〔拾玖〕そんなの絶対、嘘だから。
混沌を極め、尚且つ、じつに火急な状況である。何故に火急かを説明するのも、端折ってしまいたくなるほどに。
少しだけ時間を遡ろう。ちゅうても、ほんの数分だ。
『もしっ! もしっ! 立花さんっ!』
再び始まった奇怪な音は、もう不快どころか、周囲の空気を震わすように、びりびりと腹の底にまで轟いた。
どうやら、それが原因らしい。
すると、そぐそこ目前にまで迫り来るような圧迫感が、僕にあらぬ幻影を見せたのだ。
妖鬼である。
むろん、見たこともない妖鬼の容姿は、僕が脳内で勝手に創り上げてしまった、身の丈は天井にも届くほどの、圧倒的な怪物そのもの。
『駄目っ! 音に飲まれてはいけませんっ! 流されないでっ!』
がたがたと身体は強張り、独り恐怖に慄いた僕は、三つ編みの呼び掛けによって何とか我に返ったが、その恐ろしい姿が脳裏と瞳の奥に焼き付いてしまい、すぐに再び顕われた。
幻影なのだと判っていても、恐怖が身体を縛り付け、何一つとて儘ならず。
そこへ矢継ぎ早に言葉を浴びた。
『立花さん。意識を集中させてください。気を強く保つのです』
『どういうわけか、彼らは熟知しているの。人と、その心をね』
『いやらしい奴らだよ。隙あらば、恐怖で縛ろうとするのさ』
『故に、申したのでござる。腹が減っては戦にならぬと』
『おお。そうか。小僧よ。お主、茶を吐き出してしもうたの。早よう飲むか食すかいたせ。然すれば、惑わされることもなくなるでの』
そんなこんなで、もう待ったなしの状況なのだと、我が身を以って思い知った。
こうなりゃ、何故とか理由とか、そんなことはどうでも良い。
僕は茶を飲み、茶菓子を食らい、それがどう役立つのかも理解らぬままに、件の品々を手に取った。
時計やら小筆やらを、膝の下まで届く、愛着ある外套の懐に忍ばせ、重い拳銃は化学から言われたとおりに、腰裏のあたりへ突き挿した。
残るは、ぴくりともせず横たわる美咲先生の傍らで、所在なげに転がっている、朱の鮫鞘に収められた一口のみ。
人生、一寸先は闇である。祖父が研ぎ、まさか自ら届けた刀を自分が。しかも、理由が妖鬼退治とはな…。
「小僧。用意は出来たかの?」
八つ当たっても仕方がない。それは重々わかっちゃいるし、もう、それくらいの分別は付けられなければならない年齢である。
ただ、どうにも気持ちが収まらず、僕は見りゃ判るだろと言わんばかりに、空となった盆の上を、ぞんざいな態度で指差した。
ところが幼女は知ってか知らずか、そんな気持ちを逆撫でるように、何とも馬鹿げたことを訊いてくる。
「ああ。すまぬ。言葉が少々違ったの」
あ?
「では、改めるでの」
何だ。
「小僧。覚悟は出来たかの?」
「…………。」
さすがに怒鳴ってやろうかと思った。
覚悟する。それはつまり、死をも受け入れるということだ。
出来るか。出来るわけがなかろうよ。覚悟なんざ、何をどうすりゃ出来るというのか。ふざけるんじゃない。
が。しかし、だ。
臆する心とは裏腹に、豈図らんや、この滅茶苦茶な状況にありながらも、そこに救いの光を見ていることも事実である。
そう。戦うという選択肢があることに。ただ死を待つばかりではないことに。
強い者が勝ち、倒せば生き残る。極めて平等な弱肉強食の理に僕は、一縷の光を見ているのだ。
おそらく、これは本能だろう。
死にたくない。殺されたくない。生きてやる。死んでたまるか。
ならば、どうする。
そうだ。戦うしかない。戦って勝つしかない。
そうした生への渇望が僕を、弱い心を、逃げたい気持ちを、ぎりぎりのところで何とか繋ぎとめている。
三度。三度だ。三度だぞ。
僕はこの三年足らずで、三度も死にそうな目に遭っている。
その度に絶望し、同時に達観してきたのだ。
理解るか。それが、どういうことか。
絶望し、達観する。
それは、死を自然の摂理として受け入れたということだ。
だから、そこに恐怖はなかった。自然の摂理を、僕の魂が悟ったから。
なればこそだ。現在もこうして五体満足に生きている僕は、何よりも、死というものが怖くてならない。
いいか。諸君。これだけは言っておく。
一度でも死を達観し、けれども死なずに済んだのなら、今度は命が惜しくなる。拾った命が惜しくて惜しくて、誰にでも訪れる自然の摂理を、誰より遠ざけようとしてしまう。
たまに漫画やアニメで『一度は死んだ身。惜しくはないさ』なんてことを笑顔で爽やかに言うけれど、そんなの絶対、嘘だから。
「キミ。仏頂面してる場合じゃないわ。早く護符を探しなさい」
ごふ?
