〔後編〕会話は、相手の目を見よう。
唐突な言葉に、? とはなったが、僕は直ぐに思い出し、細く長い鎖を掴んで、懐の奥から引き出した。
鎖の先には、鉄か銀か、つるりとしているという以外には、これといった特徴のない、丸く平たいだけの懐中時計が付いている。
西洋の古い物らしい。上蓋を開くと、日頃は馴染みのない数字の文字盤があり、壊れているのか、秒針はぴくりとも動いていない。
「使わずに済めばと思っていたのだけれど、そう上手くはいかないわね。だけど、あまり気乗りはしない。そういう代物よ」
覚悟しろってことか。
「キミの体力と肉体を考慮すれば、十倍速で十秒間。それが限界」
何が何だか。
「だけど、その効力を発動させれば、一秒間が十秒間。その間だけ、キミは紛れもなく超人よ」
時間感覚の延長?
「違うわ」
まだ何も言ってないだろ。
「感覚延長ではないし、また、時間が止まるとか遅くなるとか、そういう類のものでもない。神様じゃあるまいし、時間をどうこう出来ないわ」
なら、何だ。
「時間は、これまでどおり流れゆく中で、唯一、キミだけが時間から外れたように動くことが出来る存在となる。それはつまり、超人」
さながら、少年漫画である。
「でも、現実よ」
やめてくれませんかね。それ。こちらの思考を予測して喋るの。
「仮に、キミが百メートルを十秒で走れるとした場合、この効力を発動させれば、キミは百メートルを一秒で走ることが出来るようになる。それが十倍速」
ろくなことにならない予感が。
「けれども、ここからが重要。言ったように、時間が止まるわけでも、ゆっくりと過ぎるわけでもない。本来であれば、十秒間の作業で得るはずの結果を、たったの一秒間で得たに過ぎないの。…理解るわね? それに見合うだけの代償はあると」
「てことは…」
「大丈夫。多分、今度は正解よ」
何が。
「キミの予想」
やはり、ろくなことにはならないらしい。
「さあ、立花殿。成敗の時でござる。いい加減、この情けない格好を改め、収めているものを抜かれよ」
「いいかい。小僧さんよ。一つ言っとくがね。こっから先は、やるかやられるか。それだけさね。もう鉄砲も抜いときな」
妖刀というやつであろうか。鞘から抜くや否や、金色を纏う不思議な刀身。
鈍色、回転式の拳銃も、その弾倉から、何とも怪しげな光が漏れ出ている。
右手に拳銃。左手に刀。そして、眼前には【妖鬼】が。
僕はごくりと固唾を飲み込み、懐中時計の竜頭を引いた。
―――発動。
…はて? とくに何が変わったという感覚はないが…。
「何してるのっ! 行きなさいっ! 早くっ!」
ぼけっとしていたのは確かだが、何も、いきなり怒鳴ることはなかろう。
焦った僕は妖鬼との間合いを詰めるべく一気に―――凸★$○▲¥∞◇!
力一杯、顔面を打っていた。
それはまるで岩のよう。固い固い妖鬼の胸板。見上げたそこには妖鬼の顔面。
なるほどね。何とも間の抜けた話ではあるが、どうやら十倍速な自分の動きに、視覚と脳が、置いてきぼりを食ったわけである。
牙をむき、唸り、妖鬼が仁王立ちで僕を見下ろす。
途端、恐怖が僕のすべてを支配した。
もう理性なんざ遥か彼方まで吹き飛び、半狂乱で妖鬼を滅茶苦茶に斬りつける。
「そうそう。その感じ。間、髪を容れず、斬って斬って斬りまくるのみにござる」
「…きっ。斬るったって、こんなのっ…!」
何と硬い皮膚だろう。一見、鱗のように思いもしたが、そいつはまったくの見当違い。聞いていたとおり、まさに亀の甲羅である。
くそ。あのじじぃ。本当に研いだんだろうな。これ。
と訝しがる僕の心を見透かしたのか、それを女子が一刀両断。
「斬れぬのは技量。刀のせいではござらん」
最早、斬るというより、力任せに叩きつけているといったほうが正しい。
一心不乱、僕は死に物狂いで剣を降らせた。
「だりゃぁっ!」
ようやく砕き割れるように開いた妖鬼の額。その裂け目から、鬼角の付け根と、収縮を繰り返す臓器のようなものが見て取れた。
「小僧さん。遠慮は要らないよ。ぶち込んでやりな。全弾」
ああ。言われずとも、毛頭、遠慮なんざする気はない。
僕は妖鬼の額の裂け目に向けて、その冷たい銃口を突き当てた。
撃鉄を起こし、引き金に掛けた指へ、そうっと力を込めてゆく。
すると、呼吸すら躊躇われるような張りつめた空気の中、低く重く、地の底から轟くような、妖鬼の唸り声が沈黙を破った。
力無く項垂れていた妖鬼が、緩慢に、躊躇を誘うようにこちらを見上げる。
怖い。ただただ、怖い。これまでとは異質異様な、得体の知れない恐怖である。弱い心の奥の底から、無数の魔の手が伸びてくる。
そんな錯覚を見ているような、深くて暗くて冷たい恐怖。
かちかちと鳴る耳障りな音。それが自分の歯と歯の当たる音だと気付くまでに、僕は何秒くらい掛かっただろうか。
「小僧さん。ちょいと指を動かすだけさね」
ああ。そうだな。しかし、それが出来ずに困っている。
「立花さん。あの。そろそろ言霊が…」
なぬっ?
「小僧。直に言霊が尽きる。そうなれば。その。…のう?」
「ですわよ? 言霊が尽きた後は元の状態―――ううん。違いますわね? 何せ、彼女の効力発動で酷使し尽くされた筋肉の、夥しい断裂と著しい疲労が重なりますのよ? それこそ、地獄の苦しみ。死なないのが不思議と思うくらいだと、今から覚悟しておいたほうがよろしいですわね?」
なぁぬぅっ?
ある程度は覚悟していたが、まさかそこまで。
もう怖いだの何だのと言っている場合ではない。僕は顔を遠ざけるように身体を反らせて、かつかつと歯を打ち鳴らしながらも、恐怖で強張り固まった指に再び、そっと力を込めて行く。
と次の瞬間、妖鬼の瞳が、かっ、と大きく見開かれた。
本能的なものだろう。その瞳の光で、妖鬼の思考が理解った気がした。
果たして妖鬼は刀を掴みにかかり、その刹那、僕は引き金に力を込めていた。
ああ。遠慮なんざするか。
僕は恐怖をねじ伏せ、心の片隅に引っ掛かっていた僅かな慈悲も断ち切った。
やるかやられるか。つまり、殺らなきゃ殺られるのだ。
最後の一発が――― ぱんっ! ―――小気味の良い乾いた音と共に弾かれた。