〔拾壱〕目で見たことが、必ずしも真実とは限らない。
「あ。そうそう。いけないいけない。すっかり忘れていましたね」
明らかに上機嫌な美咲先生は、漆塗りの菓子器の上蓋を開け、僕を屋敷へと招く際に言っていた美味しい菓子とやらを、竹で出来た小さな挟みで、菓子器と揃いの皿に載せた。
「知人からの頂き物です。お口に合うと良いですが…」
菓子は平たい簡単な作りで、特徴的な日桂の香りが、中学の修学旅行を断片的に回想させる。
「ありがとうございます。いただきます」
日頃、食べ慣れていないせいで、正直、甘いものが苦手である。
僕は「お話の後で…」と付け足して誤魔化すと、受け渡された皿と菓子切りを、幾分、遠ざけるように畳へ置いた。
その様子を、美咲先生はちらと横目で見ていたが、それについては何も触れず、新たに淹れ直した茶の色を確かめるように、少しずつ少しずつ、やはり新たに用意した茶碗へ注ぎながら訊いてくる。
「襲われる際、姿を見た者。襲われず、姿も見ていない者。しかしながら、後者も見ようとしなかったわけではないでしょう？」
何とも、結論ありきの問いである。
べつに疑うつもりはない。ただ何となく誘導のようなものを感じた僕は、わざと悩んでいるような素振りをした。
「…どうかな。どうでしょうね。それは…」
さて。これまで聞いた話の何を、どこまで信じたものだろう。
とまあ普通なら、そんなことは悩むまでもなく一笑に付して、久しく会った担任教師の正気を疑うだけでいい。
しかし、僕は普通ではないので、嫌でも悩まざるを得ないのだ。
いやいや。誤解してもらっては困る。普通だ。僕は普通なのだ。僕という人間は普通であるのだが、ちと普通ではない経験をしているせいで、これらすべてを妄想として片付けるわけにもいかず、仕方なく、已む無く悩んでいるという話である。
第一、小鳥のことはどうだ。あれは錯覚なんかじゃない。
ま、何の経験もない普通の奴なら、手の込んだ悪戯、手品の類と断ずるだろう。
が、僕には判ってしまうのだ。あれは見たまま現実なのだと。
ならば、その真実を否定してどうする。
それに、闇側の件があるではないか。この程度の話を聞いただけでは、まだまだ無関係とは言い切れない。もし万一にも疑いがあれば、最優先で手を打たなければならない事案だ。
ちゅうても、僕に何が出来るわけではない。僕に出来るのは、ここで見聞きしたことを三矢に報告―――って、おい。
そうだよ。そもそも、この手の話なら、それこそ三矢が適任だろうよ。
どうする。こうなりゃ、今からでも連れてくるか？
「しかし、その状況で見ることを放棄するのは、自殺行為かなと」
やれやれ。今さらながら、天吹さんの厚意を無下にした自分に腹立つ。
「ましてや、僕らのような視覚動物なら尚さら。そんなのは、殺してくれと言っているようなものですね」
日頃は、まったく思わない。
けど、こうしたときだけ少し思う。携帯電話があればなと。
「目を閉じたり手で覆ったり？ まさか死ぬかもしれないってな瀬戸際に、まさかそれは有り得ない」
とは言うものの、余程の諦観をしたのなら、それも話しは違うがな。
「人間が乾涸びる様子なんざ、誰も見たくはないでしょう。だけど、本能的に次は自分がと悟るでしょうし、むしろ、逆に何が起きているのかを必死に見ようとしたはずで、少なくとも、僕ならそうです」
すると、元より上機嫌だった美咲先生は、尚も嬉しそうな表情を浮かべて、右の手の平で小さく膝小僧を打った。
「結構」
「はい？」
何です。その目の輝きは。
「あのね。立花君。わたくしが、何故これほどまでに回りくどく話をしているか、理解りますか？」
「…いや。全然…」
というのは真っ赤な嘘である。何となくは予想も付くし、美咲先生だって、そのためにこうして一生懸命、語り聞かせているのだろう。
「それは、あなたのため。きちんと理解させると同時に、きちんと自覚をさせたいから」
「自覚？」
この ？ は嘘ではない。一体、何を自覚しろというのか。
「彼女達のことを話す際、先生は言いましたね？ 努力や訓練でどうにかなるものではないと」
「はい」
「それは妖鬼も同じなのです」
「…………。」
「姿を見たから襲われた？ 違います。襲う者にだけは姿を見せる？ それも違います。見ることが出来る者と出来ない者。ただそれだけです。単純に」
「…………。」
「今こうして彼女達を視認出来ている我々は、妖鬼のことも視認出来ます。でも、それは妖鬼からしても同じなのです」
「…………。」
「わかりました。ならば、もっと簡単に説明するとしましょう。妖鬼を見ることが出来る者を甲。出来ない者を乙とします」
「…………。」
「妖鬼は、甲を見ることは出来ますが、乙を見ることは出来ません。何故ならば、妖鬼にとって、乙は存在しないのです」