「念を書き留めた紙札。彼女が持っているはずだから」
「…あ。いや。けど、探すって…」
「そうね。ポケットはついていないし。だとすると、…ね」
おい。まさか。
「ただし、余計な動作は認めない。揉んだり舐めたり挟んだり」
挟むって何だ。挟むって。
「急ぎなさい。早く」
「…そ。その。それは、どうしても必要―――」
「立花殿。無用な問答。それは時間の浪費にござるぞ」
「敵は待っちゃくれないよ。こちらの都合はお構いなしさ。ま、適当に弄ってりゃ出てくるさね。胸でも股でも」
いや。股には絶対ないと思う。
「キミ。とにかく探すの。気が引けるのは理解るけど、今は状況が状況よ」
「立花さん。本当に必要な物なのです」
やれやれである。そうしなければならないという大義名分を得た僕は、心の中で詫びながら、美咲先生の細い身体に手を掛けた。ちゅうても、首から胸にかけての釦を幾つか外しただけであるが。
「あら? その表情は何ですの? あっさり見つかって残念?」
何となくだが、こいつもこいつなりに、僕を気遣っているのではなかろうか。
日傘と帽子で隠しながらも、ずっと口を噤んだまま、ちらちらと心配そうに僕のことを見ていたのだ。
だからこそ、こうして茶化すことで、僕の緊張やら恐怖やらを少しでも解そうとしてくれているのではなかろうか。
「あら? 何か言いたそうですわね?」
「いや。あなたとは、あとできっちり話をつけさせてもらいます」
「あとで?」
「あとで」
「約束ですわよ?」
ああ。人生、百年時代。妖鬼だか何だか知らないが、こんな形で終われるか。
「立花さん。用意が出来たなら、こちらから打って出ましょう」
さよさん。あれほど狼狽していた割には、意外と好戦的ですね。
「大丈夫ですか? 忘れ物はないですか?」
「美咲先生は、このままでも?」
と一応、訊きはしたけれど、実際に動かすとしたら厄介だ。
いいか。諸君。これも言っておく。
たまに漫画やアニメで見かけるが、姫様抱っこは、相手に意識があってこそだ。赤ん坊や幼児じゃあるまいし、意識がなく完全に脱力し切った人間の重いこと重いこと。背丈がある分、ぐにゃりぐにゃりと力が入らず、そのうち腹が立ってきて、最後は蹴り飛ばしてやりたくなる。
ましてや、そいつを普通の高校生が地べたから腕だけで抱き上げ、そのまま遠くまで運ぶなんざ、そんなの絶対、嘘だから。
「問題ありません。そのままで。あなたが妖鬼を倒してからで」
その自信満々な信頼は、何を根拠にしているのか。
しかし、不思議と恐怖が薄らいで、不思議と勇気が湧いてくる。
なるほど。これまでにも似たようなことが何度かあった。言葉に力があるというのは、存外、嘘ではないかもな。
「小僧。どうした。何をしておる」
僕は美咲先生の左腕を掴み、外したままの手袋を、そっと冷たい左手に被せた。
聡明な諸君に説明は無用。言わずとも察しているに違いない。
と勝手に決め付け、これまで言及せずに来たけれど、こうして手に取り良く良く見ると、やはり信じられない気持ちで一杯だ。
掴んだ感触で判る。おそらく美咲先生の左腕は、肘から失われているのだろう。
その代わり、…と言って良いものか。そこには、我が目を疑い瞠るほどの、精巧緻密な義手が付いている。茶を淹れたり、小さな竹挟みで茶菓子を取り分けたり、その取り分けた茶菓子の皿を、何ら不便なく差し出せるほどの。
どうせ由良のやることだ。これも希少な特殊金属とやらだろう。
こうして内部の構造が剥き出しになった状態で見るのは初めてだけど、やがては皮膚に被われるはずだ。作り物ではない、自身の皮膚で。
「さあ、立花殿。いざ、参ろうぞ」
僕は美咲先生の手を静かに組ませながら、しみじみと思った。手足の一、二本で済んでくれるのなら、それは安いものかもしれないと。




