〔拾参〕どんな非常時にも、緊張感のない奴は必ずいる。
「ご覧のとおり、病気というのは口実です」
「…………。」
「しかし、他に説明のしようがなかった。病気としか」
「…………。」
「退職を願い出ました。だけど、学校側から熱心に引き止められて」
「…………。」
「それに、わたくしも皆と別れるのは寂しいですから…」
「…………。」
「けど、辞することになるでしょう。それも、それほど遠い未来を待たずに」
「…………。」
「立花君?」
「…………。」
「いい加減、何か話さないと、また彼女に叱られてしま―――」
「ちょいとちょいと。お咲。あたしも、そこまで厳しかないさ」
「そうかしら?」
「小僧さん、すっかり放心しちまってるけど、ま、そいつも無理はないさね」
「むぅ? 立花君。本当は、お腹が空い―――」
「放っときなって。しばらくは、あんたが勝手に話しておやりよ」
放心? 違う。あらゆる意味での絶句である。
まず、美咲先生に、何と声を掛ければ良いのか判らない。
次に、美咲先生の言葉に、何と返せば良いのか判らない。
嘆き慰めるべきか、笑い飛ばしてあげるべきか判らない。
まだ十数年しか生きていない僕には、そいつが判らない。
こういう時、どんな表情をすれば良いのか僕は知らない。
こういう時、どんな言葉が人心を救うのか僕は知らない。
が、しかしだ。どれほど科学進歩が目覚しくとも、こんなことが出来る人間は、この世に二人しかいないことを知っている。
「立花君? 話を続けても?」
僕は黙したまま、大きく一度だけ頷いた。
「随分、脱線してしまいましたね。一度、話を社へ戻しましょう」
自覚、…か。結局、そのあたりのことは理解らないままだけど、僕は僕なりに、とても真剣真面目な表情を繕っているつもりだ。
「…あのね。立花君…」
何故か、くすりと笑い、美咲先生は一呼吸してから語り始めた。
社に逃げ込む者は、それからも後を絶ちませんでした。
言わずもがな、恐ろしい噂のせいで家に閉じ篭り、頭から布団を被って押入れに隠れていたような者までが、生き神様の帰還を耳にするや否や、戸を蹴破るようにして家から飛び出し、一目散に社へと向かったのです。
さらに、近隣の村々からも大勢押し寄せ、境内は人々の悲喜交々で何とも乱雑な光景になりました。
少女の足に泣き縋り、これで救われると手を合せて拝む者はまだしも、おかしな呪文やら意味不明な祈祷の真似事をする者。
正体どころか、原因すら判ってもないのに、若い娘を生贄として差し出そうと、理不尽なことを声高々に主張する者。
その若い娘に暴行しようと、茂みに引きずり込もうとする者。
恐ろしい噂もどこ吹く風よ。この機を逃してなるものかと店を広げて、せっせと金儲けに励む者。
または、長引く恐怖と極度の緊張感で精神をやられてしまい、支離滅裂なことを喚き散らしながら暴れる者や、まるで子供が八つ当たるように、誰彼構わず暴力を振るう者。
不思議なもので、今も昔も人の心理は、それほど大きく変わっていません。
過度の恐怖は徒に人間の感情を煽り、そうのようにして膨らんだ不安は、新たな恐怖を生み出してしまう。言わば、悪循環というやつです。
また、それらは伝播しますから、集団になればなるほど性質が悪い。
救いを求めて逃げ込んだはずも、そうした地獄絵図さながらの様相が織り成す、陰で鬱な邪気に呑まれてしまい、ついには、神経が持たずに自暴自棄となる者が、次々とあらわれたのです。
柱に縄を掛けて首を吊ろうとする者。
社殿の屋根に上り、飛び降りようとする者。
知人に金銭と鎌を手渡し、首を刎ねろとせがむ者。
あんなふうに乾涸びて死ぬくらいならばと悲観するあまり、家族を道連れに無理心中をしようとする者。
さらには、社殿に火を放とうとする、自棄になった愚か者まで様々に。
