担任。それだけです」
何処にもいません。こんな裏の顔を持つ高校教師は。
「そう。立花君。あなたと何も変わりません―――ただし…」
「ん?」
「…ただし、ちょっぴり少し長生きですけど」
何が何やら。結局、はぐらかされたのか?