して、そんな阿鼻叫喚の最中、事態は一気に動きました。
危機感どころか緊張感の欠片も持たず、この機に乗じて一儲けしようと目論んでいた的屋の男は、社の入り口、鳥居の近くに設けた屋台で、串に刺した魚を焼いていた。
が、急に社の外を指差すと、それこそ零れ落ちんばかりに目を見開いて、言葉にならない言葉と悲鳴とが入り混じる奇声を発して、社の奥へ奥へと逃げはじめたのです。
社に詰め寄せている村人の殆どは、突如、乾涸びてしまったという者達が、その最期にとった行動を、実際に見たわけではありません。
しかし、風の噂で聞いている内容と、まさに同じ状況が目の前で起きている。
そう。そこに何があるのか、そこに何がいるのかは判らなくとも、少なからず、恐ろしい何かから逃れようとしていることは明らか。それを、ただ立ったまま見ているだけの者はいないでしょう。群集は、的屋の男だけを残して置き去るように、海辺の波が引くように、あっと言う間に右へ左へ割れました。
ぽつんと独りきり取り残されてしまった的屋の男は、腰を抜かし、必死の形相で泣き叫びながら、周囲に助けを求めます。
けれども、助けようとする者は皆無。誰一人として手を貸そうとする者はなく、事の行く末を、恐怖と哀れみめいた表情で遠巻きに見ているだけ。
腹這い、じたばたと藻掻くように手足を動かし、何とか拝殿の前まで逃げてきた的屋の男は、目に一杯の涙を浮かべて、あまりの恐怖に失禁までしています。
少女はとても見ていられずに、幼い娘を強く抱き締めながら、これより先、男に起こるであろう惨劇から目を背けました。
ところがです。そうした様子を本殿の脇奥から見ていた少女は、何とも身勝手な輩に腕を掴まれて、拝殿の前まで引きずり出されてしまったのです。頼みますと。生き神様の出番ですと。お願いしますと。
しかして無理難題を押し付けられた少女でしたが、何も、どうにも出来ません。何せ、それは無理難題なのですから。
だけど、こうも思いました。
夫の最後と、その原因を知るには、自分の目で見るしかない…。
少女は、的屋の男に心の中で詫び、逃げてきた道筋、何かが迫って来ているのであろう方角に向けて、その目をしっかりと凝らしました。
群集は左右に割れていますから、視界を遮るものはありません。視線の先にあるのは、真っ直ぐ延びた石畳の参道と鳥居だけです。
少女は何度か瞼を瞬かせ、さらにさらに目を凝らしました。
なのに、何故か焦点が定まらず、逆に眩暈のような感覚が…。
少女はきつく目を瞑り、何度も何度も、指の腹で両の瞼を押したり擦ったり。
また、何度か軽く頭を振って深呼吸を数回。これといって特別なことは何もしていません―――しかし。
しかしです。しかし、少女の中で、異変は確実に起きていた。
自覚も無しに瞼を開けると、そこには妖鬼の姿がありました。
と同時に次の瞬間、少女にすべての記憶が戻ったのです。
そう。それは、奇跡の蘇りが起きる前の記憶。雷に打たれる前の記憶…。
それが、走馬灯のように頭の中を駆け巡り、少女は突然、何もかもすべてを思い出し、すべてのことに納得するのでした。自分が生き神として崇められた経緯と、故に、現在こうして妖鬼と対峙させられていることの道理をすべて。
妖鬼はぴたりと足を止め、地べたを這いずり藻掻く男から、視線を少女のほうへ移しました。
少女も妖鬼をじっと見て、それが金太郎ではないと気づきます。
ならば、この異形は…?
少女は慌てて過去の記憶を振り返りました。
けれども、何の役にも立ちません。少女の知る異形は、金太郎と自らが名付けた妖鬼だけです。
そうして混乱する最中、さらに愕くことが起きました。
群集の中から、さらに二体の異形が姿を顕わしたのです。
異形は、やはり妖鬼でした。
しかも、少女は見たのです。人間を、妖鬼が素通りする様を…。




